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第一話:微妙にずれた今日――いつもと違う朝――

 

 あれだ。毎朝幼なじみが甲斐甲斐しく起こしに来てくれる、ってのは健全な男子諸君ならば誰もが、一度は夢見る生活習慣だろう。


 違うとしても、ここはこの仮定で無理矢理話を進める。

 例に漏れず、俺もその一人。そう、“夢見る”だ。現実はそう甘くない。毎朝愛の優しい声で起床。それをどれだけ夢見た事やら。


 今、俺の枕元で起床の合図を告げているのは、優しくカーテンを開ける時の音のような、愛の可愛らしい声とは真逆――おばちゃん達の井戸端会議の合間合間に聞こえる喧しい大笑い……いや、それより不快なものだ。


 そう、目覚まし時計。このデジタルの時代に、アナログな頭のベルを叩き鳴らすというその一本気さには、感服せざるを得ない。

 某テレビ番組のマスコットの方が、時刻を告げる分まだ可愛らしい。しかし、こいつは時刻も告げず、無言でただただひたすら定時になったら、俺を起こそうとしやがる。


 今日こそは、その鬱憤を晴らしてやろうと心に決めた。


「いつまで鳴ってりゃ気が済むんだゴルアァ!」


 掛け声と同時、目覚ましの頭に空手チョップを一閃。めき、という骨の軋む不吉な音が、俺の右手から聞こえた。

 あまりの痛さに、布団を蹴飛ばして跳ね起る。


「ッ〜!」


 痛い。物凄く。いや、痛い。冗談抜きで痛いしか言えない。

 負傷箇所をふーふーしながらさすさすしてやる。さすさすしながら、俺にこの負傷を負わせたにっくき目覚ましを、きっと睨む。

 何と言う石頭だろうか。こいつは、こうなると予測して頭を鍛えたのだろうか?


 俺の恨みがましい視線を浴びる目覚ましは、完全に沈黙していた。耳に侵入してくるのは、自分の息遣いと小鳥のさえずり。あと、先程とは打って変わって、謙虚になった目覚ましが時を刻む音。


「いだだだ……くそぅ……」


 痛覚に残る、打撲傷特有の鈍い、浸食する水のようにじわじわとくる痛み。

 ……この目覚ましの廃棄処分を検討しよう。


 視線をにっくき目覚ましから、カーテンが開けっ放しだった窓へと向ける。差し込む透明感溢れる陽の光は、俺の視覚から侵入し、優しく脳を覚醒させる。


 それにしても、昨日は危なかった。もう少しで、愛の親族の方々に多大なる誤解をされるところだった。

 舞もタイミングが悪い。俺と愛がもつれ合って転んだところを、見計らっていたかのように来たのだから。

 まさか覗いていた……わけもなく。舞にそんな趣味なんてないだろう。というか、舞は俺が来ていた事自体解っていなかった。


 しかし、澪姉の気怠いオーラは相変わらず健在だった。澪姉は本当にいつも怠そうだ。何がそんなに怠いのやら。見ているこっちまで怠くなりそうな表情。もう怠過ぎて清々しいくらいの表情、というのは言い過ぎかもしれない。


