3-2
トイレを飛び出した患奈がぶつかってしまったのは、彼女が思いを寄せる日吉剄介その人だった。
「うわ、わ、わ、わ」
患奈はとっさにまわれ右して逃げ出した。だがうしろから両腕を強くつかまれる。
「どうしたの? 何かあった?」
いつも遠くから見ていたあの鋭くてすこし寂しそうな目にいまは至近距離で見つめられている。患奈の頭は真っ白になった。
「あ、あ、あ、あの、と、と、と、と――」
「と?」
「と、と、トイレ――と、盗撮――」
「何ッ!」
彼は手をはなし、勢いよく女子トイレの扉を蹴りあけた。
「どこだッ!」
何のためらいもなく中に踏みこむ。
患奈はパンツの違和感にもじもじしながら彼のあとを追った。
「そ、そこの一番手前の――」
「むっ、これかっ!」
彼はアリを観察する昆虫学者のように、トイレの床に這いつくばった。
「これは見たことがある……カタログスペックでは最長八時間録画……センサー類はしかけられていないな……しかし、どうやって回収するつもりだったんだ? ……ふうむ、そうか」
彼は立ちあがった。「犯人はこの建物の中にいる!」
(お姉ちゃん……好きな人が名探偵でした)
「よし、教室にもどろう」
そういって剄介は患奈の方に手を差しのべた。
「えっ? えっ?」
「だいじょうぶ。僕にまかせて」
彼は強引に彼女の手を取った。
力強くひっぱられて、抵抗もできず廊下に連れ出される。
彼のてのひらは大きくて冷たかった。
(お姉ちゃん……私の人生アップダウンで心臓破り! 患奈はもう走れません!)
剄介はポケットからスマホを取り出した。
「もしもし……盗撮事件です。すぐに来てください。場所は沖津駅前にある塾です……はい、はい、それと女性の警官を一人よこしてください。被害者は女の子なので」
廊下を行くあいだに彼は警察への通報を済ませた。
(お姉ちゃん……この人頼れる! 頼れすぎて逆に怖い!)
「先生ッ!」
特進クラスの教室のドアを開けるなり、剄介は叫んだ。
ひとり残って教卓の前でたたずんでいた先生がその剣幕に驚いてかけよってきた。
「ど、どうしたんだい、日吉くんハフハフ。おや、恙井さんもフハフハ」
この先生のことを患奈はこっそり「ほほえみデブ」と命名していた。
ほほえみデブは患奈が質問しに行ったりすると妙に体をすりよせてくる気持ちの悪い男だった。
「――というわけで、事務所の方には先生から連絡しておいてください」
剄介の指示に、ほほえみデブはうなずいた。
「わ、わかった。きみたちはここで待っていなさい」
彼はフヒフヒいいながら教室を出ていった。
そのあいだも剄介と患奈は手をつないだままだった。
「あの、そろそろ……手……」
患奈がいうと剄介は、
「ああ。ちょっと座ろうか」
といって近くの椅子に腰をおろした。手をつないだままの患奈もひっぱられて隣に座った。
「いっしょの塾だけど、こうして話すのははじめてだね」
「はい……」
患奈は相手の目をまっすぐに見かえすことができなかった。
「僕の名前は日吉剄介、北中の三年生。刀のヒヨシと同じだよ」
そういって彼はムツカシイ顔のまま、ヒヨシのCMの最後に必ず流れる「ヒィヨウスィー」という英語のナレーションをまねしてみせた。
患奈は思わず吹き出してしまった。
「わ、私は恙井患奈です」
「恙井さん、学校はどこ?」
「えっ……それはその……」
北中と戦争をしている南義能山中の生徒であることなど、いえるはずがなかった。
「あの……忘れちゃいました」
「忘れた?」
剄介は笑った。「ハハハ、そりゃたいへんだなあ」
(お姉ちゃん……私いま、ロミジュリ状態! シェークスピアによろしく! あとパンツめくれて半ケツ状態! デニム超ゴワゴワする! ゴワテックス!)
