第一話 黒い右腕の令嬢
指先から肩口までの光を吸い込むかのような黒、肘のいくつかの角のような小さな突起、爬虫類を思わせるざらざらとした皮膚。
私、ウォーガンド伯爵家三女のロゼッタ・ウォーガンドは生まれつき、右腕が黒く、異形だった。
正午に近くなった昼間、そそくさと屋敷の廊下を通る。
誰もいないことを確認しながら、メイドの目さえも避けて、私は鼠のように進んでいく。
室内というのに右肩に羽織った羊革の頑丈なケープをずれないよう引っ張り、すっかりケープの中に右腕を隠していた。肘を折って内側でケープを掴んでいるが、それでも心配だった。この黒い右腕を誰かに見られないよう、いつも細心の注意を払っている、そのつもりだ。
私の黒い右手には、一通の封筒がそっとつままれていた。婚約者のティリャード男爵アーリンへの手紙で、彼は遠く海の向こうに新興の貿易会社の代表として出向いている。私の右腕を気にしない、迷信の嫌いな男性で、たまに交わす手紙が唯一の繋がりで、仕事がひと段落したら結婚しよう、と約束していた。
私は整備された庭に出て、一人の庭師の老人を見つけて近寄る。
「ディック。これをまた頼んでもいいかしら」
すると、ディックは愛想笑いもせずに私を見た。この老人は昔からそうだ、誰かに媚を売ることはせず、黙々と仕事に取り組む。不器用ながらも職人としては一流だし、屋敷では一番の年長だから何をしていても誰も文句を言わない。
そのディックは、こくりと頷き、手紙を受け取る。私の黒い手など気にせず、手紙をそのままジャケットのポケットに突っ込んだ。
「分かりました。お安い御用です」
「お願いね。皆には見つからないように」
「ここで儂に文句を言えるのは先代ウォーガンド伯爵の大旦那様くらいですよ。心配しなさんな、ロゼッタお嬢様」
そう太鼓判を押して、ディックは庭の木々の向こうに消えていった。これでよし、手紙は無事街の郵便局から送られるだろう。そしてアーリンからの返事は、いつもディックが持ってきてくれる。
本当なら執事にでも手渡せばいいのだろうけど——それでは意地悪をされて、捨てられてしまう。黒い指先の触れた手紙に触るなど、と毛嫌いされて一度燃やされたこともある。もう頼めないし、頼みたくなかった。
私は来た道を戻る。だが、うっかりしていた。昼食に近くなれば、皆が動き出す。
案の定、廊下の向こうから恰幅のいい壮年の男性と、年頃の娘がやってきていた。しまった、と私はどこかに隠れる場所を探したが、そう都合よく見つかることもなく、ばったりと遭遇してしまう。
私の父であるウォーガンド伯爵、それと私の長姉であるティターニアは、足を止め、私を一瞥した。明らかな軽蔑と嫌悪が混じった目で、私の隠している右腕へ視線を送る。嫌なら見なければいいのに、と私は心の中で反抗する。
父はふん、と鼻を鳴らした。
「何だ、お前か。姿を見せるなと言っただろう、部屋に戻れ」
私は無言で頭を下げる。そのとおりだから、早く去ってくれ、と願って。
ティターニアが父を急かす。
「あら、お父様。早くしないとリベイラ伯爵がお待ちですわよ」
「うむ、そうだな。今日にでもお前の婚約が決まるかもしれん。リベイラ伯爵なら我が家とも釣り合うからな」
「ふふっ、楽しみですわ!」
それが私への嫌味で、ティターニアの良縁をこれでもかとひけらかしていることくらい、私にだって分かる。所詮男爵のアーリンと比べていることだって知っている。私は無意識に、ぐっと右手を握る。
その瞬間だった。
廊下に飾られている花瓶の一つが、ぱあん、と破裂した。ひっ、とティターニアが短い悲鳴を上げる。父はそれが無意識とはいえ私の仕業だと知っているから、険しい責めるような目で私を睨む。私は慌てて頭を深く下げた。
陶磁器は粉々に砕け、花は散乱し、水の滴る木の台だけが無事だ。私の右腕は、私の感情を汲み取ってしまう。そして悪魔の右腕と呼ばれるにふさわしい、こんな事態を引き起こす。もちろん因果関係は証明できない、しかし私のせいだと皆は思いたがる。私もまた、己の感情のせいでこうなった、と分かっていた。
父は頑として、私へ言いつける。
「おいロゼッタ、間違っても客の前に出るんじゃないぞ。お前の腕のことは我が家の恥だ、さっさと隠れていろ!」
私を避けて、二人は通り過ぎる。
そのとき、ティターニアはこう呟いた。
「醜いわね。ほら、さっさと部屋に戻りなさいな」
吐き捨てるような物言い、だが少しばかり震えも混じっていた。私の右腕を恐れるなら、そういうことは言わなければいいのに。
二人が去ったあと、私は深くため息を吐いた。会いたくもない家族、いや一応血の繋がっているだけの人々は、私をこうして毛嫌いし、遠ざける。私だって会いたくはない、早くアーリンと結婚して出ていきたい。それまでの辛抱だ、と私は我慢して部屋へ急ぐ。
だが、本当に、時間が悪かった。
父と姉だけではない。優しそうな顔をした青年と無邪気に笑う少年——兄のエリオットと末弟のユリアンがこちらへ歩いてきていたからだ。
私を捉えたエリオットの顔は一瞬で歪み、何も知らないユリアンが、ケープの隙間から見えたであろう私の右腕を指差す。
「兄上、あれ」
「ユリアン、見てはいけない。こちらへ」
「でもあの腕、真っ黒だよ」
本当に、無邪気な一言が私の心へ突き刺さる。
それに続く兄の言葉よりも、弟の言葉のほうが私にとってはつらかった。
「あれは悪魔の腕だ。近づくと不幸になる」
そそくさと立ち去るエリオットとユリアン。
私は彼らと反対の方向へと、とぼとぼと歩きだした。
今日は五話くらい投稿しますけどね!明日からは三話よ!
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