 愛の姉妹って、三人それぞれ個性があって、いつも楽しそうだ。兄弟が居ない俺には、それが羨ましく思えてしまう。


「……ふあぁ」


 拳一つくらい楽々入りそうなほどに口を開け、大欠伸。背伸びをしてやれば、こきぽきと小気味よい音が背骨からする。


「……さて、今日も一日頑張るかな」


 と、ここでケータイが振動と共に着信音を発する。着信音が初期設定なのは、変えるのが面倒臭いから。いや、案外、黒電話の音というのも粋なものだ。


 枕元――今は大人しい目覚ましの隣、卓上ホルダーにセットしっ放しだったメタリックブラックのケータイ。サブディスプレイに流れるドット文字が告げるのは、愛からの着信。


 また鳴る機会を、虎視眈々と狙っているかのように思える目覚ましを見てやれば、七時四分だった。こんな朝っぱらからどうしたのだろうか。


 早く応答しろと言わんばかりに、レトロな音を奏でながら卓上ホルダー上で震えているケータイを、手に取り開く。


『おはよ〜、ゆー君』


 受話口から聞こえてくるのは、少しくぐもった愛の声。いつもながら、緩い喋り方だ。


『あのね、ゆー君最近お寝坊さんだから、私が起こしてあげようかな、って』


 なるほど、そういう事か。最近寝坊ばっかりで愛に迷惑かけてたからな。

 最近は面白いドラマばっかりやるし、その流れで深夜番組も見たりして、夜更かししてしまう。まったく、テレビ局も視聴者の睡眠の事を考えてほしい。


「ん、ああ。ありがと。でも、今日はこうして起きれてるんだよ。残念だったな」


『えぇ〜。“もーにんぐこーる”ってやつのつもりだったのに……』


 愛の声からして、本当に残念がっているようだった。……そうだ、こういう風に世話好きの愛なら――


「ははは、ごめんな。…………なぁ、愛。一つ、頼み事がある」


『なあに?』


「いや、その……む……あ……」


 いざ頼むとなると、急に恥ずかしくなってきた。

 二の句が継げなくなり、ただ口元をもごつかせてしまう。


『……? 後でゆっくりお話する?』


「あ、いや……うん……そうだな。そんなに急ぐ事でもないし」


 拝啓皆様方、近頃はどうですか? わたくしめはチキンでございます。――ああ、俺は馬鹿だ。

折角のチャンスをむざむざ棒に振ってしまうなんて……


『解った。……今日は早く学校行けそうだね。ちゃんと準備しててね。それじゃ』


「あ、ああ。それじゃ」


 俺が言い終えてから少しの間を置いて、ぶつり、と電話が切れる音。この音が、妙に耳に残った。


 小鳥のさえずりだけが部屋の中を充たしている。

 俺は開けたままのケータイを、ぼーっと眺めていた。何と無く。そう、何と無く眺めていた。そうしているうち不意に、さっきの電話の内容が頭の中で再生される。愛の声が頭の中で、何度も、何度も。


 ケータイを閉じると、今度は愛の顔が浮かぶ。目の裏に焼き付いて離れない、愛のいろいろな表情が次々と。

 笑った顔、泣いた顔、恥ずかしがる顔、喜ぶ顔……昨日の、淋しげな顔。


 夕日に照らされたあの顔が、肌の質感から髪の揺れ、はたまた夕焼け空等の背景までも克明に描かれた記憶が、俺の頭を占領する。

 それと同時、やたら心臓が高鳴った。愛を思い出す、普段も何気なくする事なのに。


 そして、最後。なぜかは解らないけど、これが最後に思えた。俺が愛の耳元で囁く時の映像が再生され始める。風の流れ、愛の匂い、髪を触った時の感触までもが。


 これはいったい何なのだろうか。俺の脳味噌は何をしたいのだろうか。とか何とか考えている内に、フィルムは途切れた。

 また、小鳥の鳴き声だけが部屋を充たす。


「……走馬灯……?」


 結局、わけが解らない。首をいくら捻ろうが、こめかみをぐりぐりしようが、ケータイをまじまじと眺めようが、一向に答えはでない。

 どうやら、俺の足りないおつむでは、この現象が何なのか説明できないらしい。


 ……まあいいか。めんどくさい。胸のもやもやは晴れないけど、そこは仕方ないのだ。顔でも洗えばすっきりして忘れるだろう。


 ケータイをジャージのポケットにしまって、立ち上がる。蹴飛ばした掛け布団はそのままにしておく。寝る時にでも直せばいい。


 何だかわけの解らない形によじれている布団をまたぎ、ドアへふらふらと歩み寄る。

 一昔前に設置した、ドアの右の壁にあるフック。そこに掛けてあるブレザーと、同系色でチェック柄のズボンをハンガーごと右手に取る。


 一部の木目が人の顔に見えてしまうこのドア。人間ってのは三つ点があれば顔に見えるというのだから、不思議だ。

 ひんやりとした質感の金属制のノブに左手を掛け、ぐいと引っ張る。


 眠気はもう無い。だけど、どうも気分は晴れやかじゃない(さっきのもやもやもあるからだろう)。とりあえずは洗面所にでも行こう。

 部屋を出て、後ろ手にドアを閉める。目前の壁紙は真っ白で清潔感に溢れていた。木の廊下を、ぺたぺたと裸足で歩く。ひんやりとしていて心地良い。


 少し軋む階段を下り、洗面所へ。戸は壁と同色で、目線の辺りには、長細い磨りガラスが埋め込まれている。その戸を左にスライドさせれば、脱衣所兼洗面所だ。

 戸を開けてすぐに、寝起きが悪そうな酷い自分の顔と対面する。馬鹿でかい鏡が目前にあるからだ。左上の隅に吸盤式の歯ブラシ掛けがあり、三つ、赤・青・緑の歯ブラシが掛けられている。


