最終話
強い痛みが体を走り抜けた。それからどんどん、滲みるような鈍い痛みが体に広がっていく。
目を開けた。過剰な清潔感を漂わせるアルコールの匂い。もしかして、病院?
体に何か取り付けられている。もしかして、俺は助かったのか?
傍に赤いボタンがあるのが見えた。幸い右手は問題なく動く。それでも体の筋肉は繋がっているため、実際に手を動かしてみれば、肺辺りの筋肉がズキッと傷んだ。
ボタンを押せば、すぐに看護師がやってきた。看護師はいくつか俺に質問する。俺が全てに答えると、何か説明して出ていった。でも残念ながら、俺の脳はその全てを認識できなかった。
まだ眠かった。とにかく、ゆっくり休みたい。それを願った俺は、また瞼を閉じてしまった。
目を覚ましていられるようになったころ、二人の刑事が病室にやってきた。チラッと警察手帳を見せる。ほんと一瞬しか見せてくれないんだな。
訊きたいことは、あの悪魔についてだろう。
「俺が、殺しました」
刑事が何か発する前に、俺は自白した。あの悪魔とは違うんだ。今更罪から逃げる気はない。
刑事は互いに顔を見合わせた。目を丸く開き、口を半開きにして。俺がこんなにもあっさりと自白するとは思わなかったんだろうな。
「何のことですか?」
中年の刑事が尋ねた。何でしらばくれる必要があるんだ。そうすることで何か試しているのか?
俺は事の詳細を語った。けど、語れば語るほど、二人の刑事は困惑を露わにした。
「少し、整理しましょう」
刑事は勢いのままに話す俺を制した。そうされたことで、ターンは俺から刑事に回ることとなった。
「まず、我々が今日ここに来たのは、被害者であるあなたからお話を聞くためです」
「被害者……? 俺が?」
「はい。署に通報がありましてね」
その通報によると、俺は黒いスーツの男に突き落とされた、らしい。
あの時、周囲には誰もいなかった。誰かがそんな通報をしていたのなら、俺の耳にも届いていたと思うんだけどな。
「その通報のおかげで、あなたを発見できたんですがね」
刑事の話によると、その通報があったおかげで俺はすぐ人に助けてもらえたようだ。そうでなければ、俺の命は危なかったらしい。でも、一体誰なんだろう。その通報者ってのは。
「それで、先程のあなたのお話をもう一度聞きたいのですが」
刑事の声に、俺の脳が数分前に戻された。
警察は悪魔の件についても調査していた。何でも、悪魔は失踪したのだそうだ。心配した悪魔の婚約者から通報があったと言う。刑事は、突如彼の名前が俺の口から飛び出たものだから、その事件とも関わりがあるのかと驚いたらしい。
「どうやって、殺したんですか?」
「石で殴りつけました。通報があったかと思うんですが」
すると、二人の刑事は困惑に顔を歪ませた。
「それは、あなたの思い違いということはありませんか?」
刑事の問いに、次は俺が顔を歪ませた。
「どういうことですか?」
「いいですか? あなたは五日前にこの病院に運ばれました。その点から推測すると、少なくとも五日より前にあなたは彼を殺したことになる」
「そうなります」
「ですが、彼がいなくなったのは二日前なんですよ」
「え?」
「その前日の深夜、彼は某所にあるキャバクラの監視カメラで確認されています。勿論、その前には会社にも出勤しておりますし」
その点については、タイムカードでも裏が取れているらしい。
「共犯者がいるのなら別とも考えられますが、あなたの証言どおりなら、あなたは実行犯ですよね? 五日前からここに入院しているあなたが、二日前にどうやって人を殺せたんです?」
警察は、俺を仕留め損ねた犯人がまた現れることを危惧して、病室の外に見張りを付けていたらしい。それに加え、病院の出入口には警備員が常駐している。つまりそれは、俺が誰にも気づかれずに病院を出入りすることは不可能であるということも意味していた。
「しかも、あなたの意識が安定したのは昨日と伺っております。その体で人殺しというのは、やはり無理があるのでは?」
「はぁ……」
「ただ、彼が見つからない以上、またお話を聞くことになるかもしれません。ひとまず、あなたが倒れていた山中をもう少し調べてみます。もしかしたら、人違いという線も考えられますしね」
お大事に。二人の刑事は軽く頭を下げ、病室を出ていった。
俺は呆気に取られていた。
一体、どういうことなんだ?
