あなたの部品をちょうだい
スーツ姿の男性が年代物の腕時計をちらっと見ると、
「まさか僕が寝坊するとは……。ありゃ、地下鉄だともう無理かぁ」
早歩きの彼は小走りになって裏路地へと曲がります。
「うわぁ、チャージしてあったっけ……? 十三分の快速に間に合わなかったら完全に遅刻だな、これ」
そうつぶやいて、もう一度時計を見た彼の足が止まります。
「ちょ、待った! ……止まってるぅ!? マジかよっ!」
彼は慌てて胸元からスマートフォンを引っ張り出します。
「いま、もう四十七分って!? あぁ、終わった。僕の今日……」
そのまま電話を何件かかけると、道ばたに立ったまま。
――すいません、そういうことで本日は……。道ばたで何度もお辞儀をするのでした。
「うーん。……休みにしちゃったのは良いけれど。時計、どうしよう」
彼の左腕に巻き付いている時計は、朝に時間を合わせても寝る前には五分ほど遅れる、そう言う時計です。
そして、彼はその部分まで含めて気に入っているのでした。
ソーラーや電波はもとより、電池やクオーツ、と言った言葉にさえ縁の無い。
それはそれは古い時計です。
「できれば直して使いたいけれど……」
なので当然、量販店やホームセンターでは修理ができるはずも無く。
さらにはあまり有名でも無く、高級でも無いその時計ですが。
今やそれを作ったメーカーさえ無いのです。
修理をするなら、本職の時計職人を頼るしか無いのですが。
「時計屋さん、ねぇ。……やっぱ都心に出なきゃ、無理かなぁ」
普段は入らない裏路地に入った彼は、そこで立ち尽くします。
修理のできそうな時計屋さんに、心当たりは二,三件あるものの。
私鉄と地下鉄を乗り継いで、行くだけでも結構な時間がかかります。
その上、五年間に修理に出したときも修理に二ヶ月以上かかった上。
「もう部品がほとんど残って無くてね。一部絶対に作れない部品もあるんだ。次回は直せないかも知れないよ? 大事に使っても、その辺は機械だからね」
そう言って時計を渡したオヤジさんの顔を思い出します。
修理に出しても直らない可能性の方が高いのです。
「はぁ。やれやれ、じいちゃんも難儀な時計を……」
ふと顔を上げると、住宅の中にそこだけ場違いに店舗がありました。
【時間や】
【想ひ出の時間、相談に応じます】
【アンチヰク時計等、修理承りマス】
そして色あせた看板には、彼の腕時計のメーカーの名前もあります。
「マジか! ……なにここ、知らないんだけど」
腕時計に関してはそこそこマニアである、と自任する彼が知らなかった店。
ホームページもない、SNSのアカウントもない時計屋さんは、住宅地の中にひっそりとありました。
「あのぉ、おはようございまーす」
――カラカラカラ。意外にも軽く開いた引き戸をくぐり、彼は店の中へ入ります。
「すいませーん。…………んー。まだ一〇時前だもんな、出直すか」
「あなたは、だぁれ?」
入り口に向かおうとした彼に、か細い声がかかり。
振り向いた彼の目に、愛らしい少女の姿が映ります。
真っ黒の服を着た中学生くらいの女の子。
彼女が左足を引きずるように、ゆっくりと彼に近づいてきます。
黒髪のおかっぱ頭に大きな瞳。
彼の瞳を覗き込むようにしながら、徐々に距離が詰まります。
「き、キミは。み、み店の子なの、かな?」
そう。
可愛い女の子なのですがあまりにも表情がない。大きな瞳は瞬きすらしない。
彼女が二歩近づくごとに、彼は一歩後じさるのでした。
「ん? ……その時計」
彼女の左腕。やや大きめの腕時計は。彼のものと同じ。
但し、彼のものと同じく。こちらも動いてはいません。
「あ、あなたの時計……」
「き、君のも動いてないね。おんなじヤツで……」
「あなたの部品を、……ちょうだい」
いきなり距離をつめて抱きつかれました。
「ちょっとぉ! タイム、ストップ!!」
一瞬だけちょっと喜んだ彼ですが。全く身動きが取れません。
「マジで動けねぇ! ……キミのお父さん、ゴリラかなんかなのっ!?」
「トキや。……その人はお客さんだよ、おやめ」
やや年老いた男性の声。
「部品が、部品あれば。わたし……」
「お前の部品じゃない、それでは追い剥ぎだよ。――いいから裏に行っておいで」
少女はきびすを返すと、そのまま店の奥へと引っ込みます。
「驚かせてすいません。あの子は時計の部品を組み合わせて、私が作った自動人形でしてね」
「な、なんて自然な」
「ところが。肝心の時計が壊れてしまって、心がなくなってしまったんです」
「心が……?」
「修理をしようにも、川崎工学はもう時計を作っていなくて……」
「部品が、……ない? あ、この時計ね。作れないんですか?」
「そのメーカーの時計は、一部の歯車がコピーできないんですよ。……そしてその時計。あの子の心を刻む歯車だけは、問題がないとみえる」
――はぁ。店主の老人はため息を一つ吐くとゆっくりと彼に近づく。
「正直、その時計を譲って頂けたらあの子も心を取り戻せるのですが。……きっと想い出がおありなのでしょう?」
「大したことでは無いにしろそれなりに……」
「一目見てわかる、大事にしておいでだ。簡単に譲って頂けるとは思いませんよ」
そう言いながら店主はカウンターの中へと入ります。
「大金がかかると初めからわかっているのに直そうと言うんです。金額では無いでしょう」
