夏の涯
その日は、朝から入道雲が立ち込めていた。
夏が来る度、夏らしく蒸した空気が頬を撫でる度、記憶の中の彼女が微笑う。
彼女の好きだった立葵の花が咲いて、彼女の好きだった梔子の花が香って、彼女の記憶が僕を蝕んでいく。
――ねえ、君は、今もあの頃のように笑っているんだろうか。
△▽△
彼女と最後に会った日は、白が烟る夏の曇天だった。
彼女――神楽坂 乙葉は僕の誕生日を祝うのだと朝早くから僕のアパートへやってきて、台所で僕の好物であるえびフライを揚げていた。
「あれ、ねえ水月ー、ここにあったグラスは? アフタヌーンティーで一緒に選んだやつ」
「あー、昨日割っちゃったんだよね、手が滑って。ごめん」
「ええ残念、あれお気に入りだったのに」
乙葉がしょんぼりと肩を落としたのが申し訳ない。先ほどから何の気なしにぼんやりと眺めていた雑誌を置き、立ち上がって台所へ足先を向けた。
「ごめんね。今日のところは、こっちのグラスでも使ってくれる?」
「ん、分かった」
乙葉の隣に立ってふたつのグラスを棚から取り出すと、彼女は素直に頷いてグラスを受け取った。悄気ていた肩はもうすっかり元に戻っている。
そういえば昔から、乙葉は気持ちを切り替えるのがやけに早かった。無理をして笑うのではなく、とかく踏ん切りをつけるのが上手いのだ。喧嘩をして怒っていても翌日にはけろっとした顔で笑っていることも、一度や二度ではなかった。
「これもう運んで良い?」
乙葉がすぐに切り替えたおかげで、こちらに来た意味がなくなってしまった。せめて彼女の手伝いでもするかと、皿に綺麗に盛られたカプレーゼを指す。
「や、それはまだオリーヴオイルかけるから。ていうか、水月は座ってて良いよ。今日の主役なんだから」
片手にシャンパン、もう片手にグラスをふたつ器用に持って運びながら、乙葉が笑う。もう誕生日がどうこうの歳ではないが、彼女の好意に甘えてリビングにそっと腰を下ろした。決して広くないテーブルに、乙葉が次々と料理を運んでくる。
アスパラとチーズのグリル。白身魚のカルパッチョ。サーモンと玉葱のマリネ。ほたてのブルスケッタ。そしてメインは、乙葉自慢のえびフライ。品揃えを見る限り、パーティーというより少しリッチな宅飲みだ。
えびフライだけ若干毛色が違うような気がしなくもないが、乙葉のえびフライは絶品であるしシャンパンにもよく合うので、何も問題はない。
そんなことを考えながら料理を眺めていたら、隣からシャンパンをあける音が響いた。
「はい、かんぱーい」
乙葉が笑顔で掲げたグラスに、かちんと小気味のよい音を鳴らしてグラスを合わせる。相変わらず、乙葉のえびフライは店のものにも引けをとらない程に美味だった。
和気藹々と食事を楽しみ、片付けも済ませてふたりで食後のコーヒーを飲んでいると、微かな雨音が耳を掠めた。
「雨、降ってきたみたいだね。傘持ってる?」
「持ってきたから平気。だけど酷くならないうちに帰るね」
てきぱきと荷物を鞄へ詰める乙葉を横目に、冷えたアイスコーヒーをがぶりと飲む。予報では今日は曇りだと言っていたが、外では細かい小雨が窓を叩いていた。しばらく降りそうな雰囲気だが、今のうちなら、駅までであればさして濡れずに着けるだろう。
「雷、鳴らないかなあ……」
湿った空気が満ちる部屋に、淡い希望がぽそりと漏れ出た。囁く程度の呟きだったが、地獄耳の乙葉は僕のそれをしっかりと聞き拾ったらしく、てきめんに嫌な顔をした。
「やだよ、雷なんて。だいたい水月だって嫌いじゃん」
――そうだよ、嫌いだよ。だけど乙葉の雷嫌いは筋金入りだ。少しでも雷が鳴ろうものなら、彼女は外を歩けない。
だから雷が鳴ったなら、「泊まっていけば」と言えるのに。
そんなどうにもならないことを考え込んでいるうちに、乙葉は帰り支度を終えてしまっていた。
「じゃ、残ったえびフライは冷凍しといたから、また揚げて食べてね」
