第十五話 一人でやってみたい
バラデュール王国を一言で表すと、パッチワークの国だ。
あらゆる国の、あらゆる人種、あらゆる身分、あらゆる職業の人々が集まり、一つの国を形成している。混沌のるつぼであるが、それ以上に活気に満ちた国だった。たとえどんな暗い闇がそこにあろうと、数多の人々の生きる希望の光は眩しく、すべてを照らしてしまう。そして照らされて知った上で、人々はバラデュール王国に住んでいた。
私は、河川の上に建てられたとある南洋風のコテージの一室で、鉛筆と格闘していた。右手で握るとちょっとした拍子に折れてしまうため、慣れない左手で書けないかと奮闘中だ。涼しい川風の吹き込む窓のない部屋なのに、額に汗が滲む。籐の椅子と紫檀の机で、極彩色の花を飾った籠とエキゾチックな新緑のお香の香りに囲まれて、私は紙にひたすらアルファベットを書き込む。
ちょうど、そこへ一人の男性がやってきた。胸元を開いたスーツ姿で、色気ある金色の両目の周りには入れ墨のような蔦模様がある。手に持っているのは真っ黒なサングラスだ。いつもはかけっぱなしで、よく周囲が見えるものだと私は感心している。
「よう、ロゼッタちゃん。どう? 文字書けそう?」
明るい声で私へ話しかけてきたので、私は正直に答える。
「多分、大丈夫です。左手で書くより折れても右手で書いたほうが早いですけど」
「でもねぇ、もう十本以上折ってるからねぇ。ま、頑丈な万年筆を作ろうって話があるから、それまで書類仕事はやらない方針で行こうか」
「何ですか、その話。私は聞いていません」
「聖女様がもう職人のところに頼んであるって言ってた」
聖女様とはエレミアのことだ。そもそも、この男性はエレミアの知人、サタナキア公爵で、そのつてで私はここの会社へ就職したのだ。
話は数日前に遡る。
私はエレミアの住む宮殿の客室に泊まっていた。仕事が見つかるまで逗留していい、とミカエルにも許可をもらい、客人としてもてなされていた。宮殿で働く女性たちも多種多様で、さすがに私ほどの異形はいなかったが、皆それぞれちょっと変わった特徴や特技を持っていて当たり前、という雰囲気だった。精霊と人間の子供だったり、超能力を使えたり、しかし彼女たちの認識では宮殿で一番変わっているのはエレミア、という話も聞いた——それはエレミアがどこでも水脈を見つけたり、素性を隠して占い師と名乗って色々な人々へ助言をしたり、とても将来の妃とは思えないほど活発に、俗世と関わって生きているからでもあった。
そのエレミアが、居室へ私を呼び出し、一通の封書を手渡してきた。そしてこう言った。
「昨日、サタナキア公爵からお返事が来ました。あなたを雇うか、どこか仕事を見つけてと頼んでいたのです。明日、あなたと会いたいから、指定の場所へ来てほしいそうよ。これは紹介状、私の関係者だと証明するものだから、持っていってくださいね」
「ありがとうございます、エレミアさん。不躾なお願いをしてすみません、とても助かります」
「ううん、いいのよ。でも」
エレミアは私の左手を握り、訴える。
「ロゼッタ、もっとここにいてもいいのですよ? ご飯も服も住むところも、何不自由なく提供するわ。あなたにできる仕事もあると思うし、何より私があなたと会いたいのです。ほら、あなたとは気が合うし……ミカエルだってきっと賛成してくれると思うわ」
話し相手が欲しいのです、ともエレミアは言った。その本心は、私には分かる。自分と同じほど奇妙な人間を見つけたから、一緒にいたいのだ。傷を舐め合うわけではないが、普通の人間では私やエレミアの気持ちを完全に推し測ることはできないし、何かのときに頼れる相手がいる、ということが何よりも心強いと、私は姉のキャロラインのおかげで知っている。
それでも、私はエレミアの庇護下にある宮殿から出ることにした。
「エレミアさん、私はどうしても一人で生きてみたいのです。一人でお金を稼ぎ、一人で生活し、普通の人間のように振る舞う、ということを経験してみたいのです。わがままで申し訳ありません。でも、会えないほど遠くに行くわけでもないですし、いつでもお茶会に呼んでくだされば駆けつけます」
そう、バラデュール王国でなら、私のそんな小さな夢も叶う。普通の人間と同じことを、一度やってみたかったのだ。
この国では私の悪魔の右腕が変ではない。十六年間生きてきて、そんな境遇は初めてだから満喫したい、という思いだ。
そこまで言えば、エレミアも引き止めなくなった。その代わり、お茶会は絶対に来ること、と念押しをしてきた。
ありがたい話だ。そうして、私はエレミアの紹介状を持って、宮殿を飛び出した。つぎはぎだらけの大都市に、一人で出てみたのだ。