奥武信利教の福音書
私は、その人のことを、今では尊師と呼んでいる。
私が今から書こうとしているのは、キリスト教における福音書と同じ立ち位置の書物である。すなわち、使徒たちがキリストの言動を、例えば「復活した」と認識し、実際に復活したかどうかは別として、認識したとおりに書にしたためたのと同様、私が奥武信利尊師の言動及び思想を認識したとおりに書にしたためたものである。
本来であれば、真の原典である『学習時間調査』を読まれたいところだが、あいにく『学習時間調査』は、卒業式を以て奥武尊師の私たちへの伝道活動が終わった時点でびりびりに破られ尻に敷かれごみ焼却場へと送られたため、残念ながら本書が現存する最高の教典である。
『学習時間調査』という幻の教典の位置づけであるが、教義(奥武尊師の言葉)が屎尿のようなものであり、学習時間調査というシステムが逆噴射仕様のバキュームカーのようなものと思っていただきたい。当然のことながら、日本国憲法においては言論の自由が保障されているため、後述の教義のような主張をする人間がいることは日本国憲法が正常に機能していることの証拠になる。屎尿が発生することは、生きている証拠である。しかし日本国憲法以上の存在として信徒たちには奥武信利教戒律があるため、屎尿を一身に浴びることが信徒たちの特権なのである。よく知られているように、屎尿には植物の生育にとって重要な栄養素が多く含まれている。しかし後述のように信徒を信徒たらしめるものは自主意思ではなく神の意思であり神聖にして犯すべからざるものである。人間の意思によって植物の根っこに選択的に屎尿を噴射するのではなく、神の意志によって選ばれた人間が屎尿の恩恵を一身に浴びることを許されるのである。
奥武信利教の教えを受けることは、徳慈県立智進高等学校に入学し、三年次に理系特進クラスに進学し、さらに完全なる確率過程であるクラス分けにおいて二分の一の確率で最聖奥武信利尊師のクラスに振り分けられた者(以降、「信徒」と呼ぶ)に与えられた特権である。したがって奥武信利教は選民思想に基づいている。信徒であるというステータスは、信徒たち自らの意思によって与えられるものではなく、神の意思によって与えられる神聖なものであるため、犯してはならない。
奥武信利教信徒というステータスは、日本国民というステータスに対し優位な位置にある。したがって、信徒たちに適用されるルールとして、日本国憲法より上位に奥武信利教戒律が位置する。たとえば、日本国憲法第十三条において幸福追求権が保障されているが、奥武尊師への帰依のためであれば、公務員が生徒の幸福追求権を戒律によって制限することが許される。また、憲法第二十条において信教の自由が保障されているが、信徒というステータスは神聖な犯すべからざるものであるため、神の、信徒をして信徒たらしめる意思が優越する。
奥武信利教が選民思想であるにもかかわらず、自ら進んで奥武信利教徒になりたいと願望していた者もいた。しかし、私は仮にそのような人がいた場合、次のように忠告する。「もしも、私生活を自らの意思で設計したいと願うのであれば、奥武信利教徒になるべきではない」と。これは「とんかつを一生食べて暮らしたいならば、イスラム教徒になるべきでない」という忠告に等しい。イスラム教において「甲、豚を食べること」イコール「乙、ハラーム」とされるのと同様、奥武信利教においては「丙、計画を立てること」イコール「丁、自らの意思で私生活を設計することを放棄し、私生活をも奥武尊師の教えに従って設計すること」という等式が成り立つからである。奥武信利教徒の脳には丙と丁がイコールであるという教えがこびりついている。仕事を円滑に進める上で、計画を立て、それを上司と共有することは非常に重要である。しかし、奥武信利教徒にとって丙は丁とイコールであるため、私生活を自らの意思で設計したいと欲する者は「もっと計画的に仕事をしろ」という上司の命令、あるいは、仕事の円滑な進行と人間性の育成を目的とした職場における目標達成評価システムを、アレルギー反応のように反射的に拒むようになる
