After Story Of Prologue
『そうなの? じゃあ、今から部屋に来てもいいよ』
愛からこのメールが届いて三分ほど経過した。俺は今、古典のプリントと黄な粉チョコを右手に携え、ベランダに立っている。
日は既に落ち、替わりに半月が顔を出した。辺りは静寂に包まれ、頼りない月明かりが一層その静けさに拍車を掛ける。
目前には明かりの点いた、ピンクのカーテンが閉められた愛の部屋。どうやら愛は部屋に居るようだ。
「よっ、と」
金属製の、俺の腰くらいまである柵を軽く飛び越える。冊に着いた左手に、心地良い冷たさが。なるべく音を立てないようにして降り、落ちないよう慎重に屋根伝いを歩く。
ガキの頃は身軽だったから、音を立てずに素早く行けた。だけど、今同じ事をすれば、近所迷惑必至の煩い足音が立つだろう。
これまた素足には心地良い冷たさの屋根を右にひたひたと歩けば、すぐに飛び移りポイントに到着。まあ、どこから飛び移ろうが大差は無いのだけど、ここからが愛の部屋に一番行き易い。多分。
「とうっ」
一メートルくらいの隙間を華麗に飛び、愛家の屋根に着地。少し、薄い金属が凹むような音が鳴る。が、これといって耳障りなわけでもなかった。
顔を上げると同時、愛の部屋のカーテンがさーっと開いた。で、窓が勝手に開く。もちろん、自動の窓ではない。誰かが開けたのだ。当然と言えば当然だけど。ひとりでに開いたら怖過ぎる。
開いた窓からひょこりと出てきたのは、やはり愛の顔だった。
「あっ、やっぱりゆー君だ」
愛は窓から上半身を乗り出し、外に出ようとする。風呂に入った後なのだろう、水色で星柄の薄手のパジャマを着ていた。
「よう。一時間半振りかな。あぁ、出て来なくていいよ」
出て来ようとする愛を口で制し、窓の元へと慎重に歩いて行く。愛は、すっと窓から退いて、自分の部屋に戻った。
「おじゃましますよっと」
上半身から体を滑り込ませ、愛の部屋に入る。まず俺を出迎えたのは、ふかふかのハート型クッションだった。顔が、クッションに包み込まれるかのように埋まってしまう。愛の香りが、微量、鼻腔に広がる。
「むご……ぷはっ」
クッションから顔を上げ、半分逆立ちのような体のまま、愛を捜す。
「ゆー君、こっちだよ」
部屋の真ん中に設置されたガラステーブル。俺から見て奥側で、愛は女の子座りで座っている。尻には、俺がさっきまで顔を埋めていたものと同型のクッションを敷いていた。
愛の部屋は、いかにも女の子といった感じの部屋だ。全体的にぽやっとしているのは、愛の人柄によるものだろうか。
視線をずらすと、部屋の一隅でこちらを覗いていたでっかいクマの縫いぐるみと目が合う。いつまでも無機質な瞳と見つめ合うのは気味が悪いから、対角線上に目を反らすと、目に入ったのは机。その上は俺の机とは違い小綺麗に整頓されている。
起き上がり窓を閉めながら訊く。愛は「ああ」と曖昧な声を上げた。カーテンを閉めてから振り返ると、愛が申し訳なさそうに俯いているのが視界に入った。
「う〜、ごめんね。残り物はゆー君に失礼でしょって言われちゃったの」
それもそうか。友人の子供に残飯は食わせるはずも無い。後でちゃんとお邪魔して食わせてもらう事にしよう。
「あー、いいよいいよ。……それより、このプリント全く解らんから教えてくれ」
ガラステーブルを挟んで、愛の前にどかりと胡座をかく。愛の背後には、白いシーツとその上に羊さん柄の掛け布団が敷かれたベッドがある。
「ゆー君、ここ、前はできてたじゃない」
テーブルに敷かれたプリントを見て、愛は批難気味の口調で言う。
「ん、あぁ……忘れた」
俺の言葉に、愛は相当衝撃を受けたのか両手で口を押さえる。
愛は天を仰いでから、口を手で被ったまま溜め息を一つ漏らす。
で、手を下ろしてから二、三度ゆっくりと深呼吸の後、俺に向き直る。
「もう一度、ちゃんとやろうね。ゆー君はやればできるんだから」
そう、まったくその通り。自分で言うのも何だが、俺は勉強さえすればそれなりにできるのだ。だが、いかんせん勉強というものは肌に合わない。正直、めんどくさい。