「えー、油こわい。むり」
「去年の誕生日に唐揚げ作ってくれたじゃん、何言ってんの」
あれ美味しかったよ、と乙葉は思い出したように小さく笑う。
ああ、唐揚げなんて作るんじゃなかったな。料理の練習なんてしなければ良かった。揚げ物が出来なかったら、また揚げに来てよって言えたのに。
玄関で金のビジューのついた華奢なサンダルを引っ掛ける彼女を見て、この雨で泥が跳ねたら汚れが目立ちそうだな等とどうでもいいことを考えていたら、乙葉はふいに動作を止めた。
「乙葉?」
振り返らない彼女の表情は見えない。けれど無性に、彼女の細い背中を抱き締めたくなった。
少しの沈黙の後、彼女は背を向けたままぽつりと声をこぼした。
「今年は……誕生日、一緒に祝えなくてごめんね」
「え? 良いよ。だって明日はホテルで結納でしょ? えびフライ揚げに来てくれただけで十分。明日はひとりでちょっと良いワインでもあけてるよ」
結納、の響きに、ずどんとした痛みが刺す。思えばずっとそうだった。ことあるごとに乙葉の婚約者の影がちらついて、ローファーがくたびれる度、スーツの裾が擦り切れる度に痛む心が焦れついた。
乙葉には親の決めた婚約者がいる。それなりの大学を出てそれなりの会社に就職して、そこそこの人生を平平凡凡に歩いている僕とは正反対の、エリート街道をまっしぐらに駆け上がっているような男だ。
彼女の幸せを考えれば、身を引くべきだと分かっていた。だから昔から覚悟してきたことだ。消費期限が決められていた恋を、捨てるべき日が来ただけのこと。
「乙葉……幸せになりなよ」
ようやく絞り出した声は、情けないほどに揺れていた。
たとえ本心ではなくとも、その言葉に嘘はない。乙葉には幸せになってほしかった。だって僕は、彼女を連れて逃げ出して、誰にも頼らずふたりだけで生きていくことなんて出来ないのだ。だったらせめて、僕の心を引きちぎることになってでも、彼女の幸せを願いたい。
「――うん。ありがとう」
彼女がそっと振り返る。立葵のように凛とした笑みで告げた、彼女の言葉の語尾が揺れた。臆病で卑怯な僕は、彼女のそれに気付かない振りをした。
「もう、206号室には来ないから」
そう告げた彼女の声音は、溶けかけの氷のような温度だった。
その言葉が、彼女と僕にとっての決別だ。
お互いの誕生日を祝う習慣は、今日で最後。
お互いの体温を共有するのは、今日で最後。
そしてきっと、僕たちがこうして言葉を交わすことも。
僕と乙葉の何もかもが、今日という日で終わってしまう。
「ねえ、水月。206号室は、私のすべてだったよ」
ゆったりとした仕草で首を傾け、乙葉は淡く微笑んだ。微かに濡れた瞳が優しく煌めく。悲哀を湛えたその笑みは、凄艶なほどに美しかった。
「水月だけは忘れないで。206号室だけが、水月の隣だけが、私の居場所だったこと」
本当は別れたくなんてなかった。ずっと、ずっと、ふたりの世界で生きていきたかった。
「――さようなら」
だけどこうするしかなかった。こうすることでしか、僕たちはお互いを守る方法を知らなかった。
――さようなら。大好きだったひと。
彼女が出ていって閉まった扉を、僕は玄関先で突っ立ったまましばらく無言で眺めていた。
「乙葉……」
情けなく掠れた声で、愛しい彼女の名前をそっと呼ぶ。僕が見た乙葉の最後の姿が、笑顔の彼女で良かった。その笑顔を思い出す度、僕はきっとそれだけで息が出来るから。
だから僕のことは気にしないで。乙葉は、乙葉だけは、僕を忘れて幸せになってくれれば良い。そしていつかまた、生まれ変わったら恋をしよう。
僕はこの時、心からそう祈っていた。
翌日、乙葉は結納が行われる予定だったホテルの屋上から飛び降りた。
(僕と君に同じ血が流れていなかったら、なんてさ。)
(そんな夢なら何度も見たのにね。)
【Fin】