2話 Night of Winter
真っ白な紙飛行機が薄闇を斬るように滑らかな曲線を描く。吸い込まれるように小窓に滑り込んだそれは、彼女に届いただろうか。
「う~寒っ!」
体を芯から凍てつかせる北風がわずかに弱まった早朝。澄み切った空気の中に四季の塔は静かにたたずんでいる。
長引く冬のせいで食料はほとんど尽き、塔に押し寄せていた人も一人、また一人と数を減らした。正直、自分も満足に食料を得られているというわけでもなく、抱えるのは空っぽの腹だ。
「冬の女王…」
早く会いたい。会って、全てを伝えたい。白い息がこぼれるたび、念じる思いは強くなっていく。その時、小窓の奥で小さな影が揺れたような気がした。
「…?」
そのとき、何かが自分に向かって飛んでくるのが見えた。
「おっと…?」
それは、先ほど投げ入れた紙飛行機だった。なんとかつかみ取り、小窓を見やると、そこには一人の美しい少女が立っていた。
「君が」
「貴方が」
ほぼ同時に、少女は口を開いた。
「貴方がそれの送り主?」
冷たい瞳がこちらを見降ろしている。
「ああ、手紙は読んでくれた?」
答えは分かっている。飛行機には、折りなおされた跡があるのだから。
「…ええ」
どもりながら、少女は応える。
「君が冬の女王だろう?」
そうよ、と少女は冷たく言い放つ。自ら手紙を投げ込んでおいて何だが、まさか本当に姿を現してくれるとは意外だ。
「あなたは石を投げないの?」
その問いはどこまでも寂しく、突然に投げかけられた。
「どうして石を投げるの?」
「私をここから追い出すために」
彼女はただ、淡々と事実を並べていく。自らが奉仕する国民たちから受けた仕打ちを、ただ淡々と。
どうやら幼馴染の言っていたことは本当らしかった。
「はは、僕はそんなことしないよ。寒いのは苦手だけど、冬は嫌いじゃないし」
女王の瞳が不審に染まる。
「なら何故ここに来たの?」
「興味と好奇心。貴女とお話がしたかったんだ」
「私は、見せ物ではないわ」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」
どうやら思ったよりも冬の女王は気が強いらしい。人々におびえ、塔に閉じこもってるときいていたから、深窓の令嬢のような女性だと思っていた。まぁ、高貴な存在であるのは確かなのだけれども。
「王様もみんなも、貴女を引きずり出そうとするばかり。貴女のことを知ろうともしない」
ただひたすらに、ガラス玉のような女王の瞳に自らの存在を示し続ける。
「僕は知りたいんだ。貴女が何を思っているのか」
我ながら最上級の笑みで口説いてみた。
「そうやって私に取り入るつもりなんでしょう?」
そう言い放つと、女王は塔の奥へと姿を消した。機嫌を損ねてしまったのかもしれないと途方に暮れていると、突然後頭部に衝撃走った。
「いたっ!?」
頭に命中し、そのまま地に落ちたそれは、小さな石だった。
「おあいにく様。こちらには投げ込まれた大量の石があるの。あまりしつこいようですと、今度はたんこぶ一つじゃ済みませんわよ」
なだめるつもりが本気で怒らせてしまったらしい。
「意外と凶暴な女王様だ」
しかし、それならばこちらもやり方を変えるだけだ。
「一つ確認したいことがある」
痛みの引かない後頭部をさすりながら、涙目で見上げる。
「僕の幼馴染の手紙を見たかい?」
「幼馴染?」
「そう。彼の妹のために春が必要なんだ」
女王の表情がくもる。どうやら心当たりがあるらしい。
「そのために、私にはやく出て行けと?」
「そんなひどい言い方はしてないだろう?ただ、出ていってほしいんじゃない。僕は貴女の話が聞きたいんだ」
「私の話なんて聞いてどうするの」
女王の不審は一層深くなる。
「貴女を無理やり引きずり出しても、次の冬にまた同じことが起こる。原因を知らなければ、何も変わらない」
女王もまた感情を持つ存在なのだ。なら、知ろうとしなければ何もわからない。
「もう食料はほとんど残ってない。このまま冬が続けば、人はみな死ぬ。偉そうにしている王さまだって気づくはずだ。いくらお金があっても、無いものは買えないってね」
無数の金貨も美しい装飾品たちも、腐ることはなくても食すこともできない。
王は知らない。人々も知らない。本当にほしいものは自分でしか手に入れられないことを。他者の誘惑に乗り動いても、それは手に入らないのだと。
「娯楽は、豊かな国に生まれる。今のこの国に、僕は必要ないみたいなんだ」
「必要ない?」
女王の興味がこちらに向くのが感じられた。それこそが自分が求める、ほしいもの。
「僕は物書きなんだ。貴女は本を読むかい?」
物語は心の栄養だ。でも、体の栄養にはなってくれない。だから、人々はそれを軽んじる。
「物語は良いよ。孤独をいやしてくれる。読み手も書き手も、両方の孤独をね」