人違い? あ、つまり、俺が五日前に先輩と間違えて、別人を殺してしまったってことか。
いや、それはない。俺は確かに、あの悪魔を殴った。悪魔に跨って、悪魔の顔面を見下ろして、何度も殴りつけたんだ。本当に、一体どうなっているんだ。
俺の体は順調に回復していった。
俺のスマホの通話履歴に警察への通報記録はなかった。死神の指紋も残っていなかったらしい。
ひとまず今のところ、俺は罪に問われていない。俺が倒れていた山中から死体は見つからなかったらしい。これは、別人を殺したっていう線は消えたと考えていいのかな。
会社は休職扱いにしてくれた。そのおかげで今のところ、俺は失職せずに済んでいる。
「よ、お疲れ」
先輩がカーテンから顔を覗かせた。
「先輩、お疲れさまです」
俺は起き上がり、ペコっと頭を下げる。「ああ、いいから」と制する先輩の声を聞き入れず、俺はきちんと起き上がり、先輩を迎えた。
彼は、悪魔より二年上の先輩だ。会社を去った先輩と同じく、俺が特に尊敬している先輩だったため、初めて見舞いに来てくれた時には喜びを越えて恐縮してしまった。それも今は、随分砕けた間柄となっている。
「これ、見舞いな」
「いつもすみません」
「いや。それで、前にも少し話した情報なんだけどな――」
先輩は会社の情報を直接伝えに、こうして病室を訪ねてくれるのだが――。
悪魔が失踪した後、俺たちの会社は前代未聞の大パニックとなった。どこからかリークされた情報により、あの悪魔の悪事が明るみに出たのだ。
悪魔の悪事は、俺の想像の範疇を遥かに超えていた。横領、企画の横取りなど実に可愛らしいものだと感じるほどの所業もあり、その情報を聞いた女子社員の中には倒れるほどのショックを受けた人もいたのだそうだ。そうだろうな。悪魔は女子人気が高かったから。『白馬の王子様像』が壊れた反動はでかかったんだろう。
「それに、ものによっては上役も一枚噛んでいやがったらしくて」
それは想像できるな。
「もう大掃除だよ」
つまり、大幅な粛清が行われたということだ。悪魔としっかり癒着していた上役数名は解雇、程度が軽いと判断された上役も左遷されたらしい。
「社長も雇われみたいなもんだったからな。別のグループ会社に出向っていうか……、実質クビだろ、あれは」
会社の長として、組織の体たらくをコントロールできなかったどころか、知りもしなかったのだから仕方がないのかもしれない。
「何分、古い会社だからな。膿を出す時だったのかもしれないな」
「そうですね」
でも、会社を去った先輩はもう戻ってこられないだろう。
「ああ、そういえばな、あいつも母体企業に再就職したみたいだぞ」
『あいつ』とは勿論、会社を去った先輩のことだ。ちょうどそのことを考えていただけに、一瞬心臓が浮いた。
「え、っていうことは」
「社長と違って左遷じゃねえぞ。栄転だ。辞めた後だから、『栄転』とは言わないかもしれないけどな」
「そうなんですか。良かった」
「当たり前だ。あんな優秀な奴追い出したままほったらかすなんて、優良企業のすることじゃねえ」
「そうですよね」
良かった。本当に、良かった。
「で、おまえはどうする?」
「俺、ですか?」
「ああ。いくら会社内の大掃除が済んだとはいえ、やっぱ会社を信用できなくなった奴らもいてさ。左遷されたおまえの同僚は辞めたよ」
他部署からも数名、退職者が出たらしい。
「で、どうする?」
「先輩は?」
「質問を質問で返すんじゃねえ」
どうする? 先輩の強い視線が俺を刺した。
「俺は、……」
少し迷ったけど、本当は迷いなんてなかった気がする。
「もう少し、今の会社で頑張ってみます」
「そうか。じゃ、復帰したらよろしくな」
先輩は昇進、俺は先輩のチームで働くこととなるらしい。
「おまえには力があるんだ。あんな馬鹿に適当に使われてていい人間じゃねえんだよ」
先輩の声は純粋に嬉しかった。きっと、煽てやお世辞じゃない。
「はい、頑張ります。よろしくお願いします!」
「おう。じゃ、またな」
