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櫟潟蛟希は自分の殺した少年を見おろして立っていた。
彼は伸ばした腕を枕にして、地面に横たわっていた。クロールの息継ぎをしている途中で休んでいるようなかっこうだった。
なかば閉じられた彼の目を蛟希は見つめた。瞳に落ちる影の中に吸いこまれそうな気がした。薄い眉毛が眉尻で縒りあわさっていた。広いおでこに黒い土が一粒くっついている。
「井遠憂樹、一年A組」
隣に立つ終野竟子がぽつりといった。
「えっ?」
蛟希がふりむくと、竟子は顔の前で、緑色のカバーがかかった北中の生徒手帳を振ってみせた。
「この子の名前。蛟希知りたいかなあって思って。ずっと見てるから」
「べ、別に見てないよ」
あわてていいかえす蛟希に、竟子は切れ長の目をいっそう細め、ニヤニヤ笑った。
「いいと思うけどね、一コ下の男の子に一目ぼれとかさ」
「だから見てないって」
蛟希が唇をとがらせると、竟子は蛟希の手にある抜身に目をやり、一歩はなれた。
「ま、それはともかくとして、情報収集はきちっとやっとかないとね」
彼女は生徒手帳のページをぺらぺらとめくった。「何だ、全然書いてないじゃん。つまんねえ。せめて好きな子の名前とかさあ――お、あったあった。うわあ汚ったねえ字」
蛟希は彼女のうしろにまわり、生徒手帳をのぞきこんだ。
手書きの時間割表がそこにはあった。大きくてゆがんだ字だった。鉛筆で書いたらしく、線が太くて濃い。
「あんただって人のこといえないじゃん。字めっちゃ汚いくせに」
そういって彼女は竟子の手から生徒手帳をひったくった。
「しょうがないじゃん。私、ホントは左利きだし」
竟子がいった。
彼女の左腕はひじから先がなかった。かつて北中の生徒と戦っていて斬りおとされたのだ。
蛟希は生徒手帳をユウキの胸ポケットにもどしてやった。手帳の裏表紙に貼られた証明写真よりも、死んでいる彼の顔はずっと大人びて見えた。
彼女は、彼が自分のように生きかえることを期待して、視線を注いでいたのだった。
だがそれはそれとして、彼の顔はちょっとかわいいな、と思った。
恙井患奈がペットボトルを抱えて公園にやってきた。
「見て見て、大量ゲット。おつりもあったよ。三六〇円」
彼女たちはユウキが自販機のボタンを押しているところを目撃していたのだ。
「おっ、えらい。ナデナデしてあげよう」
そういって竟子が左腕を突き出した。ブレザーの袖がだらりと垂れる。
「いっけね。こっちは幻肢だった」
彼女は右手で自分の頭をこつんとたたいた。
腕や脚をなくした人が、ないはずの手や足に痛みなどの感覚をうったえることがある。
この現象を「幻肢」という。
失われた腕や脚の感覚に対応する部位が脳の中に残っているため、こうしたことが起こるらしい。
竟子の左腕には幻肢がある。
彼女はそう主張している。
彼女はその幻肢を超能力のように使う。
見えない手で蛟希の胸をまさぐり、
「蛟希のおっぱい、ソフト・イナフ・トゥ・モミモミ」
といってみたり、見えない人差し指を野良猫に向けて、
「ほら、怖くない」
とささやきかけたりする。
そのたびに蛟希は、そんな手なんかないはずなのに胸を揉まれているような変な気分になったり、そんな指なんかないはずなのに一応においをかぎに来る猫ってバカだなあと思ったりする。
その竟子のナデナデしようとする見えない手を、患奈は慣れた手つきで払いのけた。
「はいはい。そこに座って飲も」
そういって彼女は蛟希の好きなファンタグレープのペットボトルを差し出した。
竟子はいつも患奈を子供扱いする。
患奈は一五〇cmに満たない身長のせいで、よく小学生にまちがわれる。
竟子の身長は一六〇cmある。
蛟希は猫背なのにもかかわらず、ふたりよりはるかに大きい。
猫背でなかったころはもっと高かったろう、と彼女は思う。
だがそのころの記憶は、まるで刀で斬りおとされたかのようにきれいさっぱり彼女の頭からなくなってしまっていた。
三人はベンチに座って、それぞれ飲み物を口にした。
