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人がこの世に生まれおちるということは、斬られることである。
母なる人から。
いくら記憶をたどっても、斬られたことは思い出せない。
だが確かにそうなのだ。
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あるとき、「この世」から「ある世」が生まれ、斬りはなされた。
「この世」と「ある世」は鏡にうつしたもののようにそっくりだったが、ひとつ大きなちがいがあった。
その「世」では、人は斬られて死んだ。
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井遠憂樹に与えられた学籍番号は一六八七三二だった。
ずいぶんたくさん生徒のいる学校なんだな、と彼は考えた。だがそれはかんちがいだった。
その番号は「一六八七三二番目の生徒」を指すのではなく、「二〇一六年度入学の八七三二番目の生徒」であることを表していた。
彼がもうすこしニュースに興味を持っていればこうしたかんちがいは防げただろう。沖津区立北中学校で一年間に戦死する生徒の数は、二五〇〇〇人ほどしかいない。
北中は一学年三クラス、四十人学級というごくふつうの中学校だった。
ふつうの基準はさまざまだが、北中の内部ではそれがふつうだということになっていた。
学校という建物は外から押しよせるふつうに対して城郭のように堅固である。そのため、中のふつうは永くその命をとどめる。
季節は春だった。
どういうわけだか、一年中入学シーズンだった。
なぜこうした異常事態が起こるのか、人々は議論した。
北中と南義能山中の戦争が原因だという人もいれば、そもそも近代の学制がよくないのだと主張する研究者もあった。
後者の説によると、こうなることを知っていたから明治時代のお百姓さんは子供を学校にやりたがらなかったのだという。
なるほど、一年中春だったらお米もできない。
だがいつしか子供たちはみんな学校にかようようになり、食糧自給率は低下し、井遠憂樹は自分でも知らぬ間に小学生から中学生になっていた。
ユウキは武器としてホースシューテック社のME四二八三を佩いていた。
彼はこの刀があまり好きではなかった。ほかの新入生はツモリやスミヨシやヒヨシといった日本のブランドの刀を腰に差している。柄も鞘も強化プラスチックでできていて、見るからに軽そうだし、カラーバリエーションも豊富だ。
民国製のME四二八三は無骨なつくりだった。
柄は木製で、フィンガーガイドの溝が彫られている。鞘は黒一色。刀身は重くて反りが小さい。そのため抜刀しづらい。
ベースになっているのは中共の軍刀である六〇式日剣だ。
その実力は折り紙つきで、大陸の内戦では一万人とも一億人ともいわれる命がこの刀によって奪われた。どれほど乱暴に扱ってもこわれない、実用的な武器だ。
実用的だが、おしゃれではない。
「実用的でいいでしょう」とユウキの母はいった。
人の親には二種類あって、子供の気持ちがわかる親とわからない親とに分かれる。
子供の気持ちがわからない親にはさらにふたつの下位分類がある。わかろうとするがわからない親と、はじめからわかろうとしない親だ。
ユウキの母は後者だった。
「最近のは抜刀アシスト機能とかついてるけど、あれってすぐこわれるのよね」
彼女のいうことはもっともだった。ものは複雑な部分からこわれていく。
「刀なんて切れればどれもおんなじよ」
本質的にはそうだ。
だがこうした本質論を語る人には注意しなくてはならない。ことばの裏に「オメエのいってることはくだらねえんだよ」という悪意をつねに隠しもっているからだ。
本質的に。
ユウキには親の気持ちがわからない。
子供にはたぶん一種類しかない。
「おい、そこのME四二八三」
そうユウキを呼びとめる者がいた。
この光景を見れば、彼の母も物事の「本質」がいかに移ろいやすいものか理解しただろう。何せ大事な一人息子がその名前でなく、大量生産される工業製品の型番によって呼ばれたのだから。
だが彼女がそれを目の当たりにすることはない。
それは学校でのできごとだった。
呼びとめられたユウキはぶかぶかの学ランに、傷ひとつない鞄、真っ白な上履きで、見るからに新入生といったかっこうだった。
呼びとめた方は、学ランなど着ずにニットのベストで、鞄はメジャーリーガーのヘルメットくらいすり切れていて、上履きのかかとを踏んで歩く、見るからに上級生といったいでたちだった。
「パトロール行くから、おまえついてこい」
こうして下校まぎわにたまたま先輩の目にとまったユウキは、はじめての戦場におもむくこととなった。
北中は北側を逢魔街道、東側を魔手通りに守らせた沖津区一の堅城である。
ユウキは三人の先輩に引きつれられて逢魔街道を渡った。
そこから先は敵味方の入りみだれる競合地域だった。