軽く手を振り、先輩は帰っていった。……俺のために持ってきたマドレーヌ詰め合わせを粗方食い尽くして。あーあ、もう二個しか残ってないじゃないか。まあ、いいや。先輩はいつも見舞いを持ってくれるんだし。今日は腹が減っていたということにしておこう。
復帰を三日後に控えたころ、母親から連絡が入った。
俺の事故(事件なのか?)は家族にも伝えられていたけど、家族は一度も見舞いに来なかった。
でも、それは仕方ないんじゃないかと思う。父親は闘病中、母親だって看病に忙しいだろう。妹だって二人の子供の世話や離婚の準備で忙しいはずだ。
薄情だとは思わない。俺だって、薄情だ。
母親から連絡を貰った時、俺は家族のもとに駆けつけようとはしなかった。電車で二時間のところにある実家に帰ろうとはしなかったんだ。
あの時、真っ先に浮かんだのはただ死ぬことだけだった。俺に精神的余裕がなかったこと、母の文面からは俺の稼ぎを当てにしている匂いしか感じられなかったこと、それらを弁解として挙げたいけど、父親を心配しようともしなかったのは確かだ。少しだけ、面倒臭いとすら思ったんだ。
ひとまず、読んでみるか。具体的な援助について、でも書いてきたかな。
『お父さんは快方に向かっています。ある人がね、私たちに色々教えてくれたの。』
引き続き、文面に目を通す。『ある人』は、保険や国、市から受けられる保護、助成金など、様々な資金対策を教えてくれたらしい。それらは一般人が少し調べたくらいではなかなか見つけけられない支援だったらしく、全て『ある人』が窓口となって手続きを行ってくれたとのことだ。見返りは求められなかったらしいけど、タダより高いものはないっていうし、少し怖いな。
『お兄ちゃんには苦労ばかり背負わせてしまってごめんね。でも、私たちは何とかやっていけると思うわ。だから、お兄ちゃんは自分の人生を生きてね。』
『追伸、明日ぐらい、お見舞いに行きます。』
「明日かよ」
いや、もう退院してんだけど。相変わらず抜けてるなぁ、あの人は。俺は一言、『もう退院してるよ』とだけ送った。どんな返信が来るかな。
少しだけ、気が軽くなった。
『お兄ちゃん』か。今なら、分かるな。
妹が生まれてから俺は『お兄ちゃん』と呼ばれるようになり、常にその役割に縛られていた。常にその呼称に相応しい人間でなくてはならない気がして、息が詰まった。そのころから、俺は家族を背負っている気でいたんだな。
その感覚は、いつしか俺に無意識ながらも『自分は被害者だ』、『犠牲者だ』といった思考を抱かせた。そうして俺は、自分を被害者、犠牲者だと思いながら生きるようになってしまった。今回のことがあって、やっと気づけたんだ。
その思考が、悪知恵の働く人たちに唆される『穴』となったんだろう。俺は悪魔に会う前から、色んな人に騙されたり、唆されたりしていた。キャバ嬢のセールストークを本気にして貢いでしまったり、あまり付き合いのなかった高校時代のクラスメイトに英語の教材を紹介されて金をつぎ込んでしまったり。
でも俺は、あの悪魔の時と同様、彼らに降参していた。多分、俺は彼らの様な誰にも縛られない自由を纏った人が羨ましいんだと思う。だから惹きつけられて、唆されてしまうんだ。自分もああなりたくて、いつか彼らみたいに自由になりたくて。いつか彼らと同じ仲間になれることを夢見て、彼らの腹の内を受け入れてしまうんだろう。死神からも、彼らと同じ香りがした。だから、俺は簡単に唆された。
いや、もしかしたら、俺は被害者であることに慣れてしまって、いつも誰かによって『被害者』にされていないと落ち着かない人間になってしまっていたのかな。社会人になって家を離れ、家族のしがらみから解放された後、俺は誰かに縛ってもらいたくて、無意識のまま、常にそんな人種を探していたんじゃないだろうか。
「どっちにしろ、もっとちゃんとしなきゃ」
今回のことで、少し懲りた。自分ばかりが犠牲になっているうちはまだいいけれど、他にまで被害が及ぶくらいそういった人種をのさばらせちゃ駄目だ。
それにしても、あの死神は誰だったんだろう。もしかして、家族を助けてくれたのもあの死神とか? またどこかで会えたりするのかな?
「いや、会えない方がいいか」
相手は、死神なんだから。