「……金額? 修理代金とか?」
「ウチは看板通りに時間を扱っておりまして。お気に入り頂けたなら時計と交換、と言うことでどうでしょうか?」
「時間……? あの、どう言う」
「その時計の想い出、と言うことでどうでしょう。お代はお気に入り頂けたらで結構です。時計と交換して下さるなら、それは非常にありがたい」
「あの、それはどう言う……」
――それでは。その時計の作られた前後の時へと。
ネクタイにスーツの男性と、それなりにオシャレをしたと見える女性が『時間や』から、小さな紙袋を下げて出てきます。
『なんでその時計を買ったの? 私は知らないけれど、あまり有名なメーカーではないわよね? 時計が好きなのは知っているけれど』
『高級でもブランドでもない。でも、日本の町工場が作ってる時計でさ。機械式としては結構いい線なんだぜ』
『まぁ、あなたがわざわざ予約して買うくらいだから。そうなんでしょうけど』
『いつか、僕らにも子供が出来て。そしてその子らに更に子供が出来るだろ?』
『あら、なんの話? 途中を飛ばして、いきなりおじいちゃんとおばあちゃんなの?』
並んで歩く女性が、意外そうな顔で振り返ります。
『そうだよ。――そしたら僕はこの時計を孫に渡すんだ。形見としてね』
彼は嬉しそうに、小さな紙袋を持ち上げます。
『しかも、孫と楽しく遊ぶ前に死んじゃうんだ』
『もちろん遊んだあとで死ぬのさ』
『孫のことも考えてあげてよ、もぉ。年寄りになっても自分勝手なんだね』
『この時計はメンテに手間暇がかかる、その上、良く故障するんだ』
――同じのを持ってる先輩がいるんだが。ハズレの機械だったらしくて、時計としては、まぁマトモじゃないね。そう言って彼は笑います。
『そんな時計を貰ったら大変じゃない? 可愛い孫に嫌われちゃうよ?』
『そこが狙い目なのさ』
『わかんないなぁ』
『時計が壊れて、修理に出す度に。僕の孫はこう思うんだ』
――あのじじい! こんな手間のかかるもん寄越しやがって!
『なんてさ』
『どんどん嫌われている気がするけれど。大丈夫なの?』
――孫って子供よりも可愛いってウチのおばあちゃんも言ってるよ? そう言って彼女は歩みを止めます。
『だけど時計が壊れる度に思い出す。めんどくさい時計をくれたじいさんを。そしてその横でニコニコ笑ってたばあさんを』
『うん、あなたは捻くれ者だったね』
『捻くれ者、大いに結構。思い出して貰える内は、想い出がなくなったりしない』
『ほんっと、素直じゃないよね……』
――忘れられるのは、怖いからね。ふと素の顔になった彼は。
でもまた口角を上げて、にっと笑います。
『もっとも。時計好きの孫が出来なきゃ、プランは崩壊だ。この時計、将来的にも絶対高くはならないからな。……はっはっは!』
『あぁ、なんて可哀想な私の孫。ふふ、うふふ……』
二人は道路で立ち止まったまま、ひとしきり笑いました。
『さて、今日はなにを喰おうか?』
『あ……。そうそうこないだね、駅前に出来たラーメン屋さんなんだけどぉ……』
――お帰りなさい。お気に召しましたか?
「そうか、この時計……」
気が付くと、彼の目からは涙が零れていました。
「どうでしょう、お譲り頂くわけには……」
「確認するんだけれど。……もう治らない、んだよね?」
「……初めて見ると言って良いほど、大変コンディションの良い個体です。これで腕時計として機能しないのは、個人的にも非常に残念なのですが」
「うん。なら形だけ、繕ってもらえるかな? 動かなくてもいい。――そして動かないんだから、歯車はあの子にあげるよ」
「……本当ですか?」
「ただ、この時計は僕が持っていないといけないものだから、あげられないんだ」
「どんな想い出が、見えたのか。よろしければ教えて頂いても?」
デカくてゴツくて重くてその上動かなくて、もう修理さえ出来なくて。
でもそれを見て不満に思うと、それと一緒に。
優しいおばあさんと並んで、悪戯がバレた子供のような顔で笑うおじいさんの顔を思い出す。
これはそう言う時計だから。
――だから例え動かなくても。人にはあげられないんだよ、この時計は、ね。
「ほう、そんなことが。……天才だったのですね、おじいさまは」
「そうかも。はは……。悪戯とか嫌がらせの天才ですね」
「では一度時計はお預かりさせて頂きます」
「宜しくお願いします。心を取り戻した彼女に会えるのを楽しみにしていますよ」
「これから店を閉めて、すぐに取りかかります」
彼は店主に軽く会釈をすると、店の入り口を出て行きます。
「時間。……わからないと、困る。よね?」
店の前には、心を無くした機械仕掛けの少女が、いかにも安物と見えるデジタルの腕時計を持って待っていました。
「ありがとう」
「また、逢える?」
彼女にそう言ってもらって彼はほっとしました。
彼だって、心の戻った彼女と話してみたかったのです。
「約束するよ。……キミに心が戻ったころ、また来る」
「あなたと。笑ってお話しが、してみたい」
「きっと大丈夫、もう部品はあるんだ。キミのおじいさんを信じろ」
彼は力強くそう言って、ポンと彼女の肩を叩くと路地へと歩き出し。
数歩進んで、彼女に振り返ります。
「僕は良く知っているよ。……時計が好きなじいさんに、悪い人は居ないんだ」