第五話 世界のどこかへ
翌日出会ったディリニー侯爵夫人は、貴婦人という尊称からは月と太陽ほどに遠い、私よりもずっと悪魔に近い魔女のような顔をした恐ろしい女性だった。
「あなたがロゼッタ? ふぅん、可愛らしいお顔ね」
私のケープに隠した右腕と顔を一瞥し、ディリニー侯爵夫人はそう言い放った。
顔が怖ければ声も怖い。ひりつくような緊張感がある。どうやらそれは私だけでなく、同席している父もそう感じているようで、声が震えていた。
「ロゼッタ、こちらがディリニー侯爵夫人だ。ご挨拶なさい」
「初めまして、マダム。ロゼッタと申します」
魔女が何だ。私は悪魔の右腕を持っているんだぞ。そんなふうにも思えるくらい、私は半ば自棄になっていた。
すると、魔女ことディリニー侯爵夫人はふっ、と見下すような笑いを浮かべて、こう言った。
「けっこう。ではロゼッタ、すぐに出立の準備をなさい。これからすぐに、王都へ向かいます」
あまりの急展開に、私は思わず尋ね返す。
「どういうことでしょう?」
「あなたの結婚相手は、あなたを待ち望んでいるの。それだけ分かれば十分でしょう?」
それ以上はお前は知る必要はない。そう言われているようだった。
結婚相手のことも知らずに結婚などできるものか。私が憤慨して抗議しようとしたところで、ピシャリとディリニー侯爵夫人はそんな空気すらも切り裂くような言葉を放つ。
「ウォーガンド伯爵。手筈どおり、こちらには下賜金が届けられると思います。ロゼッタ嬢の入り用の支度に関しては私が手配しておきますから、くれぐれも余計なことを口外なさらぬよう」
下賜金?
聞き慣れない単語が出てきた。なぜ私が結婚することで、ウォーガンド伯爵家にお金が入る? それも、王国、厳密にはおそらく王家からだ。
だんだんと不安になってきた。私はまるで、奴隷のように売られるのではないか。結婚相手というのは嘘で、王宮でもののように扱われるのでは、右腕を見せ物にされるのではないか。私は父を見た、しかし何の解決にもならなかった。
「ええ、かしこまりました。それではどうぞ、支度が済むまでこちらでおくつろぎください。ロゼッタ、聞いていただろう、さっさと支度をしてきなさい」
もはや、どうにもならない。父は媚びへつらい、ディリニー侯爵夫人へ私を売り渡す気満々だった。
逃げ出す算段をしなければならない。ここでは無理だ、王都に着いてからでなければならない。
私は、大人しく部屋に戻り、読みかけの冒険小説とまともな衣服、それに——昨日の食べかけのクッキーを手近にあった鞄に詰め込んだ。シェリーが置いていった鞄だ。もし何かあれば使うように、とこっそり持ってきてくれていたのだ。くたびれた革の大きめのショルダーバッグ片手に、私は部屋を出る前に、もう一度立ち止まって、過去を眺める。
押し込められた小さな部屋。最低限の机と椅子とベッド、キャロラインが持ってきてくれた本、シェリーが辞めるときに残していってくれた鞄に、大して持ってもいなかった服。右腕のせいで破れたところが繕ってある。
ここには二度と戻らない。この憎々しい過去とは、ここで決別する。
キャロラインが言うような未来は簡単には訪れないだろう。それでも、ここにいては得られない未来だ。アーリンを忘れるわけではない、ただ彼は私が不幸になることを望みはしない。たとえ、自分以外の誰かと幸せになろうとも、祝福してくれるであろう人だった。私の右腕のせいで起きた不幸を憐れみ、それが今後私の人生に不幸をもたらさないようにしたいと言ってくれた人だった。
王都へ。世界のどこかへ逃げられる可能性へ、私は賭けた。