しきりにもじもじしているのがパンツのせいであるとバレないよう、患奈は立ったり座ったりをくりかえし、意味もなくハフハフ笑った。
○ ○ ○
盗撮の疑いで逮捕されたのは「ほほえみデブ」こと塾講師の男(三八)。
調べに対し男は、
「女子中学生のおま●こが見たくてついやってしまった」
と供述しているという。
男に「女子中学生のおま●こ見たい病」の通院歴があることから、警察は慎重に捜査を進めている。
○ ○ ○
「ひぎゃあああああおおおおおおうううううういいいいいいいいええええええええええええ」
突然の絶叫に、ユウキは驚いて顔をあげた。
「どうしたんですか、剄介先輩」
剄介は監視所の机に突っ伏して、頭をかかえていた。
「ユウキくん、俺はやっちまった。きのう小学生を助けたつもりが、相手は中学生だったのだ……見ろ、これを……」
そういって彼はノートパソコンの画面を指さした。
「あ、この人――」
ユウキは顔を近づけて、そこにうつし出された人物の顔を見た。「いつも櫟潟蛟希さんといっしょに写ってる人だ」
「そうなんだよ、ユウキくん。おそらく彼女は中二――俺の一コ下だ。小学生なんかじゃないんだほげえええいいいいううおおお」
剄介は椅子から転げおち、のたうちまわった。
「中学生だとなんかまずいんですか?」
「まずいね。非常にまずい」
剄介はあおむけになって荒い息をついた。「俺、小学生の彼女のために、優しいお兄さんを必死になってクサイくらいに演じてたんだ。相手が不安を抱かないようにという親切心から。ところが相手は中二! これが現実! 俺の芝居などお見とおし! 彼女の記憶にこの俺は優しいお兄さんなどではなく、ことばたくみに女性を手ごめにするチャラ男、つまりは日吉チャラ介として刻みこまれたということなのだァァゲゲボォォッ!」
「ハァッハァッ」
剄介は机の脚につかまって起きあがり、椅子に腰かけた。
「だ、だいじょうぶですか?」
「ユウキくん、俺はね、病気なんだ」
「ビョーキ?」
「そう、『過去の恥ずかしい記憶がよみがえると奇声を発する病』――俗にいうハッスル病なんだ。まあ、うまいことつきあっていってくれたまえ」
「はあ……」
つきあうの俺? とユウキは思った。
「だが怪我の功名、敵の情報を得ることに成功したぞ。さっそく記録しておこう。『ツツガイ・カンナ』と……」
ぶつぶつつぶやきながら剄介はキーボードをたたきはじめた。
もうだいじょうぶそうなので、ユウキは彼のそばをはなれ、元の席にもどった。
彼はこの監視所で、敵兵の目撃情報を地図に書きこむ仕事についていた。
この作業をとおして、敵地に侵入するルートが見つかるかもしれない、と剄介はいった。
だがそれはなかなか容易ではなかった。
逢魔街道や魔手通りには敵がひんぱんに出没した。
西に迂回して沖津通りまで行けば遭遇戦は避けられるだろうが、遠まわりすぎる。少人数で攻めこむのだから、敵の大部隊とぶつかったらひとたまりもない。
敵が別のところで交戦しているすきに、向こうの校舎を急襲できたりすればいいのだが――
いい案は浮かばなかった。
櫟潟蛟希の射るような視線がユウキの脳裏によみがえり、消えた。
彼は窓に目をやった。
南義能山中の方角に向けられたビデオカメラが静かに監視をつづけていた。
さっきから剄介が静かだった。机に頬杖を突き、片手でパソコンを操作している。
「剄介先輩、だいじょうぶですか?」
声をかけても返事がない。
「剄介先輩?」
「あ? ああ」
ふりかえった剄介は何やらムツカシイ顔をしていた。「すまん、ちょっと議論に夢中で」
「ギロン?」
「ああ。海外にいる友人たちと楽しくチャットしてたのさ。ホント気のいいやつらだよ」
「へえ。どんな話するんですか」
「うん。もし日曜の朝にやっている人気アニメ『ゴラッソ! プニキュアイレブン』のヒロインたちに囲まれてなでなでしこしこされたら、ひとこと『う~む、僕チン、イグアイン』――これが正解だと思うがはたしてどうか、と世界に向けて問題提起したところ、賛否両論巻きおこってね」
「はあ……」
剄介は体をずらしてパソコンの画面をユウキに見せた。
「ほら、ここに新着のコメントが表示されるんだ。むっ、ロシアのアレキサンドル・ペロペロスキー氏からだ。なになに……? 『俺ならズバリ、ナニからジルーがビュットネル!』? こいつ只者じゃねえな。さてはプロだな?」
人間関係を損得で評価してはいけないとわかっているユウキもこのときばかりは、この人と組んだのは失敗だったかな、と思った。