「よろしくな」
愛は今一度溜息を吐いた後、上半身を乗り出してプリントを指差し始めた。
「はぁ……いい、ここはね――」
しかし、あれだ。なんか胸元がちらちらしているのは、俺を集中させないための策略だろうか。――いかん、集中しろ、勇。おまえならできる。
集中……………………できない。
何回もちら見してしまう。愛の胸は、小学校中学年辺りから既に発育を始めていたような気がする。今はメロンくらいあるだろうか。見立てだと、Eに近いDくらいか。かなり成長したと思う。……あ、ちらっと水色のが見えた。
「――ゆー君? 聞いてるの?」
「……ん? あ……悪い悪い。はい、黄な粉チョコ」
傍らに置いていた黄色い包みがキュートな黄な粉チョコ(板チョコだ)を、愛の前にちらつかせる。
「わーい。黄な粉チョコだあ。ゆー君ありがとー」
愛は意気揚々と俺から黄な粉チョコを受け取ると、包装を破り、テーブル脇のごみ箱に捨てる。そして、黄色っぽい色合いの板チョコを一かじり。小気味良い、板チョコの折れる音が部屋内に響いた。
「うん。いつもながら美味しい……って、あれ? 何か違うような……」
愛はチョコを頬張りながら、首を傾げ頭上にクエスチョンマークを浮かべる。黄な粉チョコに違いはない筈なのだけど。
「え? 普通の黄な粉チョコだぞ」
愛は、両手でチョコを持ち、胸の前に持ってくる。で、チョコに付けた自分の歯形をじっと見つめる。「むぅ」と唸る声と、歯形を一生懸命に見つめるその仕草が愛くるしい。
「……黄な粉チョコがじゃなくて、根本的に何かが違うの……」
愛はチョコの周りのアルミ箔を指で弄りながら、ますます思案顔になる。首を右に左に傾げ、たまに俺を一瞥。で、また首を傾げてみたり。
で、また首を傾げてみたり。
「……うーん……ま、いっか」
そう言い、愛はベッドに背中を預け、またチョコを一かじり。
「あ、俺にも」
テーブルから身を乗り出し、愛にチョコをねだる。
「ん」
愛は、食いかけのチョコを俺の口元に差し出す。俺は差し出された歯形付きチョコにかじりつこうと、口を開ける。
「ふふっ」
俺が口を閉じるより数瞬早く、愛がチョコをすっと引き戻す。そのため俺は、味も素っ気も無い空気を食す事になった。
……恥ずかしい。一泡食わされてしまった。何のためにこんなことをするのやら。耳が熱くなっているのが分かる。
「……愛、何のつもりだよ」
恥ずかしさのあまり、恨みを少々加えた視線を愛に投げ掛けてしまう。
「あははっ。ゆー君てば可愛い」
愛はそう言いながら、見せ付けるようにしてチョコを一口頬張る。意外と意地悪なやつだ。
「俺にも食わせてくれ」
立ち上がり、テーブルを中心に時計回りして愛の元へ回り込む。
愛は立ち上がり、背中をこちらに向けてチョコをかばう。
「嫌だよ〜。私にくれたんでしょ? 悔しかったら取ってみなよ」
愛は、意地悪に微笑みながらこんな事を言う。確かにあげた物だけど、それはまた別の話。
今、無性にチョコが食いたいのだ。俺の本能が甘味を求めている。
「交渉……決裂だな」
あまり交渉してないけど、それはこの際置いておこう。何だかどこかで聞いた事のある台詞を呟き、俺は愛の脇腹を掴む。愛はびくりと体を竦めて、いやいやと体を左右に振る。
「フハハ。おまえの弱点は把握済みよ」
そう、愛はくすぐりが大の苦手なのだ。特に脇腹が弱い。小さい頃、じゃれ合っていた時に偶然発見した。
愛はくすぐりから逃れるために、一生懸命体を捻る。その顔は、本当に必死なものだった。何か可哀相に見えてきた。
だけど、俺は止めない。鬼と言われようが悪魔と言われようが、俺には成すべき事がある。そう、本能が甘味を求めているのだ。
「そーれ」
それぞれの指を別々に動かし、愛の脇腹をくすぐる。
「っ……いや……あははは! やめ……あっははは! 」
愛は物凄く大笑いしながら、体を右に左によじる。だけど、それでいながらもチョコは死守していた。敵ながら天晴な精神力だ。