さて、奥武信利尊師とはいかなる人物であろうか。言うまでもなく奥武信利尊師は天才教祖であり、同時に神の預言者でもある。かの有名な長いひげの紫の服の尊師は、信徒たちに、グルの教えは絶対だと教え、自らの意思によりグルの教えと異なる言動があった場合、その魂を清浄な天界へと導いた。同様に、学習時間調査のコメント欄や行動欄に神の教えと異なることが書かれた場合、それを穢れた言動として、他の全員が見ている中で一喝を受けることができるのである。かくして奥武信利教は教祖の天才的なマインドコントロール術により信者を得ることに成功し、自らの意思よりも神の意思を優先することを広く普及させた。
また、奥武尊師は、大学という名の天使からの、人生を導くお言葉を伝える預言者としての役割も担っている。天使のお告げは神のお告げに次いで神聖なものであるため、犯してはならない。
ただし、ここで奥武尊師は重大な神のお告げを伝えそびれていた。それは「天使たちが最も優先するのは、智進高等学校の名誉である」というお告げであった。したがって、奥武信利教における大学進学アドバイスは、神聖にして犯すべからざるものであると同時に、生徒の将来よりも智進高等学校の名誉を優先したものである、という事態が発生した。
奥武信利教における最も重要な戒律は「自ら自分を評価できる人間になる」ことである。その方法として、学習時間調査の提出が、それを達成するためには不可欠なのである。その中では、二四時間三六五日、したことをすべて報告し、毎日の振り返りコメントを書き、英数国物化倫六教科の学習時間を集計し、週ごとの振り返りコメントを書かねばならない。同時に、それらに対する尊師のお言葉を受けねばならない。自ら自分を評価できる能力、それは、二四時間三六五日の報告、六教科集計、毎日毎週のコメント、それへの尊師の言葉の四つによって完成する。それ以外の方法によって得た、自ら自分を評価する能力には、必ず欠陥があるのだ。
六教科集計以外の数値化の方法を神は禁止されているので、世界史の勉強はしてはならない。したとしても、学習時間の集計に含めてはならない。一日中、世界史の勉強をしたとしたなら、その日の学習時間はゼロである。理系学部にも、世界史の受験を必須化している学部があるが、自らの進路計画よりも神の教えが優先であるため、たとえ世界史の勉強の必要性を自ら感じ、なおかつ進路計画の中に世界史の勉強を取り入れたとしても、神は一切それを評価なさらない。世界史の勉強を頑張ったことで自ら自分を評価する能力には欠陥があるのだ。
では、奥武尊師はどのようなお言葉を神から預かったのだろうか。
奥武尊師は、「エビングハウスの忘却曲線は神聖にして犯すべからず」という神のお告げをお受けになった。したがって、「四回復習しないと忘れる」という真実は、心理学実験でよく行われるような「意味のない文字列を四回見せます。覚えてください。」というような場面だけでなく、いかなる場面であっても真実である。すなわち、犬を意味する英単語がDOGであるという事実も、四回通り問題集を解き「犬を表す英単語は何ですか。」という問題を四回解かなければ覚えられないのである。したがって、奥武尊師監修のもとでは、英語のノートには次のように書かれていなければならない。
犬 DOG 犬 DOG 犬 DOG 犬 DOG
このように書かれていない英語のノートは神への冒涜である。
また、富士山を初めて見たときの感動がどれほど大きなものであったとしても、四回見なければその感動の記憶は雲散霧消してしまうのだ。また、どのような初心者であっても、四回通り練習すれば、ショパンのノクターンを完璧に間違えずに弾けるようになるのである。
次に奥武尊師は、人間の最適睡眠時間は六時間であるという神のお告げをお受けになった。このお告げは絶対であり、たとえ生物学者が「生物の生物たる所以は揺らぎにある」と述べたとしても、神のお告げが絶対なので、その生物学者がいくら「最適睡眠時間には個人差があって当たり前」と主張したところでその主張は間違いである。
ただし、神はこのお告げの後、こうおっしゃった。「睡眠時間が六時間でなかったとしても、一時間半の倍数でなければならない。レム睡眠とノンレム睡眠との周期が一時間半だからだ。」と。神のお告げは絶対なので、一時間半と言えば寸分の狂いもなく一時間半である。したがって、いくら生物学者が「生物には揺らぎがあり、生物にまつわる確率分布関数には必ず広がりがある」と言ってもそれは誤りである。言い換えれば、睡眠時間が七時間半と十三秒になる確率はゼロであり、六時間とゼロ秒になる確率は七割程度なのである。