公園には彼女たち以外の誰もいなかった。
放課後のこんな時間に、戦場である逢魔街道と落窪通りのあいだをのんびり歩いている者などいるはずがない。
戦争の当事者である南義能山中・北中両校の生徒をのぞいては。
蛟希はふりかえってユウキの死体を見た。
彼の足元には一本あまった緑茶のボトルがそなえられていた。
「やっぱ彼が気になる?」
竟子に声をかけられて、蛟希は笑った。
「何よ、彼って」
「彼は彼でしょ」
竟子はふとももでペットボトルを挟みつけ、キャップを閉めた。「あれ・かれ・どれ・それのかれ」
「わけわかんない」
そういって蛟希は腰の剣帯に手をやった。背中側にまわった刀が当たって痛いので、位置をずらす。
「ひょっとして蛟希さあ――」
患奈がのけぞるようにして、竟子の向こうからひょいと顔をのぞかせた。「あの子があんたみたいに生きかえるかもって思ってる?」
「ううん、そんなの……思ってないよ」
彼女は頭を振った。
我ながら下手なウソだと思った。
患奈相手に隠しごとはできなかった。この三人が姉妹だとしたら、彼女はお姉さんだ。一番大きいのに一番子供っぽい蛟希の考えなど、患奈はすべてお見とおしなのだ。
蛟希は中一のときに一度死んだ。
鳳輦学園跡の戦場で発見されたときには、左肩から袈裟がけに斬られた創が背骨にまで達していた。
それが癒着するときに変な具合にくっついてしまったので、いまのような猫背になった。
斬られる以前の記憶は一切なくなっていた。
彼女は、そのときの記憶がないのでそういい切っていいものかどうかはわからなかったが、死ぬこととは特別なことなのだな、と思うようになった。
死ぬことも生きかえることも、どちらも特別だ。
こんなふつうな自分にこんな特別なことが起きたのだから、ほかの誰かに起こってもおかしくはないはずだと思う。彼女はそれがふたたび起こるのを待っている。
そうすれば、記憶から欠落している、自分の死んだときのことが思い出せそうな気がしていた。
誰が、なぜ、どのようにして彼女を斬ったのか。
「あのね、でもちょっと……もしかしたら――」
「あ、ごめん。電話」
患奈はスマホを取り出した。「もしもし、はい……そうです。三角公園です。はい、敵と交戦、二名制圧、二名逃走です。はい――」
「風がにおうね」
竟子が空を仰ぎ見た。風がさっと吹いて彼女の前髪を払った。見えない手でなでているかのようだった。
「雨が降りそうだ」
「雨?」
蛟希も彼女にならって空を見あげた。遠くの空が厚い雲で薄暗くなっていた。北中の校舎に取りつけられた標識灯が赤くまたたいた。
「やだなあ。傘持ってきてないし、尻鞘もつけてないし」
「十五分後に撤退するよ」
スマホをブレザーのポケットにしまいながら患奈がいった。「それまでは周囲警戒。敵を発見した場合、即座に攻撃せよ――だってさ」
「先輩の命令は絶対だもんねえ」
竟子が大袈裟にため息をついてみせた。「敵なんて来ないと思うけど。北中のやつら、連携悪いもん」
彼女はベンチにペットボトルを置いた。ミルクににごった紅茶がぽちゃりと音を立てた。
テレビの電源を入れたときのような、ぷつりという音がした。
ベンチの、蛟希の座るすぐそばに黒い染みができた。
見えない小動物の群れがかけぬけたかのように、公園の土がへこむ。
「降ってきた」
上を向いていた竟子が顔をしかめ、見えない腕をかざした。
「患奈、どうする?」
蛟希がたずねると、患奈は腕を組み、目をつぶった。彼女の狭い肩を雨粒がたたいた。
「十天学園まで撤退しよう。先輩には私からいっておく」
かつては南義能山中と北中のあいだに十天学園、鳳輦学園、蝙蝠中学という三つの学校が存在したが、いずれも南義能山中・北中に攻めおとされ、いまでは無人の校舎が残るばかりだった。
「本格的に降ってきたよ。急いで移ど……ウベロッ!」
ベンチから腰をあげてふりかえった竟子が、びっくりしたザリガニのように後方へと跳び退り、ころりと転んだ。
蛟希と患奈は彼女にかけよった。
「どうした?」
「バ、バカな……ヤツは死んだはず……なのに、どうして!」