 ……しかし、酷い顔だ。目付き悪過ぎだろう。おまけに、頭の各所で寝癖が無差別テロを起こしている。どうやら、俺の頭の治安はかなり悪いらしい。


 まず、うがいだ。それから寝癖直しでもしよう。と、頭の中で優先順位を決めてから早速作業に取り掛かる。

 まず、ブレザーとズボンを二段式脱衣篭の下の段に入れておく。現段階では邪魔でしかない。


 で、整然と並んだ三つのプラスチックコップの内、青いやつを手に取る。

 ちなみに、緑は親父、赤は母さんだ。

 丸っこい冷水のレバーを捻ってやると、水が勢いよく出てきた。それをコップに汲み取り、口に含む。


「んぐんぐんぐ……ぺっ……ふぅ」


 コップの水を捨て、コップを定位置に戻す。

 次は髪だ。まあ、適当に寝癖地帯に水を投下してやればいいだろう。


 蛇口を、カランからシャワーに切り替えてやると、水は、そうめんが勢い良く出てくるかのように流れ出る。

 寝癖頭、覚悟。と、勢い込んで頭を水のカーテンの中に突っ込む。


「冷たっ……」


 温かい春といえども、水は冷たい。おかげで、頭の中にかかったもやが晴れていく。


 両手を使い、満遍なく頭を水で濡らす。次第に手と頭も慣れ、冷たいどころか気持ち良くなってきた。


 冬とは違い、煩わしい温度調整なんかいらないから助かる。冬は温度調整に失敗すると、灼熱の熱湯か氷点ぎりぎりの冷水を頭にぶっかける羽目になってしまう。朝から、非常にブルーな気持ちになってしまうのだ。


「……ふぅ」


 そろそろ良い頃合いだろう。レバーを手探りで探し当て、捻る。水が止まり、排水溝から流れて行く水の音だけが辺りを支配した。


「タオル……」


 タオルは脱衣篭の上段に入れてあったはず。だが、このままの状態で動いてしまえば、頭から滴滴と水を垂らしてまう。床を水浸しにしてしまうだろう。


 仕方ないから、姿勢はそのままで後ろ手に手を回す。で、脱衣篭があると思われる場所を探る。

 毎日の事だから、見当は付いているはずなのだけど、今日はどうも調子が狂っている。俺の手は虚空を掴むばかりだ。


「ほら、タオル」


 背後から母さんの声。それと同時に、虚空ばかり掴んでいた手が、ふんわりとした感触を握り込む。母さんが、タオルを握らせてくれたようだ。


「あ……ありがと」


 姿は見えない母さんに一言礼を述べ、タオルを頭に載せる。そして、両手でがしがしとタオルごと頭を揉みしだき、水気の拭き取り作業とした。


 ――あらかた水気は拭き取れただろう。水気を含んで僅かに重くなったタオルを、俺の左側で大口開けて鎮座している洗濯機の中に突っ込む。


 洗面台に向き直り、脱衣篭の上段に入れてあったドライヤを手に取る。で、ドライヤの長い尻尾の先端を、コンセントに差し込む。スイッチを点けると、ドライヤの口から軽い唸りと共に熱風が吹き荒び始めた。


