第四話 吉報のようでいて
このウォーガンド伯爵家の一員で、唯一私を人間らしく見てくれる味方が一人だけいる。
ただ、その味方も万能ではなく、力のない人間だから、他の家族の目を盗み、こっそりと私に接してくる。
夜、皆が寝静まってから、私の部屋の扉を小さく叩く音がした。
私は窓から入ってくる月明かりの下で本を読んでいた。アーリンがいなくなったことから立ち直るためには、私はただただ本を読んで、気を紛らわせるしかなかったからだ。小さな子供が喜ぶような冒険小説に栞を挟んで、扉へと近づく。
「ロゼッタ、私よ。扉を開けて」
声を聞くだけで分かる。私のすぐ上の姉、キャロラインだ。私は音がしないように、扉を開ける。屋敷の廊下は存外音の通りがよく、誰かが聞きつけでもすれば面倒だ。
「お姉様」
小さく可愛らしい顔に、天使のような金髪の巻き毛をしたキャロラインは、早く早くと私の部屋へ押し入って、いつものようにそっと扉を閉じた。
「ああ、怖かった。もう、ユリアンがなかなか寝つかないから、時間がかかっちゃったの」
「そうでしたか。今日はもう来られないかと思って、心配していました」
「これ、お茶菓子。クッキーと、水筒を持ってきたわ。お茶を淹れていたの」
そう言って、キャロラインは私へ甘い香りのする紙の包みと、鉄と陶器でできた水筒を渡す。どちらも人肌ほどの温かさのある、私にはとてもありがたいものだった。
「ありがとうございます、温かいものは身に染みます」
「うふふ、そう言ってもらえると持ってきた甲斐があるわ」
私のぎこちない感謝は、キャロラインにとってはいつものことなのだろう。
誰かにいいことをして、誰かから感謝されること。それすらもできない私は、醜くも少しばかり嫉妬する。
キャロラインの前では、ケープの中に隠した右腕を出せる。私はクッキーをつまみ、紅茶を一口啜る。その様子を見ていたキャロラインが、おずおずと話しはじめた。
「ねえ、ロゼッタ。お父様が話しているのを聞いてしまったのだけど、あなたに縁談が来るそうよ」
いきなりのことで、私はむせた。ごめんなさい、と謝りながらも、キャロラインは話を続ける。
「ほら、あの先代ティリャード男爵が……こほん、紹介してくださったディリニー侯爵夫人という方がいて、その方があなたをどこかの誰かに嫁がせたいのだって。相手の名前までは聞き取れなくて、ごめんなさい。もっと詳しく聞きたかったのだけど、エリオットお兄様の目が厳しかったものだから。お兄様ったら、あなたの名前が出るといつも顔が険しくなるの。多分、あなたのほうにお父様の注目が行ってしまうことが悔しいのよ」
ああ、それは何となく私も分かる。長兄エリオットは完璧主義で、父の歓心を買うことが好きだ。弟のユリアンが生まれてからその面倒を見ているのは、自分に懐かせて自分にとって都合のいい人間に育てるためだ。そういうところが私は嫌いで、向こうも私を毛嫌いしていると分かっている。お互い、顔を合わせないほうが精神的に健全、というわけだ。
とはいえ、キャロラインは他の兄弟とも仲が良く、あのティターニアとさえも楽しく歓談できるほどの器量よしだ。だからこそ、こうやって屋敷の中で聞いてきたことを私へ伝えてくれているのだ。
「私も縁談があればいいけれど、お父様がキャロラインは王妃候補に出す、とか世迷言を言って困っちゃう。寝言も寝て言ったほうがいいと思うわ、馬鹿じゃないの。私は早く結婚したいの、もう!」
そのキャロラインにここまで言われる父は、まったくの形なしだ。とはいえ、キャロラインは早く結婚する私を妬むこともなく、決まってしまうのであれば仕方ない、と思っているようだ。
「ロゼッタ、お父様が決めてしまえば、あなたはすぐに嫁がされることになると思うわ。だから今のうちに言っておくわね」
「はい、何でしょう?」
「あなたの右腕は、お父様とお母様がやってしまったことのツケよ。だから、あなたは悪くない。私も詳しく知っているわけではないの、でも」
キャロラインは、私の右腕を握ろうとする。だが、私は遠慮した。ざらざらとした皮膚が、キャロラインの肌を傷つけてはならない。尖った爪が食い込んでしまってはならない。
私の右手は、誰かと手を取り合うことはできないのだから。それこそが、私の右腕が悪魔の右腕と呼ばれる所以だろう。たとえ両親の咎で私の右腕がこうなったのだとしても、両親を責めれば何とかなるのだろうか? なるはずがない、そんなことが分からないほど私は子供ではない。
キャロラインは、いつもとは違って、熱弁を振るう。
「いい? あなたの理解者だったアーリンが亡くなった今、神を崇め悪魔を貶めるサリデール王国では、どこに行っても決してその腕は歓迎されないわ。でも、もし王国から出ることができるのなら、躊躇わず行きなさい。世界は広いわ、こんな小さな国の常識なんて吹き飛んでしまうほどに。世界のどこかであなたを受け入れてくれるところがあるのなら、そこで幸せになるのよ」
それを、伝えたかったの。
温厚なキャロラインが、必死になって、私のために尽くした言葉がある。
私の小さな嫉妬など吹き飛ばしてしまうかのような、何もかもを変えてしまうかのような、爽快な魔法の言葉。
それは簡単な道のりではないだろう。でも、それ以外に私が取れる道はあるだろうか。
私は、こんな屋敷で惨めに暮らしてきた私の人生を、得るはずだったアーリンとの幸福な人生を、これから取り戻さなくてはならないのだ。
「分かりました、お姉様。結婚しても、その機会を逃さないよう、心に留め置きます」
結婚など、この国にいるかぎり、私が求められて行うことではないだろうと思うと、気が重い。
だが、行かなくてはならない。
私はその晩、キャロラインと最後の語らいをして——翌日やってくるディリニー侯爵夫人と面会することになった。