このまま膠着状態が続けば、愛は笑い死んでしまうだろう。早くチョコを回収しないと。
「ほら、寄越せ……あだっ!」
愛があまり体をよじるものだから、テーブルの足に右足の小指をぶつけてしまった。
痛い。物凄く。おそらくこれは、“足の小指をぶつけたら痛い物ランキング(今作った)”の首位に踊り出た。おめでとう。
――なんて悠長な事考えてる場合じゃない。本当にふらついてしまうくらい痛い。
「うおっ!」
「ひゃあ!」
バランスを崩した俺は愛を道連れに、倒れそうになる。一瞬で俺は判断した。床は痛い。テーブルはもっと痛い。それなら――
「ふんぬー!」
思い切り体をひねり、ベッドの方に向ける。背中からごきりという不吉な音が響いたけど、そんな事はどうでもいい。
羊さんの掛け布団の上に、愛を下敷きにして倒れ込む。同時、顔面にむにっとした衝撃(?)が走る。
ベッドのスプリングが普段なら絶対に受けない二人分の体重を受け止めて、悲鳴を上げる。俺の腰からも、痛みという名の悲鳴が。結局、痛い思いをしてしまった。
「う〜ん……ゆー君、重い……」
という愛の言葉はあまり耳に届かない。今は、この正体不明のむにっとしたものが何なのか、正体を突き止めなければならないから。
分析開始だ。――むにっとしている他に、何かが定期的にどくどくと鳴っていた。このリズムは心臓の鼓動に似ている。
…………まさか。
恐る恐る顔を上げれば、予想は的中していた。俺は愛の胸の谷間に顔を埋めていたようだ。黄な粉チョコは、愛の傍らに放り出されていた。
ここで、今の体勢から見て左側にある部屋のドアが開く。そこからひょっこりと顔を出したのは舞だった。
愛を探しているのか、黒髪のポニテを揺らし周囲を窺っている。頼むから、こっちを向かないでほしい。
「愛お姉ちゃん……分からない問題がッ!」
俺の願いも虚しく、舞はこちらを見てしまう。そして、吊りがちな目を大きく見開き、変な叫び声を上げる。体は金縛りに遭ったかのように硬直し、視線はこちらに釘付け。
そりゃそうだろう。この体勢は“あれ”しかないだろうし。姉と、兄と慕ってる少年が、“あれ”しちゃう準備中だと勘違いでもしているのだろう。“あれ”しちゃう準備中だと勘違いでもしているのだろう。
「あれ、どしたの舞」
愛は舞の方に顔を向けて、何事も無いかのように応対する。舞はそれで我に帰ったようだ。その舞の目には、じわりと涙が浮かんでいるように見えた。
「……失礼しました〜」
舞はさっと身を退き、ドアを思い切り引く。なにもかもを拒絶するかのような、ばたんという音が響く。ドアが壊れたかも、と思うくらいだ。
『うあぁぁん! 澪お姉ちゃん!』
廊下をどたどたと駆ける音と、澪姉を呼ぶ叫びが壁越しに聞こえた。
「舞ってばどうしたんだろ?」
愛は上体を起こし、小首を傾る。どうしたもこうしたもない。舞は勘違いながら、愛が“あれ”しちゃいそうな現場を目撃したのだから。
そう、勘違いだ。だから質が悪い。昔から思い込みの激しいやつだったからな。多分、尾ヒレを付けて澪姉に報告するのだろう。
「やべ……愛、早く勉強に戻るぞ」
このままの体勢は、健全な青少年としては辛いし、澪姉に発見されたら私刑確定だ。
『なんなのさ舞。あたしは忙しいのに』
『テレビ見て笑いこけてんのは忙しい内に入んないでしょ! それより愛お姉ちゃんが!』
仕事が早い。もう連れて来たようだ。俺は痛む腰に鞭打ち、忍者の如く、ささっと移動。定位置に正座する。
愛はというと、黄な粉チョコを仰向けのままぱくついていた。
何をやっているんだ。チョコなんていつでも食えるだろうに。早く戻ってくれ。
と、ここでドアががちゃりと開く。愛は間に合わなかったようだ。……俺は、どうやら今日ここで死ぬようだ。さよなら現世。
「愛? あんたどしたの……あっ」
首だけ出した澪姉は、愛より先に、俺を見つける。怠そうに細められた目に、セミショートの茶髪がよく似合う。――とか考えてどうする。どうやって切り抜けるか考えなければ。
「お、お邪魔してる」
