第七話 嫌な気持ち、嫌な気持ち
完全な誤算は、連続するものだ。
私は頭を抱えていた。ディリニー侯爵夫人に、教会の真ん前に置き去りにされたからだ。
「結婚式は今日です。すでに中にセラフィエル様がいらっしゃいますから、そのまま入ってください」
それだけ言って、ディリニー侯爵夫人と彼女を乗せた馬車は去っていった。
私は抵抗する暇もなく、ショルダーバッグ片手に呆然としていた。
初めて訪れる王都、そのど真ん中のまったく土地勘もない場所で、目の前には巨大な、初めて訪れる教会。
右腕のせいで私はろくに屋敷の外に出ることもできず、教会など生まれて初めて目にした。外から見ても分かる壁一面のステンドグラスに、幾つもの竜骨が剥き出しになった小高い建物。その様子から古くよりそこに佇んでいて、人々が大切にしてきたのだろう、もしかすると何百年と歴史のある教会なのかもしれない。
とはいえだ、私は教会へと足を一歩踏み出した途端、体に悪寒が走った。それでも進もうとすると、右腕が派手に震えはじめた。その震えは全身に伝わり、とてもではないがこれ以上教会へ近づくことはできない。
これでは、結婚式どころではない。いくら私の腕が悪魔の右腕だからって、教会に来るだけでこうなるとは予想外だ。
「入れない……すごくぶるぶるするんですけど」
私はうぅ、と唸る。何だか悔しい。たかが腕のせいで、なぜ結婚式にさえ行けないのか。
雲行きが怪しくなってきた。それでも、私の足は動かせない。右腕を抑えることで精一杯、それ以上何をしろというのか。どうにか後退りだけはせずに済んでいるという有様で、どうすればいい。
情けなさに、涙が出そうだ。知らない土地にいることも、それを手伝う。
その上、ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。二進も三進もいかない、この状況を打開する何かはないか——そう思っていたところ、教会の扉が開いた。
中から出てきたのは、いかにも上等な仕立てのスーツに、アスコットタイ、茶髪の癖毛を後ろへ流した青年だった。美形といえば美形だ、しかしそれを鼻にかけている雰囲気がありありと感じ取れる。
「何事だ?」
その一言がすでに傲岸不遜さを醸し出していたほどだ。青年は見下すような目を私へ寄越し、こう問う。
「お前がウォーガンド伯爵令嬢か?」
そう呼ばれたことなどなかったから、反応し損ねるところだった。
私は慌てて頷く。
「は、はい。あなたはセラフィエル様でしょうか?」
「ああ。さっさと中へ入れ」
「それが、その」
私は、右腕を出してみせた。青年、セラフィエルは驚きと嫌悪の表情を見せる。だが、震えている黒い右腕と、私の足が同調していることくらいは分かったのだろう。そして、私の右腕についての事情は、知っているはずだ。
あからさまなため息とともに、セラフィエルは扉の中へ手招きをする。
「仕方ない、ここで宣誓するぞ。神父、こちらへ来てくれ」
「で、でも」
「黙っていろ。ほら、さっさとしてくれ」
雨が降る中、セラフィエルと神父だけが教会の屋根の下で、私は雨の下で、簡素な誓いを立てる。
神父が長々話し出す前に、セラフィエルは「もういい、早くしろ」と急かす。やむなく結婚当事者たちの結婚の了承を目配せで済ませ、神父は「これで終わりです、お疲れ様でした」と教会へ帰っていった。無責任な、きわめて適当なその仕事ぶりに、私は開いた口が塞がらない。
「これで終わりだ。家に帰るぞ」
そう言って、しれっとセラフィエルは数十秒で終わった結婚式を切り上げて、家路に着く。
どうせ、それも織り込み済みで、私だけ何も知らされていなかったのだろう。そう思うと腹が立つ。しかし、私はただ黙って、セラフィエルの後ろをついていくしかなかった。こんな見知らぬ土地にいきなり放り出されても困るし、今頼れるのは夫となっているはずのこのセラフィエルだけだ。まだディリニー侯爵夫人からお金を受け取っていないし、雨が降る今日の宿を確保しなければならない。
正直、嫌だった。こんな無愛想な人間が夫だなんて、しかも結婚式は目配せで終わり、私へ何も話してくれない。結局、私はセラフィエルと一言も喋らず、近くの屋敷に辿り着いた。郊外にあるウォーガンド伯爵家よりは狭いものの、都市の中では広めの庭があり、三階建ての装飾の多い石造りの屋敷だ。玄関である観音扉を叩くと、すぐに扉は開き、中には執事やメイドたちが十人ばかり並んでいた。一斉に頭を下げ、主人の帰宅に対し反応を返す。
「おかえりなさいませ、セラフィエル様」
歩み出てきたメイドがバスタオルをセラフィエルへ渡す。そして、私にもおずおずと一枚くれた。私は左手で受け取り、礼を言う。
「ありがとうございます。お優しいのですね」
「とんでもない。奥様、お髪を乾かしますので、どうぞこちらへ」
気の利くメイドが私をドレッシングルームへ連れていこうとした、そのときだった。
「セラ様! 終わりました?」
甘ったるい、セラフィエルへ向けられた舌足らずの声。
廊下を子供のように走り、赤毛の大きな三つ編みを揺らす小柄な女性がセラフィエルへと飛びついたのだ。一瞬子供かと思ったくらい、少女じみた女性だ。しかしばっちりと決めた化粧から、どうやら成人しているらしいと思われた。私も他人のことを言えた義理ではないが、とても貴族の令嬢とは思えないし、言葉遣いも粗野なところがある。はっきり言って、公爵家の屋敷にいることが、あまりにも場違いに感じられた。
しかし、セラフィエルは今までとは百八十度異なる、満面の笑みを声の主へと見せた。
「ああ、終わったよ、エルヴィ。これで父上にもくどくど言われずに済む」
「よかったぁ!」
またしても、私は開いた口が塞がらない。
何なのだ、目の前のこの状況は。
どう考えても、セラフィエルと——前情報通りであれば、メイドであり内縁の妻こと愛人のエルヴィが、私の前で抱き合っている。キスまでしはじめた。見ていられない。私は目を逸らす。すぐにメイドたちが私を連れて、別室へと向かう。主人と違い、メイドはまともな神経をしているようで安心したが、それにしたって、私の目の前でやることだろうか?
何だか、気持ち悪い。他人があれを見れば、私の右腕よりも、よほど嫌悪の感情が湧いてくるだろうに。
ドレッシングルームの椅子に座り、メイドが柔らかなタオルで私の髪を拭いていく。自覚はなかったが、私はよほど濡れていたのだろう。後ろでくるりとまとめていた髪がほどかれ、中までしっかりとタオルを当てられる。そういえば、幼いころ、満足に一人で風呂にも入れないような子供のころ、世話係の老メイドのシェリーにこうして拭いてもらったことを思い出す。タオルは固かったしそんなにいい思い出ではないけど、私の記憶の中ではマシな部類だ。うーん、タオルが柔らかくて、温かくて気持ちがいい。このままさっきの気持ち悪さを忘れてしまいたい。
ところが、そうは問屋が卸さなかった。
ばたん、とドレッシングルームの扉が開いた音がした。私は反射的に視線を向け、そして後悔した。
先ほどセラフィエルと抱き合っていた、エルヴィがいたからだ。
それも、にやにやと何かを企んでいる顔さえ隠さずに、だ。