竟子は見えない指でもといたベンチの方を指した。
ベンチの向こうで、ユウキが上体を起こし、空から落ちる雨をぼんやりと見あげていた。
「生きかえったんだ!」
蛟希ははげしくなってきた雨をかきわけるように大きく腕を振り、彼のもとへと走った。
「ちょっと、蛟希! 気をつけて!」
背後で叫ぶ患奈の声は彼女の耳に入らなかった。彼女の地面を蹴る大きなストライドはみずからの内なる声につきうごかされてのものだった。
ユウキのそばで足を踏んばって止まると、砂が波のように立った。
「ユウキくん、私のことおぼえてる?」
彼はきょとんとした顔で彼女を見あげた。
「は、はい、おぼえてますけど……」
彼はひたいについた土を手で払った。「あれ? 僕どうして――」
「ねえ、ほかのことは?」
蛟希は地面にひざを突き、猫背の体をいっそう丸めて、彼の顔をのぞきこんだ。
のぞきこまれた彼は、彼女のスカートからのぞくふとももとひざに目をやり、おびえたようにあとずさりした。
「ほ、ほかのこと?」
「そう、ほかの――私のこと以外に何か。新しい記憶とか、きみの中で変わったこととか」
彼は首を横に振った。
「何も……何もありません」
「蛟希、もう行くよ!」
患奈が声を張りあげた。
彼女と竟子は髪がぬれるのを防ごうと、ブレザーを頭からかぶった、いわゆるジャミラ状態になっていた。
蛟希はほおに張りついて口に入ろうとする髪をつまんではがした。
土がじくじくぬれて、彼女のひざを汚した。立ちあがり、払いおとしたが、象の皮膚みたいな跡が残る。
「じゃあ、また何か思い出したら教えてね」
「ああ……はい」
彼がうなずくと、あごからしずくが落ちた。彼の髪はぬれてぺしゃんこになり、学ランの肩には水が浮いていた。
「イトオユウキく~ん」
竟子の声が雨の下に響く。「その子がきみのこと、運命の人だってさ」
「え、ちがう……ちょっと!」
蛟希はユウキと竟子とのあいだで視線をさまよわせた。
竟子は公園入り口の、自転車止めの鎖を足でゆらし、粒の大きな水滴を落とした。
「おぼえといてね、南義能山中二年C組、櫟潟蛟希! 櫟潟蛟希、好評レンタル中!」
「何いってんの! やめてよっ!」
蛟希は愛刀・ローミラーの柄を押さえて、仲間たちのもとへかけていった。
「クニギッ……クニギガッ……クヌギガタミズキ……」
ユウキは何度か彼女の名前をかんだ。「あれ? あの人たち、なんで俺の名前……」
「レンタル中……?」
○ ○ ○
こうして地べたに座ってながめてみると殺風景な公園だな、とユウキは思った。
灰色の砂でおおわれた地面には草の一本も生えていない。
水はけが悪いのか、にごった水たまりがもういくつもできている。
ブランコの支柱の鮮やかな色も何だかしらじらしい。
彼は斬られた胸にそっと手をやった。
学ランとワイシャツには裂け目ができていたが、体の創はふさがっていた。乾いてかさかさになった血の下に赤黒い染みができている。それが残った痕だった。
痛みはふしぎとなかった。ただ胸を冷たいもので貫かれているような感覚が残っていた。
座りこんだまま彼は、ぬれた砂から立ちのぼるにおいをかいだ。
彼は櫟潟蛟希にウソをついた。
彼の中には大きな変化があった。
彼は本当のことをいった。
彼女のこと以外には何もなかった。
ベンチの上で八相に構え、彼を見すえる少女――その黒い瞳が彼の頭に浮かんで消えなかった。
ふわりとめくれたスカートの下に見えた薄いグレーのパンツも消えなかったが、それはいったん脇に置いた。
彼女の目はほかの誰ともちがうやり方で彼を見ていた。
あんな目で見られたことは彼にとってはじめてのことだった。
彼女の視線はこの世の何もかもが流れ出る源なのだと思った。
その瞳を中心に、丸い地球は切りひらかれ、押しつぶされ、メルカトルされモルワイデされて、距離や面積や方角が彼の目にわかりやすく図示された。
彼が生きかえった世界はもはやかつての世界ではなかった。
櫟潟蛟希に殺されて、ユウキは恋に落ちた。
雨と泥の中で彼はそれに気づいた。