澪姉は特に気にする様子も無く、「ん〜」と生返事をしてきた。で、仰向けに寝そべってチョコをぱくついているだろう愛を発見。少し注視した後、澪姉は「ん〜?」と言いながら首を傾げ、そして首を引っ込める。
「何もしてないじゃない」
「うえっ? だってさっき……」
入れ代わりに、舞が首だけを出す。舞は寝そべっている愛と正座している俺を、交互に、胡散臭そうに見比べ、首を引っ込める。それと同時に、部屋のドアもぱたんと閉まる。
『証拠らしい証拠がないなあ……でも、本当なんだからね!』
『はいはい。早くお風呂に入って寝なさい』
澪姉と舞の会話と足音が、徐々に遠退いて、遂には聞こえなくなる。どうやら助かったようだ。
「……愛? どうした?」
さっきから、愛がぴくりとも動かないのが非常に気になる。自分の姉妹が来たにも拘わらず、何も言葉を交わさないのはおかしいだろう。
立ち上がり、愛の元へ行く。愛は、一定のリズムで呼吸をしていた。……まさか。
「う〜ん……むにゃむにゃ……もう食べれない〜」
愛はチョコを顔に載せて寝ていた。まったく、甘いものを食べて歯磨きせずに寝たら虫歯になるだろう。
「……ったく」
寝てしまった愛の傍らに座る。ベッドのスプリングが、ぎしり、と小さな軋みを上げた。
ちょっとくらい、寝顔を観察しても罰は当たらないだろう。帰る時にでも起こしてやればいい。
「色々と仕事ばっかで疲れてんだろうな……」
チョコをそっと、愛を起こさないように退けてやる。愛の寝顔は、うにゅにゅうと微笑んでいるような、幸せそうな寝顔だ。そう、見ているまで幸せになるような寝顔だった。
愛の頭を、労いの意を込めてそっと撫でてやる。
「……ゆー君……」
「え?」
どきりとした。まさか起きているとは思わなかったから。
「ゆー君……むにゃ……すーすー」
だが、愛に起きる気配は無い。どうやら寝言だったらしい。紛らしい寝言だ。
「焦らせるなよ……」
愛の黒髪はさらさらの指通りで、撫でてるこっちも気持ち良くなる。
幸せ。その言葉が、とてもしっくりとくる。愛と一緒に居れば、どんな毒気でも、一瞬にして全て抜けてしまう。
これは何でもない、日常の一コマ。愛が居る。俺の日常ではそれが当たり前だ。 それがなぜか、急に愛おしく思えてきた。
俺も今年で十七歳。大人の階段も、残り三段くらいかな。多分、心が成長したのだろう。何でもない日常から、幸せを見つけれるようになったのだろう。
「……愛、俺は今、凄く幸せだぞ」
愛に返答を求めている訳ではない。ただ何と無く、口をついたのだ。
「ん……そうなの?」
愛がもぞつきながら言う。予想外の出来事に驚き、半ば反射的に愛の頭から手を退ける。
「うおっ! ……びっくりさせんなよ」
愛は微妙に焦点の合わない虚ろな目で、俺の顔をじいっと見つめてきた。
そして、さっきまで自分が撫でられていた右手を、はしりと両手で掴み自らの頭に持っていく。
「ん〜、ゆー君、もっと撫でて〜。とっても気持ち良いから〜」
愛は、ぱっと俺の手から両手を離し、今度は俺の腰を掴んで揺すり始めた。
「わ、解った…………ほら、これでいいだろ」
愛の頭を、再度優しく撫でてやる。愛は安らかな微笑みを浮かべながら、すっと瞼を閉じた。
「ゆー君……」
「うん?」
「……大好き……」
また、どきりとした。『大好き』って――マジかよ? いや、心の準備が。両親にどう説明したら良いんだ。俺の頭で、妄想がどんどん膨らんでゆく。
「むにゃ……すーすー……」
「って寝言かい!」
期待した俺が馬鹿だった。いや、期待したって仕方ない。普通に考えて学年一の美少女が、ただの幼なじみ、しかも不良という名の棺に片足突っ込んでいるようなやつの事を好きなはずがないから。
ちらりと、愛の寝顔を一瞥する。ああ、目茶苦茶可愛い。幼なじみ、しかも家も近所だから、毎日見飽きる程見たはずのこの顔。だけども、一度足りとも見飽きたなんて思った事は無い。
時が止まれば良い。ずっと愛と居たい。そう切望するのは、今日が初めてかもしれない。そう、ずっと、ずーっと、愛とこのままで――