 髪を乾かそうかと顔を上げた時、鏡の中で母さんと目が合う。ずっと背後に立っていたのだろうか。


 母さんは、子供みたいな顔でにこにこしていた。何か言いたい事があるように見える。だが、母さんは何も言わない。おそらく、俺が髪を乾かし終わるのを待っているのだろう。


 何気無く、母さんを眺めてみる。昨日と同じく、夕日色のエプロンを着ていた。髪も結い上げている。母さんが何か仕事をする時は、決まってこの格好なのだ。


 手持ち無沙汰だろうにも拘わらず、母さんは暇そうな素振りを見せない。

 ただただ、俺が髪を乾かす様子を見てにこにこしていた。何だか、いつも以上に機嫌が良さそうだ。


 ――そろそろ髪が乾いてきた。母さんから視線を外し、ドライヤのスイッチを切る。


「勇、昨夜はどうだったの? 愛ちゃんと何か進展は?」


 ドライヤの唸り声が終わると同時、母さんが訊いてきた。期待に胸を膨らましているようだ。声は抑揚に富み、細められた目はきらきらと輝いている。


「……いや、何も無いけど。……てか、いつもながら疑問なんだけど、何でそんな事訊くんだよ」


 ドライヤを二段目の篭に入れてから母さんと向かい合い、答える。母さんは、何が嘆かわしいのやら溜め息を一つ。


「はあ……また今回も進展無し、か」


 最近、相原家に遊びに(勉強に)行った後は、必ずこの問答をするようになった。母さんの最後の台詞もまた、締め括りの決まり文句みたいなものだ。


「いや、母さん? 俺の質問に答え――」


「はいはい。ご飯冷めちゃうわよ。とっとと食べましょ」


 母さんは俺の問い掛けを、すっぱりと切り捨てた。生半可な刀より切れ味鋭いんじゃないか、ってくらいすっぱりと。ここまで痛快に切り捨てられては、俺に反論の余地などあるわけも無く。


「いや、質問に――」


「時間見なさい。愛ちゃんが迎えに来るわよ」


「だから――」


「愛ちゃん待たせちゃ駄目よね。うん。はい、分かったらご飯食べる」


 けんもほろろ……ではないか。取り付く島もない、というのはこういう状況を言うのだろう。母さんは俺の問い掛けをまったく無視して、矢継ぎ早に言う。


「……はい」


 俺が渋々返事をすると、母さんは

「よろしい」と満足げに言い、踵を返して行ってしまった。


 なんだか、また一つもやもやが増えたような……


「はあ……」


 俺は溜め息を吐きながら頭を掻く。そして、もやっと感の晴れないまま、ブレザーを無造作に掴み上げ、母さんの後を追った。






『ゆーくうーん! 早くー!』


「待ってくれー! すぐ行くからー!」


 朝飯を食べ終わり、身支度も完了し、歯磨きも終わった。本来なら、俺が愛を迎えに行くはずだった。が、朝のニュースというのは存外面白く、ついつい見入ってしまったのだ。いつの間にやら、愛が玄関先に来て俺の名を呼ぶ。


「もう、勇が遅いから愛ちゃん迎えに来ちゃったじゃない」


 同じく巷のペットブーム特集に見入っていた母さんが、コーヒーを啜りながら、呆れ気味に俺を咎める。鼻に侵入してくるコーヒーの香りは、何と無く知性を感じさせる。

 母さんも一言言ってくれれば、俺だって可愛い子猫達に見入る事は無かっただろう。


「あー、ごめん」


 とりあえず、平謝りしてみる。すると、母さんはふっと微笑み目をすがめる。


「それは愛ちゃんに言うべきでしょう。ほら、こんなおばさん相手してないで、さっさと可愛い愛ちゃんのとこに行ってあげなさい」


 それはまったくの正論で。いや、別に母さんがおばさんとか愛が可愛いとかではなく。愛を待たせてはいけない、という事が正論なのだ。


「りょーかい。行ってくるよ」


 俺は頭を掻きながら、親父の朝飯が残る食卓の椅子から立ち上がる。で、玄関に向かうため、居間の入口にふらりと歩み寄る。


「ああ、そうそう」


 と、ここで母さんが呼び止めてきた。振り返ると、何かを企んでいそうな微笑みを湛えた母さんが、俺を見つめていた。


「お使い、頼んでも良いかしら」







 玄関から出てすぐ、俺が携えている紙切れを、愛は物珍しげにくりくりとした大きい目で覗き込む。


「ゆー君、それなあに?」


 メモパッドから切り離された紙片。それには丁寧な丸っこい字で、豚肉二百グラムやらネギ二本やらポン酢一本やらと、いかにも鍋を連想させる食材が分量細かに書かれている。どこで買うか、いくらか、等もきっちりと書かれてあるところがまた母さんの性格を顕しているようだ。