「いいか、南義能山中の制服を見たらすぐに抜刀しろ」
リーダーらしき先輩が腰のものに手をかけながらいった。
彼らは「中学生のとおり道」を北進した。
これはその名のとおり、中学生だけがとおれる道のことである。それ以外の者の目に触れることはない。
ごくまれに中学生でない者も迷いこむことがある。体験者の話では、そこは騒々しくて中学生だらけで、ふつうの道路とはあきらかにふんいきがちがったそうだ。
アイルランドには「妖精のとおり道」というものがあり、そこではさまざまな怪異が目撃されるという。これも「中学生のとおり道」の一種であろう。
ユウキたちは叛町通り公園、通称三角公園にたどりついた。ここは三叉路に面していて見晴らしがよく、大規模な戦闘が発生しやすい場所として知られていた。
周囲をいちど見まわってから、先輩たちはベンチに腰をおろした。戦前には公園で遊ぶ子供たちを見まもりながらママさんたちが何か本質的な会話をしていたところだ。
「おまえ、飲み物買ってこい。俺ポカリな」
そういって先輩のリーダーがポケットから千円札を取り出した。
それを受けとったユウキは、たいしたものだと思った。
彼のおこづかい一ヶ月分に相当するお金をぽんと出すのだから、三年生というのはたいへんなものだと感心した。
彼は小学生気分が抜けていなかった。
たいへんなのは中学三年生でなく、パトロールの方だったのだ。
彼が自販機の取り出し口からペットボトルをひっぱり出そうとしたとき、ふいに女子の笑い声が聞こえてきた。
そこは公園のすぐそばだったが、逢魔街道につうじる道の上だったので、まさか敵がそちらから来ることはないだろうとたかをくくっていたのだ。
それはまちがいだった。
南義能山中のおうど色のブレザーを着た女子が三人、南からこちらに向かってやってきていた。
「て、敵だ!」
そう叫んでユウキは公園側をふりかえった。
「先ぱ……いねえッ!」
公園はもぬけのからだった。
「あっ、敵だ!」
女子たちが声をあげた。
ユウキは千円でおつりの来るおとりに使われたのだった。
彼は声のする方に背を向け、走った。
怖い夢の中みたいに空まわりしそうになる足で懸命に地面を蹴る。
公園のベンチのかげから招く手があった。
先輩たちはひざまずき、ベンチの背もたれを盾のように使っていた。彼らは全力疾走してきたユウキに、敵は何人かとたずねる。
「さ、さ、三人です」
ユウキは息を切らせながら答えた。
「おつりテメエ。ポカリテメエ」
手ぶらで帰った彼に、出資者から「だまされた」の声があがった。
南義能山中の女子は公園に入ってきた。
ユウキの先輩はまわりこんで彼女たちを挟み撃ちにした。ユウキはそれをすのこ状になった背もたれのすきまから見ていた。
三人のうち一番背の高い女子がいちはやく異変に気づき、公園の中央におどり出て抜刀した。刀を立て、柄を顔の横に持ってくる八相の構えを取る。広いスタンスで、猫背気味の上体を小刻みにゆらしていた。
リーダー先輩が彼女の背後から斬りかかった。
彼女はかろやかに身をひるがえし、ステップバックした。
先輩は剣を中段に取っていた。猫背の彼女は一足一刀の間合いから思い切りよく踏みこんで強烈なボディキックを見舞った。
先輩は体をくの字に曲げて悶絶した。その後頭部に、猫背の彼女は容赦なく刀を振りおろした。
頭蓋が砕け、血が飛びちった。
ユウキはすべてを見ていた。
たおれた先輩をほかの先輩が抱えて逃げ去った。
ユウキは取りのこされた。
猫背の女子はあたりを見わたし、構えを解いた。猫背は猫背のままだった。
「カンナ、キョウコ、もうだいじょぶみたいよ」
そういって血振りする。木製のアスレチック遊具に血しぶきの破線が走った。
仲間二人が公園に入ってきた。ひとりは背が低くて、小学生のように見えた。
もうひとりはブレザーの片袖をだらりと垂らしていた。中身はないようだ。
「あの人はどう? 当たりだった?」
小さな女子が猫背の女子にたずねた。視線はユウキの先輩たちが逃げていった方角に向けられている。
猫背の彼女は相手の身長に合わせていっそう猫背になり、首を横に振った。
「わかんない。すぐ連れてかれちゃったから」
「ねえ、それより――」
片腕のないもうひとりの女子がユウキの隠れるベンチを指さした。
「あそこにもうひとりいる」
ユウキは腰が抜けて立てなかった。
人が殺されるのを見るのははじめてだった。すこし前まで戦争とは無縁の小学生だったのだから。
彼は地面を這って逃げた。
かけ足の音が近づいてくる。
がたっとベンチの板が鳴った。
「動くな!」
ふりかえると、猫背の少女がベンチの上に立って剣を構えていた。片足を背もたれの上にのせ、いまにも飛びかかってきそうだった。
風が吹いて彼女のスカートをふわりとめくりあげた。
「う、薄いグレー……」
それが彼の最期のことばだった。
ベンチの上の少女は刀を一閃した。届かぬはずの距離を飛びこえて、その刃はユウキの胸を斬り裂いた。
彼はみずからの血に溺れて息絶えた。