学習時間調査による尊師への二四時間三六五日したことの報告は重要な戒律であるので、睡眠時間の無報告は神への冒涜であり、且つその睡眠時間が一時間半の倍数から一秒でもずれていた場合であっても神への冒涜である。したがって、一時間半の倍数以外の時間眠ってしまったとしたら、神の怒りを避ける唯一の方法は学習時間調査に虚偽を記入することである。しかし、多くの日本人が信仰している仏教においては妄語、すなわち嘘は邪悪なものである。それでも、奥武信利教の教義に従い神の怒りを逃れるためには、仏教の教えに背いた背徳感を覚えることはやむを得ない。奥武信利教の信徒が生き延びるには、仏教の教えに背くことを習慣化しなければならない。将来、職場の上司に嘘の報告をすることを習慣化しなければならない。
人生はスピードとタイミングであるというのも神のお告げである。
川辺でのんびり時間を忘れてバーベキューをし、翌日から学校や仕事を頑張る人は多い。一方で、人生にスピードとタイミングが重要な場面があるのは多くの人の共通認識である。しかし、奥武尊師は、神から「いかなる場合であっても人生はスピードとタイミングである」というお告げをお受けになった。したがって川辺で時間を忘れてバーベキューをしている間も「人生はスピードとタイミング」なのである。では、私が「いかなる場合であっても人生はスピードとタイミング」であると奥武尊師が神からお告げを受けたと判断した根拠を述べようと思う。それは、先述のような戒律が定められていることである。もし、スピードとタイミング以外のものが重要であるような人生の場面があったならば、「人生はスピードとタイミング」と言う言葉を自らのモットーとしている尊師にバーベキューしたことを報告しなくてよいはずである。
信長は、戦国の世を切り開くスピードで誰にも負けなかったが、光秀の裏切るタイミングを見計らうことに失敗した。一方で、家康は天下を取るタイミングについて天才的であったが、スピードの欠如のため、天下を取った頃には老いぼれていた。したがって、奥武信利教においては、スピードとタイミングの一方しか兼ね備えていない信長と家康は半人前であり、両方をバランス良く兼ね備えた秀吉だけが一人前なのだ。奥武信利教において「信長、秀吉、家康のうち、いちばんの天才は誰か?」という問いの答えは、秀吉以外にあり得ないのだ。
手を動かさない(書かない)ことは勉強ではないというのもまた預言だ。
ところで、次の数学的事実を、理解しなくてもよいから、読んでみてほしい。
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有界な単調増加数列は一定値に収束する。
このことを「連続性の公理」と呼び、
円周率 三、一四一五九二六五、、、
のような、無限に続く不思議な数が存在できることは、連続性の公理に基づいている。
ここで、単調増加数列とは、例えば次のようなものである。
二分の一、一、三、五、九、百と五十分の一、円周率の千倍、、、、、、
このように、次々と増えて無限に続く数(整数とは限らない)の列を単調増加数列という。ある数列が有界であるとは、ある値Xが存在し、その数列のどの元を取っても数値Xより大きくないことを言う。一方で、ある数列が一定値Yに収束するとは、すべての正の数Eに対し、ある自然数Nが存在し、その数列の第N項以降とYとの差をすべてE未満にできることを言う。
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この数学的事実は私が大学の数学の講義で最初に習った事実である。もしお暇があれば解読に挑戦していただきたい。
しかし、これを理解しようと頭を抱えている間、あなたの手は動いていない。したがってそれを学習時間調査に「数学の勉強時間」として集計してはならない。
奥武尊師は、よく下記のような背理法を使った。
「皆、数学を二、三時間と連続して勉強しているようだが、そんなにずっと手を動かしていたとしたら腱鞘炎になるはずだ。嘘を報告するのはやめなさい。」
しかし、奥武尊師の口がこう動いている間、手は動いていないので、奥武尊師は数学を全く勉強していないのである。
なお、奥武尊師は、積分記号を見て「見覚えがある」とおっしゃった。すなわち奥武尊師は積分記号を見ても「見覚えがある」程度の数学経験しかお持ちでないのである。しかし、神のお告げを伝えるのが預言者たる奥武尊師の責務なのでやむを得ない。新人数学教師が