「買い物リスト」


 紙片の端を摘み、ひらひらとひけらかしながら、端的に答える。


「愛と一緒に買い物してこい、だってさ」


 買い物リストをポケットにねじ込みながら、自分の発した言葉から思い出した事を付け足す。


「私と? ……良いよ。――」


 『良いよ』の後に、愛が何かぼそりと呟いたけど、うまく聞き取れなかった。


「ん? 何か言ったか?」


「う、ううん。何でもない」


 愛は取り繕うように微笑みながら、早口で『何でもない』と言う。これは暗に、何か言ったという事の肯定だ。


「そう言われると気になるんだけど」


「ほ、本当に何でもないもん」


 珍しく愛はむっとして、頬をぷくりと膨らませた。ぷにぷにとしてそうな血色の良い頬。非常に指で突きたい衝動に駆られる。


「……大人しく白状しな」


 小動物の頬袋のように膨らんだ愛の頬を人差し指で突く。予想通り、ぷにぷにとしていてそれでいて弾力があった。


「むう」


 愛は膨れっ面をそのままに、頬を朱に染めながら一つ唸る。ここで少しの好奇心が心の奥底で疼いた。

 抓ったら愛はどんな反応をするのだろうか? とりあえず、やってみる事にしよう。


 俺は親指と人差し指で、朱色に染まる頬を、くいっと軽く抓ってみる。

 ぷにぷにでもちもちだ。なんてキメが細かくて瑞々しいお肌なのだろう。これが若さというやつか。


「ひうぅー、ひゃひふるのー(何するのー)」


 愛は、体面上抗議するが、どこと無く楽しそうな、嬉しそうな表情をしていた。


「朝からなーにいちゃついてるのさ! 早く学校行こ!」


 と、ここで愛と同じブレザーに身を包んだ(胸元と蝶ネクタイは青だ)舞が横槍を入れてくる。今まで舞の事を忘れていた。舞に、今まで完全に空気扱いしていた事を謝るべきだろうか。


「おっと、そうだな。早く行くか」


 ぱっと愛の頬を解放してやると、愛は頬を押さえる。痛くしたつもりは無いけど、そんなに痛かったのだろうか。だけど、よくよく見てやると痛がってるわけではなさそうだった。


「……」


 何かを噛み締めるような。小さい、けれども温かい何かが頬に宿っているかのように、いたわるようにして頬を押さえていた。


 舞はというと、ぽけっとしてる愛を、唇を突き出したむすっとした表情で睥睨へいげいしている。


「愛お姉ちゃん! いつまでぼさっとしてるの! 早く学校行かないと!」


 何をそんなに怒っているのだろうか、舞は剣呑なオーラを身に纏わせて八重歯を剥き出す。


 愛は、舞の酷い剣幕にびくりと身を竦ませる。その様はまるで、天敵に見つかった時の小動物のようだった。


「ひ、ひうっ。そ、そうだね早く行かないと……」


「ふん。先行っちゃうからね。愛お姉ちゃんも、ゆーお兄ちゃんも、いつまでもいちゃついてないでよね!」


 舞はその怒りが手に取るように分かる大股歩きで、ずかずかと小さい門構えから出て行ってしまった。俺と愛は、なぜかどこと無く弱々しく見える小さな背中を、ただ呆然と見送る他無かった。


「……なあ、愛。何で舞はあんなに怒ってるんだ?」


 振り返り、訊く。愛はどこか諦観ていかんしたような、舞の怒った原因を知っているような面持ちだ。


「ゆー君、女の子にはね、こういう時があるんだよ」


 愛は、子供を諭す時のような柔和な笑顔で、俺を見上げてくる。舞の理不尽な怒りの矛先になったにも拘わらず、愛からは憤りを感じれない。むしろ、そんな舞を気遣う気持ちが、瞳の奥で微かな淀みを作っていた。

 俺だったら絶対キレていたと思う。愛は懐が広い。本当に健気なやつだ。


「……よし、愛、待ってろ」


 俺は愛にスクールバックを託し、舞を追い掛けるためにメロスの如く駆け出した。


「あ! ゆー君――」


 愛が何かを言うが俺には聞こえない。舞のあの態度に、俺は激怒した……わけじゃないけど。必ずかの邪知暴虐な舞を……って別に舞はそんなんじゃないけどさ。俺には政治が解らぬ。俺は村の遊牧――って何だこのモノローグ。おかしくないか。