豊かさに欠ければ、心は貧しくなる。心にも栄養が必要なのだと、人は忘れてしまう。
「さみしいから物語を紡ぐ。言葉には無限の世界が隠されているからね」
それでも、僕は物語を紡いだ。空腹でも、満たされるために。
「貴女の話を聞かせて?僕が物語にしてあげる」
僕が紡ぐのだ。この長い冬の終わりの物語を。
そのとき、女王の顔が陰った。
「…時が来れば、私はこの場所を出ていかなくてはいけない。それが約束。それが決まり」
ぽつり、ぽつりと女王は語り始めた。
「でも、そんなの寂しいじゃない」
紅い唇をかみしめ、少女は泣きそうな声で零す。
「私は孤独なの。独りぼっちなの」
悲しい言葉を。
「誰もこの塔を訪れない。誰も、私を迎えには来てくれない」
悲痛な叫びを。
「みんな嫌い。大嫌いよ。私のことを嫌う人たちなんて知らない」
冷たい言葉が雨となり、雪となって世界に降り降り積もっていく。
「91の太陽と月の巡りを、私は一人で眺める。その孤独があなたには分かる?」
冬の冷気が染み入るように、女王の声が世界に溶け込み、孤独の色に染めていく。
「みんな言うわ。寒い、凍えてしまう、早く春が来ないかって」
そこにあるのは、自分の何倍もの時を生きているとは思えないほど、幼い女王の姿。
「私は色を知らない。美しく咲く花々も、瑞々しい果実も、はらはらと舞う木の葉も。私の世界は灰色。一面、真っ白な雪と、木々の影だけ」
枯れた世界で女王は一人ぼっちだった。
「私はどうして存在するの?冬なんていらないじゃない。求められないのに、どうして私は冬を運ぶの?どうして、私はこんなに苦しまなくてはいけないの?」
ただ誰かの愛と、ぬくもりを求める姿は、どこまでも人間臭い。
「私を一人にする世界なんて、永遠に凍ってしまえばいいのよ」
痛いほど伝わってくる、女王の悲しみ。でも、女王に涙は似合わない。
「泣かないで冬の女王。冬にも意味はあるよ」
だから、僕からこの言葉を贈ろう。どんな奇跡も起こせない、ただ人の僕の言葉を。
「雪には貴女の優しさと慈愛が溶けている」
冬は眠りを誘い、人々に安息を与える。春から秋までの八か月、疲れた体を休めるための静かな静かな時間。
「貴女は孤独なんかじゃない。誰よりも清らかな貴女は、僕たちの眠りを見守る偉大な母だ。貴女がいるから僕たちは安心して眠れるんだよ」
でも、いつまでも寝てはいられない。御寝坊さんは怒られてしまう。目覚めの朝はいつか訪れなければいけないのだ。
「冬の夜を知っているかい?暖かく燃える火の前に集まって、家族みんなでお話をするんだ。本を読んだり、編み物をしたり。こんな穏やかな夜は、他の季節にはない」
遠い記憶の奥に埋没しかけた家族の記憶。それを呼び起こしてくれるのは、いつもこの季節の淡く降りゆく雪の光景だった。
「寒いからこそ、身を寄せ合って温めあうことができる」
ゆっくり、ゆっくりと語りかける。固く凍り付いた心を溶かすように、柔らかな熱を持った言葉で。
「でも私には、一緒に暖炉の前にいてくれる人はいないわ」
「僕がいるじゃないか。おあいにく様、僕にも家族はいない。僕にも、一緒に暖炉に温められてくれる人はいないんだ」
窓の方へ手を伸ばす。届かなくても、届くように、まっすぐと。
「僕でよかったらお相手しましょう」
女王の目が、信じられないものを見たように丸くなる。
「貴方は塔の中には入れない」
「なら、その窓が僕たちの暖炉だ」
「そこは寒いわ。貴方が凍えてしまう」
「なら王様に願おう。絶対に凍えないコートと手袋もくださいってね。あ、あと耳あても」
女王はうつ向きがちに言った。
「…耳あてをしたら、声が聞こえなくなってしまうわ。マフラーにして頂戴」
その頬は林檎のように赤い。
「それもそうだ」
うれしくなったこちらの頬もつい緩む。
「あなた、面白い人ね」
紅い頬をごまかすように、女王は
「でも、人は簡単に嘘を吐く。王に防寒具を願うなんて嘘。どうせ私を騙そうとしているのでしょう?」
永い時をかけて凍り付いた女王の心はそう簡単には解けてくれないらしい。
「では、試してみればいい。次の冬、僕はかならず約束を守る。僕が守らなかったならば、永遠の冬でもなんでも、あなたは好きなようにしていい」
それならば、こちらも時間をかけて貴女と向き合うだけだ。
「僕はあなたを迎えに来る。あなたが寂しいというのなら、毎日この窓の下にきて、あなたに贈り物をする、お話もする。僕だけではだめ?」
そう問いかけると、草木が芽吹くように、花がほころぶように、清く美しく彼女は微笑んだ。
「いいえ、十分よ。わかった、約束しましょう。私とあなただけの約束を」
そうして、小指を差し出すのだった。
そして、冬の終わりを知らせる白い鳥が塔から放たれる。もうすぐ、雪は止むだろう。
誰よりも冬の終わりを待ち望んだ幼馴染は、喜んでくれるだろうか?
次話で完結します。よろしくお願いします!