第二十話 力のかぎり振り下ろそう
何日、私はぼうっとしていたのだろう。
下宿先の部屋で朝起きて、ご飯を少し食べて、出版会に来て、ささやかな仕事をして、帰って寝る。その繰り返しを数回したと思う。
サタナキアは私を気遣ってか、一切私の右腕の話をしなかった。アガリアレプトに会って何を話したのか、聞きたいだろうに何も尋ねてこなかった。ひょっとすると、エレミアから話を聞いていたのかもしれない。何にせよ、私には有り難かった。実際には天使の腕ならここは悪魔関係の場所だからと追い出されてしまうんじゃないかと冷や冷やしていたが、そういうことはないらしい。
今日も、私は棚の書類を整理する仕事をしていた。文字を書くのはまた今度万年筆ができてからにして、それまでは別の仕事をしよう、ということになったのだ。
南洋風のコテージで、風がすだれに当たって音を立てる中、私は書類を読む。サタナキアのサインが必要なものを探しておいてほしい、ということだったので、一枚一枚確認していた。
そんなときだった。
突如、しばらくぶりに顔を見るダニエルが現れたのだ。
「ロゼッタさん。いいものを持ってきました」
ダニエルは笑顔でそう言った。手には、大きな長い箱を抱えている。箱には金箔の装飾が施され、大きさは身長の半分ほどもあるだろうか。一体、何が入っているのだろう。
すると、ダニエルは今更ながら、私の手元を見て、誤魔化すようにまた笑った。
「お邪魔でしたか」
「いえ……大丈夫です。どうなさいましたか」
何となしに、無気力な返事をしてしまった。そんな私へ、ダニエルは説く。
「私には、あなたの右腕をどうにかすることはできそうにありません。ですが、あなたが傷ついているのなら、できるかぎりのことはして差し上げたいと思います」
何だ、ダニエルまで私を気遣ってくれている。
それ自体、とても嬉しかった。エレミアもサタナキアも、私へ気遣ってくれていた。解決に繋がらないとしても、それだけで心が救われる。
「大丈夫です。ありがとうございます、そのご厚意だけ受け取っておきます」
私は正直に言って、ダニエルには期待していなかった。エレミアにも、サタナキアにもこれ以上頼りたくない。迷惑をかけたくない、それに——失望させたくなかった。何とか自力で立ち直って、前と同じように接して、安心させなければ。
ところが、そんな私の前で、ダニエルはそれはともかくとばかりに箱を開けはじめた。
「まあまあ、これをどうぞ」
「え? えっと」
「ああ、ぜひ振ってみてください」
そう言いながら、ダニエルは箱の留め具を外し、中から何かを取り出した。
私の眼前に飛び込んできたのは——金に輝く一本の長剣だった。柄には宝石が、鍔には無数の金細工が、そして刀身は白く光を映している。近づくと、私の顔が鏡のように写っていた。
ダニエルはその長剣を、私の右手に握らせた。何が何だか分からないうちに、私はダニエルに背を押されてコテージのベランダに出る。
「河口に向けて、振り下ろしてください」
いきなりの注文に、私は戸惑った。しかも、ダニエルはあまりにも当然のように言うものだから、私もその気にさせられた。
「こ、これ、振っていいのですか」
「大丈夫だと思います。さ、思いっきり」
ああもう、よく分からないけど、仕方ない。
私は右手で長剣の柄を握り、直上へ振り上げる。
そして、そのまま前方、水平線の向こうの河口へと力一杯、縦に振る。
「えい!」
その瞬間、一陣の風が吹いた。
コテージから、河口へ向かう風だ。ただし、普通の風ではない。
水面を縦に切り裂き、川を大きく波打たせ、船や水上建築を激しく揺らし、翻弄する。そして切り裂かれた川の先、水平線の向こうまで、その傷口はしっかりと刻まれていた。
数秒ほど待って、ようやく川に深く刻まれた切り傷は癒やされた。何事もなかったかのように凪がやってきて、しばらくすれば揺れも収まる。
私が振るった長剣の切っ先は川を割り、その衝撃は河口まで届いたかもしれない。驚天動地の現象を引き起こしてしまった私は、あんぐりと口を開けて驚くばかりだったのだが、慌ててベランダへやってきたサタナキアがそれ以上に驚いて叫んでいた。
「か、川が割れたよ!? 何だ、何が起きた!?」
「あ、会長」
「剣!? 何してるんだロゼッタちゃん!? というか」
サタナキアの目線が、私と金の長剣から、ダニエルへ向かう。
「何をしてるんですか、ダニエル王子!」
サタナキアはそう口走った。
王子。そう呼ばれたダニエルは、朗らかに笑っている。私は察した、あれは誤魔化すときの笑いだ。そして、サタナキアは普段と打って変わって真剣そのものだ。
事情を説明してほしい。私は切に願った。