「ええい! 余計な事は考えるな、俺! 俺は舞を――」


「何さ、ゆーお兄ちゃん」


 頭の中で走れメロスの演劇をしているうちに、いつの間にか舞に追い付いていたらしい。ぶすっと頬を膨らませた舞が、仁王立ちして進路を塞いでいた。


「っと……うわっ!」


 いきなりの舞の登場に、反応が数瞬遅れてしまう。俺は急停止しようと試みたけど勢いを殺しきれなかった。


 俺は前につんのめり、こけそうになる。そう、舞が居る前方に、だ。


「のああぁッ!」


「……! わっ!」


 舞は右足を軸に、さっと体を右にずらして、襲い来る俺の体をかわす。


「ふべらっ!」


 かわされた俺はただ引力に引っ張られ、無様にこける。そして、アスファルトにファーストキッスを奪われた(保育園時代、愛とちゅーした事は度外視)。

 ――俺のファーストキッスは、アスファルトさんです。苦いコールタール味がしました。……なんて冗談きついのだろうか。人生の汚点ではないか。


「ったた……」


 幸い、通行人が皆無だったため公衆の面前で醜態を曝す事だけは免れた。

 顔を上げて、鼻をさする。鼻血は出ていないようだ。


「……いつまで轢かれた蛙みたいにしてるのさ。みっともない」


 頭上から、舞が怒りを孕ませた声を容赦無く降らせ、俺の頭を突き刺す。

 舞の声音は、切れ味鋭い万能包丁だ。キュウリもくっつかなくてあら便利。今なら高枝切り鋏も付けてお値段税込み九千円――だから何だこのモノローグは。俺は何をしたいわけなのやら。


「ほら、早く立たないと人来るよ」


「あ、あぁ……ッ!」


 立とうとして顔を上げた瞬間、俺は金縛りに遭った。舞が正面に立っていたのはまだいい。しかし、三角地帯を包み込む白と水色のストライプまで見えたのは、大きな誤算だった。


「?」


 舞は、俺が瞠目して固まっているのを不審に思ったのか、俺の視線を目で追う。そして行き着いた先は……自分のスカートの中。


「……ッ! いやあぁぁぁ!」


 舞のローファーの底が眼前に迫る。舞の素晴らしいストライプの他に、過去の記憶が脳みそを駆け巡る。ああ、これが走馬――


「ごふっ!」


 顔面に舞のローファーがめり込む。目前に星が縦横無尽に飛んでいる。駄目だ、意識が……。……いや、踏ん張るんだ俺。舞に言い聞かせてやらなくては。

 俺は決心を再確認し、めり込んだ足の足首をむんずと掴む。


「きゃ……何すんのさ! 離して!」


 舞は足をぶんぶんと激しく左右に振るう。

 ――見事に舞は罠に掛かった。本当は、あまりこういう手は使いたくなかったのだけど。仕方ないのだ。


「おー、もっと足を振れい。いーい眺めだなあ。はっはっはっはっは」


 俺の乾いた笑い声が、澄み渡る清々しい青空に拡散していく。

 こういう時、閑静な住宅街、しかもブロック塀に左右を挟まれている狭い道は助かる。通行人や近隣住民の目が無いからこそできる荒業だ。おそらく、見付かったら通報されるだろう。内心、誰か来るのではないかと冷や冷やしている。