「私はね、四回も問題を解くことより、ちゃんとその解き方を覚えて、問題を見た瞬間に解法が思いつくようにすることのほうが大事だと思うんだ。ま、教員経験の深い奥武尊師の言うことのほうが正しいのかもしれないのだけれど。」
と、最後に余計な一文を付け加えねばならないのも、神のお告げなのでやむを得ない。
枝葉末節ではあるが、寝る子は育つと言うが寝る子で育つのは髪の毛と爪と身長だけだというのも神のお告げである。生物学者は、記憶をつかさどる海馬が寝る間に重要な機能を果たすといくら言ったところで、神のお告げは絶対なのでそちらが正しい。
そういえば、宗教には必ずと言っていいほど、特有の儀式がある。たとえば、キリスト教徒は毎週日曜日に教会へ行き、神に祈りを捧げる。また、正月に初詣に出かけるのは日本の神道特有の儀式である。
奥武信利教において、女子生徒の入浴時間は神聖な儀式なので、犯してはならない。
突然だが、仮にあなたが乗客として電車に乗るとしよう。このとき、日本の都会のシステムにおいては、どうしても改札口を通る必要がある。ある人が電車に乗ったならば、その人は必ず改札口を通ったのだと演繹できる。これと同様にして、すべての生徒が、二四時間三六五日、したことをすべて報告したならば、女子生徒が入浴時間を報告したのだと演繹できる。
このことに関しては、尊師自身さえ、口に出して言うこともはばかられていた。それほどに女子生徒の入浴時間は神聖にして犯してはならないものなのだ。
もし仮に、それが神聖な儀式でなかったとするならば、奥武信利教教義に次いで第二最高法規である日本国憲法の第十三条に保証された幸福追求権の一部であるプライバシーの権利、及び性的羞恥心を尊重する立場から、「女子生徒の入浴時間は例外だ」等の特例措置が取られたはずである。
さて、ここまで何度も述べてきたが、奥武信利教徒にとって、最高法規はその戒律であり、第二最高法規は日本国憲法である。不運なことに奥武尊師は、同時に県立学校教員として、すなわち公務員としての職務が与えられてしまった。公務員には、日本国憲法を遵守する試練が与えられる。これは大変な試練である。なぜならば、最高法規たる戒律を守るために、しばしば日本国憲法に反する行為が求められるからである。
これは、奥武尊師、及び我々奥武信利教徒が生まれ持った原罪である。奥武信利教徒として生まれた以上、日本国憲法に反する行為を行うことは、避けられない宿命であり、同時に限界状況でもある。
奥武尊師は、その罪を一身にお受けになった。あたかも十字架にはり付けられたキリストのように、徳慈県庁から一身に批判の声を浴びせられ、奥武信利教徒である我々あまたの民の原罪を、一身に受難なさっているのである。
さて、それでは、奥武尊師が贖罪を達成なさり、奥武信利教徒に心の救済が訪れるためには、どのような解決があるのだろうか。私は、奥武尊師が贖罪を達成なさる方法はただ一つしかないと考える。私は、その解決策を、公務員としての奥武尊師を管理している徳慈県庁に請願申し上げた。
幸いなことに、徳慈県には、公営のごみ処理場、屎尿処理場、下水処理場等がある。これらの施設は、奥武信利教の聖地である徳慈県を浄化するために必要不可欠な、極めて神聖な施設であり、同時に奥武信利教における最も重要な宗教建築である。
私の提唱す唯一の贖罪とは、奥武尊師がそれらの施設において、最期の仕事をなさること、それ以外にないのである。奥武尊師の聖なる力が、聖地浄化のための聖なる宗教建築において、存分に発揮されることによって、徳慈県の選ばれし民たる我々奥武信利教徒の原罪が、すべて浄化されるのである。
今や、私たち奥武信利教徒にとって、奥武尊師の行く末を知る手段はない。なぜならば、奥武尊師をして受難せしめている徳慈県庁は、憲法的な視点からの大罪人である奥武尊師を恥として扱い、我々と接触させることを拒んでいるからである。
したがって、我々奥武信利教徒は、奥武尊師に対して、ごみ処理場、屎尿処理場、または下水処理場に異動辞令が下ることを、ただ神に祈るしかないのである。
さあ、奥武尊師に対して、ごみ処理場、屎尿処理場、または下水処理場への異動辞令が下ることを、毎朝毎晩、神に祈ろうではないか。