第1話
抜けるような青い空。眩い緑。緑は所々色を変え、金平糖のようだ。
もう、どれくらい登っただろうか。登山なんて高校生の時以来だ。懐かしい。
今日は天気がいいな。秋だというのに、少し汗ばむくらいだ。でも、風が冷たくて気持ちがいい。黄色や紅色の葉が太陽に照らされ、これでもかというほどに輝いている。景色も最高だ。
空気も美味しいな。疲労の吐息を零して、もう一度息を大きく吸えば、新鮮かつ爽やかな空気が肺いっぱいに広がった。
ああ、気持ちがいい。本当に気持ちがいいな。
これがただの登山なら、どんなに良かっただろう。どんなに楽しかっただろう。
俺はこの山に、死にに来たんだ。
人の目がないか確認してから登山コースを外れ、道にもなっていないところを無理やり登り、山の奥へと踏み込んでいく。木々に遮られ、日の光ももう、ほとんど当たらない。
ひたすら奥へ、奥へ。ただひたすら、首を吊るのに適した木を求めて歩を進める。
やっと、それらしい大木を見つけた。立派なものだ。そっと撫でてみた後、俺は一番下にある枝を眺め、鞄からロープを取り出した。
家で練習してきたものの、木の枝と物干し竿では勝手が違う。なかなか結ぶのに苦労したけど、何とか絞首台は完成した。
さあ、あとは俺が輪っかに頭を突っ込んで、ぶら下がれば……。
瞬間、俺の頭の中が無になった。
(台がないから、ぶら下がれない)
そうだ! 首吊りってまず椅子や台に乗って、頭を通した後にそれらを蹴ってぶら下がるんじゃないか。
いや、足を曲げておけばぶら下がれるから結果的には死ねるか。――って、無理だ。いくら覚悟を決めて来たとはいえ、死ぬまで足を曲げ続ける意志を持っていられるかどうか。
なら、俺同様、樹海など屋外で死ぬ人たちはどうしているんだろう。
俺の脳に、ある事件が浮かんだ。その事件は結果首吊り自殺だったのだが、当初『踏み台もないのに、高さのある枝からぶら下がれるのはおかしい。(よって他殺ではないか。)』と疑われたのだ。
その事件の首吊り方法は、次のようなものだった。
まず、木に登る。足の付かない高さの枝まで来たら、その枝にロープを括りつけ、ロープの輪っか部分に頭を通す。それから飛び降りれば台がなくとも首吊りができる、というわけだ。
俺は一度ロープを外し、それを持って木を登った。これほどまでに立派な大木を穢してしまうのは申し訳ないけど、俺も他を構っている余裕なんてないんだ。
程良い高さの枝まで上がると、俺はその枝にロープを括りつけた。よし、後はロープの輪っか部分に頭を通して飛び降りれば――。
「あのー、どうしました?」
俺の体が脊髄反射を起こした。その声のする方へ顔をやれば、そこには一人の男がしゃがんでにこり。俺との距離は三十センチもない。
え、どうして? ここ、木の上だぞ? っていうか、いつ登ってきたんだよ。
「ぎゃ――――っ!」
そんな疑問を訴える暇などなく、俺は悲鳴を上げた。
俺は震える体を擦った。先程の大木から離れ、山道にある休憩所まで戻ってきたのはいいけれど、依然俺の体は先程の恐怖と驚愕に冷たいままだ。ベンチに落ち着けた尻だけが、ジンジンと太陽の熱を吸い込んでいた。
「すいません、驚かせちゃったみたいで」
先程の男が戻ってきた。「どうぞ」と缶コーヒーを俺に差し出す。俺があまりにも驚き怖がったものだから、落ち着かせなきゃとでも思ったんだろう。俺は黙って缶コーヒーを受け取った。
男はすぐに自分用の缶コーヒーを開けた。長閑な空気を纏ってはいるけど、何者なのかはまだ分からないままだ。
顔の上半分は、帽子に隠れてよく見えない。さっき見えたのは口元だけ。今思えば『にこり』でなく、『にやり』だった気もする。
黒のスーツに黒の中折れ棒。見た感じ、大泥棒を主人公にした某有名漫画に出てくるガンマンみたいな出で立ちだ。それが人に伝えるのにあたり一番相応しい表現ではないかと思うけど、とにかく登山を楽しむファッションでないことは確かだ。
「あの、どなたですか?」
さりげなく尋ねてみると、男が缶コーヒーから口を離した。
「その前に、『ありがとう』でしょ」
「え?」
「命が助かったんですよ。『ありがとう』ではありませんか?」
「え、あ、はぁ。……ありがとう、ございました」
いや、自殺しようとしている人間助けて礼を求めるって、どういう神経してんだ。そう思いながらも、男の不思議な雰囲気がそうさせるのか、俺は流されてしまい礼を言った。
「で、あなたは」
「ボクは死神です」
「……は」
「あれ? 黒い袴はいたり、刀とか持たないとピンときませんか?」
「いや」
『死神』自体にピンときてないんですけど。これはなかなか厄介な人と関わってしまったぞ。
「その、死神さんは、何で俺を助けたんですか?」
ひとまず話を合わせてみる。
俺が興味を持ったと思ったのか、死神は声を弾ませた。
「よくぞ訊いてくれました! 実はあの世も今、世知辛い世の中でしてね、若人が来ないんですよ」
昔は口減らし、疫病、戦争、様々な理由で若人が来たんですが、と恍惚の仕草で語る。
「それって、いいことじゃありませんか?」
「この世にとっては、いいことです」
「ということは、あの世ではそうでない」
「そうですね。良いことばかりではありません」
「なぜですか?」
「人の魂は一度あの世で洗濯、修繕されてまたこの世に戻されるのですが――」
それが転生ですね、と注釈を入れる。
「老人は使い込まれた分、その作業が大変なんですよ」
つまり、若ければ若いほど傷みが少なくて、リサイクルが簡単だってことか。不謹慎だけど、俺は俺なりの方法で理解した。
「だからたまには若人がドーッと増えて、楽をしたいところなんですが、そういう考えって、やっぱ非常識じゃないですかぁ。死神とはいえ」
「そうですね」
「でもこのままじゃ死神の仕事はブラック一直線なんです。だからですね、時折キャンペーンを行っておりまして」
「キャンペーン、ですか」
キャンペーン中だからといって、あの世に行きたがる人はいないと思うけどな。
「はい。若人をあの世にお連れする時、一つ願い事を叶えて差し上げようというキャンペーンです」
「願い事」
「はい。何かありませんか?」
「何でも、いいんですか?」
「そうですね。石油王になって世界中の美女を侍らせたいとかは無理ですけど」
キャバクラで一晩豪遊する、くらいなら叶えて差し上げます。死神はまた、『にやり』と『にこり』の中間ぐらいの笑みを浮かべた。
「何でもいいですよ。鳥の様に空を飛んでみたい、など、非科学的なお望みにも対応できます」
「なら、……人を殺すことは、できますか?」
罪に問われず、人を殺すことはできますか?
我ながら、物騒な願望を露わにしていると思う。でももし、それが叶うなら、俺はあの世に連れて行かれてもいい。
俺の様子に、只事ではないと思ったのだろう。死神の頬が締まった。
「そうですね。結論からお伝えするのなら、それは可能です」
ただ、少しだけ、お話を聞いても構いませんか? 事の仔細を知りたがる死神に、俺は同意した。