「馬鹿あ! 見ないでえ!」


 舞は八重歯を剥き出し、両手でスカートを押さえて、少し目を潤ませながら足を振るう。振るう力がさっきより幾分弱くなっているのは、気のせいでないはず。


「舞が足どけたら、離してやってもいいよ」


 舞に選択権は無い。幼なじみで兄と慕ってる少年にずっとぱんつを曝すのと、すぐにこの恥辱から解放されるの……女の子なら、まず後者だよな。


 舞は今にも泣きそうな顔で「う〜っ」と唸っている。その風体は、ちっちゃい体でちびりそうになりながらも相手を威嚇する仔犬のようだった。


 と、舞の足振りがぴたりと止まる。どうやら説得に応じたようだ。


「は、早く立ってよ!」


「言われなくても……よっと」


 舞の足首を離し、アスファルトに手を着いて立ち上がる。で、制服についた土埃をぱたぱたとほろい、手の汚れをぱんぱんと払う。 

 そして、舞の顔を見てみる。舞は愛よりちっちゃこくて、身長は俺の胸までしかない。必然、見下ろす体になるわけだけど……何とも可愛らしい。

 涙目で上目遣い、さらには八重歯を剥き出して「う〜」と唸りながら俺を睨み据えている。本当に仔犬みたいだ。ポニーテールが犬の尻尾に見えてならない。


「舞」


 舞の名を呼ぶ。舞はそれに答えず、ただ涙目で唸って、威嚇していた。


「……」


 俺は無言で、舞を抱き寄せる。舞はいきなりの事に呆気にとられ、抵抗すらしなかった。だけど、すぐに状況を飲み込み、暴れ始める。


「は、離して! ……いやあぁぁ! ちか……もがっ……むー」


「俺を犯罪者に仕立て上げようとすな! ……ったく」


 危うく、痴漢扱いされるところだった。何とか舞の口を塞ぎ、それだけは回避。


「いいか、舞。よく聞けよ」


 舞は頭をぶんぶんと振り、完全な拒絶の態度をとる。だがしかし、拒絶されようが言わねばならない。


「……舞、ごふっ!」


 腹に手痛い衝撃。舞のボディーブローが綺麗に腹に入った。朝飯のトーストとココアと野菜サラダと味噌汁の奔流が、喉に競り上がって来る。味噌汁だけが異質な気がするが、俺は、朝は絶対に味噌汁を飲まないと駄目なのだ。日本人だから。


「うぷっ……うー……んぐ」


 必死に、せり上がってきた気持ち悪いものを飲み込む。舞はボディーブロー第二波を放とうとしていた。これを食らったら確実に吐くだろう。


 舞の口を塞いだ手を外して、舞の口を解放。代わりに、両手で舞をぎゅっと固く抱き締める。これでボディーブローは封じた。


「馬鹿あ! ゆーお兄ちゃんの馬鹿あ!」


 今度はじたばたと暴れ始める舞。何というじゃじゃ馬なのか。


「舞!」


 喝を入れるがのように力強く、舞の名を言う。舞はびくっと竦み上がり、恐る恐る俺の顔を見上げる。

 先程の威勢はどこに引越したのやら。その顔は恐怖に怯えた仔犬のようで。うるうるとした上目で、俺の瞳を覗いてくる。


 そんな舞に優しく微笑み掛け、そっと頭に手を置く。舞は叩かれると勘違いしたのだろう。固く瞼を閉じ、体を強張らせた。だが、俺が頭を撫でてやると同時にその緊張を解く。

 さらさらの髪だ。愛に負けず劣らずの、気持ち良い撫で心地。


「あ……」


「舞。何があったかは知らないけどな、愛に当たっちゃ駄目だろ」


 舞はぐっと顎を引き、頬を膨らませて唇を尖らせる。この仕草はいじけた時の愛にそっくりだった。本当に姉妹なんだ、と思う。澪姉はあんまり似てないけども。


 愛と舞が可愛い部類に入るとしたら、澪姉は綺麗な部類に入るのだろう……って、今はそんな悠長な事を考えてる場合じゃない。目の前にいる妹分をなんとか宥めないと。


「し、知らないもん。……ゆーお兄ちゃんに、女の子の事情なんて解らないよ……」


 はっきり言わせてもらえば、女の子の事情なんてちんぷんかんぷんだ。ああ、俺は解らず屋だ。だけど、それがどうしたと言うのか。もっと大事な事があるだろうに。


「……ああ、解らないね」


 俺の言葉に、舞はきっと顔を上げて、また、威嚇する仔犬のような顔で八重歯を剥き出す。


「……ッ! だったら――」


「だけどな、一つだけ言わせてくれ。……舞、怒ったおまえの顔なんて見たくない。んな顔するくらいなら、いつも通り明るく笑って、その辛い事情なんか吹っ飛ばしてやりゃいいんだ。……愛みたいに、辛い時もマイペースで乗り切れとは言わない。澪姉みたいに、何でも飄飄と受け流せるようになれとも言わない――」


 舞が反論しようとするところを、間髪入れずに言葉を紡いで遮った。舞は、ぐっと言葉を飲み込み、俺の言葉に聴き入る。


「――おまえには、おまえの良さがある。それこそ愛とも澪姉とも違う良さが、な。だから舞。笑ってくれよ。おまえの笑顔が見たいな」


 ……キザだ。あまりにもキザ過ぎる。俺はこんなキャラだったか?


 頭の片隅にそんな考えを残しながら、舞の頭を撫でてやる。舞のうるうるした大きな目から、大粒の涙が一粒、ぽろりと零れる。それが引き金となったのか、舞はぽろぽろと涙を零し始めた。

 なんだか俺が泣かせたみたいで、ひどく落ち着かない。


「解ってるもん! ……っく、ううっ……解るもん! ……うあぁぁぁん……あぁぁぁぁ……」


 とうとう舞がマジ泣きしてしまった。ガキの頃はよく泣かせて遊んだけど、今回は泣かせるつもりなんて毛頭無かったのに。むしろ元気付けようとしたのに。

 しかし……どうしようか。愛に見つかったら昔みたいにまた怒られる。


「な、泣くなよ。さっきも言っただろ? 笑えって。……笑った舞の顔がなあ、俺は好きなんだよ!」


 青空に響き渡る不協和音は、舞の泣き声と俺の“好き”発言。

 言った。言ってしまった。愛にも好きって言った事ないのに(保育園時代、愛に大好きと連呼していたのは度外視)。これは愛のカンに障るだろう。


「ぐすっ……本当に好きなの?」


 目を真っ赤に泣き腫らした舞が、上目遣いで俺の瞳を覗き込む。捨てられた仔犬みたいな、救済を求め縋り付くような潤んだ目。

 待て待て待て。なんて卑怯な目つきなんだ。そんな目で女の子“好き?”なんて言われたら――


「好きに決まってるだろ」


 としか言えないだろうに。ああ、今俺は物凄くキザだ。自分の性に合わないからなのか、どこと無くむず痒さを感じる。


 自分に馬鹿野郎と言いたい。愛に相応しい男になる、と考えた故、愛のために舞を元気付けようとした。

 だけど、このままだと、俺が舞の事を好き、みたいなあらぬ誤解を招いてしまう。


「あー、いや、舞? あのな、俺は舞の笑顔が好きなわけで、舞自体が好きってわけじゃないからな?」


 ここを履き違えてくれたら困る。俺が好きなやつは…………誰だ? そういえば、俺には好きなやつなんて居なかった。みんなが言う、恋愛感情というものがイマイチ理解できない。

 それは兎も角として舞の事が好きではないのは確か。好きという言葉は、そういう仲になれたやつに言うため、心の中に保管しておこう。


「……」


 不意に、舞が抱き着いてきた。突拍子の無い行動にかなり面食らってしまう。


「んな……ま、舞?」


 俺の胸に顔を埋めているから、舞がどのような表情をしているか解らない。呼吸や体温といった、表面上の事しか解らない。


「解ってるよ。……だけど」


 舞はついと顔を上げた。泣き腫らした目を細め、口元を緩ませた顔があった。


「……ありがと」


 一瞬だけど、愛の顔と舞の顔がダブって見えた。そんな瓜二つというほどでもないけど、やっぱり似ている。仕草とか自然な笑い方とか、そういう所が。


「お……おう」


 なんだ可愛い顔もお礼もできたんだな、と思いつつ目を背けてしまう。ずっと直視していたら、変な気でも起きてしまいそうだから。


「て、てか、そろそろ離れてくれないか? 早めに出たとはいえ、そろそろ学生が登校する時間だぜ」


 舞の肩をぐいと押してみるけど、逆効果だった。舞はしがみつくかのように、きゅっと力を強くする。


「あと、少しだけ……」



 そして、うにうにと胸に仔猫みたいにして頬擦りをしてくる。何て言うか、愛と舞は二人共、小さい動物みたいで可愛らしい。


 それにしても、何で舞は急に甘えてきたのだろう。普段の舞の態度からは、到底考えられないような行動の数々。よく解らないが、これが乙女心とかいうやつなのだろうか。


 ……なんて悠長に構えている場合ではない。早く離れないと誰かに見つかってしまう。

 不安に駆られ、周囲を見渡す。

前方は少し進めばT字路となっている。

見た限り、人は居ないようだ。左右は俺より背の高いブロック塀。その灰色と道の狭さがあいまって、独特の圧迫感を生む。一番気になるのは背後だ。上半身をひねって後ろを振り返ると、真っすぐに伸びた路上に一つの人影を発見した。二つのスクールバックを重そうに両手にぶら下げ、ふらふらと歩いている人影だ。


「ゆーくぅ〜ん! 重たいよー!」


 やはり愛だった。愛にはこの状況を見られたくない。まさか愛だって、俺が舞を抱いているこの状況を快く思ったりはしないだろう。


「……舞、もう離れな」


 舞は淋しげにしながらも素直に離れてくれた。それを褒める意味合いを込めて、舞の頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でてやる。すると、淋しげだった目が、安心したのかとろんと細まる。


 ほっと一安心し、くるりと方向転換。愛は数十メートル前方で、未だにふらふらと歩いていた。あっちにふらりこっちにふらりと、いつ転んでもおかしくないような、剣呑さを感じさせる歩き方だ。


「よし、舞、行くか」


 俺は背後に居る舞に言い残し、危なっかしい愛の元へと行くため、アスファルトを蹴って駆け出した。



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