5-4
甘露寺乃々は刀の切先を引きずりながらまっすぐに距離をつめてくる。
遠すぎる間合いから、すりあげるように彼女は振りまわしてきた。
ユウキは構えたまま正面に受けた。粗い金属音が飛びちる。刀を弾かれないよう手の内をしっかり固めておいたため、ユウキは対手の打ちこみを撥ねとばすことができた。
対手は体が流れていたが、踏みとどまってもう一度斬りつけてきた。変わりばえのない軌道と速度にユウキは面食らい、かえって受けそこなうところだった。
さすがにこれではらちがあかないと考えたのか、対手は大きく跳び退った。
ユウキは攻めにかかるつもりで一歩踏みこんだ。
だが対手の薙ぎはらう刀が間合いをつぶして、またもユウキの剣をたたく。それが防がれると、対手はふたたびさがる。
「どうですかぁ? そろそろ降参ですかぁ?」
対手の口から意外なことばが飛び出した。いぶかしさにユウキは一瞬顔をしかめた。
なんで俺が降参? ――そういいかえしたつもりだった。
彼の口から出たのはだらしないよだれと、トイレを流すときみたいなごぼごぼという音だった。
口元に手をやると、手の甲がぬれた。ねばねばしたものが鼻と口に重くまとわりついていた。吹きとばそうとしたが、無理だった。息を吸うと、のどに刺すような痛みが走る。鼻の奥がしびれて涙が出た。
甘露寺が刀を顔の前にかざし、舌で刃をなめるまねをした。
「猛毒の刃を味わった感想はどうですかぁ? 私の金屑はピリリと辛いですよぉ」
ユウキははげしく咳きこんでいて、感想をいうどころではなかった。
舌で口の中をさぐってみたが、まるで歯医者の麻酔を一ダースほど打たれたかのように、無感覚の肉がぶよぶよ触れるだけだった。
のどの奥に鉄くさいものがつまっている。鼻から来たものか口から流れこんだものかわからない。
思い当たったのは、対手が先ほどまでバカのひとつおぼえみたいに刀を打ちつけてきていたことだった。そのときに出る鋼の破片を、彼は大量に吸いこんでしまっていた。
「ユウキ、気をつけろ! そいつは毒赤子だ!」
ギャラリーの中から声があがった。
一年A組の生徒にまじって剄介がグラウンドに立っていた。
「そいつの髪は毒だ! それから血も毒だ! やつの体内の色素はすべて毒に入れかわっている! そこに気をつけろ!」
そこってどこだよ! とユウキは心の中で叫んだ。
そんなの全身要注意じゃないか。
甘露寺は自分の刀をうっとりとながめていた。
「この剣には私の体から出るもっとも濃い血を染みこませてありますぅ。かすっただけであの世行きですぅ」
それはそうだろうとユウキは納得した。屑だけでこのダメージだ。本体を食らったら本当にやばい。
いまのいままで「いざというときはまかせろ」とでもいうような様子でユウキと甘露寺を取りまいていた生徒たちは、じょじょに輪をひろげ、決闘の場から遠ざかりはじめていた。甘露寺の毒による二次被害を恐れてのことだった。
剄介も、
「ユウキ、あの特訓を忘れるな! 刀とともにあれ!」
といいのこして校舎の方へ逃げていった。
あんたこそともにあれよ! とユウキはいいたかった。
顔の粘膜すべてが、砂をすりこまれているかのように痛んだ。息をするのも苦しい。できることなら目も鼻も口も力まかせに顔からはぎとってしまいたかった。
「今度は肉と骨でこの毒を味わうがいいですぅ!」
甘露寺がはじめて中段に構えた。
対手が寄せてくるのに先んじてユウキは走った。剄介のいっていた「人を斬る気構え」が胸の内に固まっていた。
目の前の女が蛟希からの刺客なら、その首を取って彼女のもとへ持っていく覚悟だった。毒の血とやらを街中にまきちらしながら。
機先を制された対手は足を止め、二刀ほどの間合いから体を伸ばして飛びこみ面打ちを放ってきた。
ユウキはそれを受けとめると、思い切りよく右ひじを折りたたんで、対手の刀をいなしこんだ。
刀をつけて攻めあう気でいたらしく、対手は前のめりに崩れた。
ユウキはすばやく切りかえして、がら空きになった正面に刀を振りおろした。
峰打ちではあったが、刀身は対手の細い肩に食いこんだ。打ちこんだのが刃の側であったなら肉が裂け、ユウキも毒の返り血を浴びてやられていただろう。
あっと叫んで甘露寺は地面にたおれた。彼女の手から落ちて転がった刀の柄をユウキは踏みつけた。
降参しろ、というつもりが、舌がもつれてことばにならなかった。ユウキはべっとつばを地面に吐いた。白く乾いた砂の上に黒い血が落ちた。
自分の顔がどうなっているのか、見るのも恐ろしい。対手を打ちまかしたというのに、彼は涙と鼻水とよだれまみれで、誇らしい笑顔を浮かべることもできなかった。
甘露寺は打たれた肩に手を当てていた。地面に突っ伏して、顔は見えない。
このままならユウキにも殺せそうだった。顔を見なければ目の前の背中に剣を突き立てることも簡単にできると思った。ブレザーのなめらかそうな生地は従順な家畜の肌を連想させた。
ひとたび殺す決意ができたなら、あとはいつでも実行にうつせる――そう考えたのは彼の甘さだった。
先延ばしにする決意になど何の価値もない。
ふいに体を起こした甘露寺が、口から毒液を吹いた。対手に悟られないよう、舌をかんで口の中に血をためていたのだ。
それを顔に浴びてユウキの目はふさがれた。無数の針を眼球に埋めこまれたような感触だった。
「あっ……ぐっ……」
ユウキは顔を伏せ、手を突き出して、次に襲ってくるものを追いはらおうとした。
「人の血には吐き気をもよおさせる作用があるっていうけど――」
甘露寺の声がせまってきた。「私の血はそんなもんじゃ済みませぇん。命を奪わずにはおかないのですぅ」
対手の刀を押さえることも忘れて、ユウキは退いた。
目が見えず、息もできなかった。耳鳴りがして、気が遠くなる。
彼は暗い海に放りこまれたようにもがいた。
腹を蹴られて地面にひっくりかえったことで我に返ることができたのは、彼にとって幸いだった。水月のやや下にヒットしたのが対手の刀でなくローファーの爪先であると判断できるほどには冷静さを取りもどしていた。
そして対手の次なる攻撃が刀によるものであろうことが、いま自分が刀を手にしていることと同じくらい確かなことだと予感した。
目がしくしく痛み、涙が止まらなかった。体中の神経がそこに集まって、どんな細かい違和感をも残さず拾っているようだった。地面に突いたてのひらの下にある角ばった砂粒の硬さも、ベッドのリネンの布目ほどにしか感じられない。
「イトオユウキ、死んでつぐなうですぅ……お姉さまの受けたはずかしめ……」
甘露寺の声は、憎しみにのどがつまっているのか、それとも肩に食らわせた一撃が効いているためか、かすれていた。
聴覚以外のほとんどの感覚を奪われたユウキは動けなかった。
お姉さま――櫟潟蛟希に襲われたときのように。
彼女のように戦えればいいのに、と思った。彼女は遠くから彼の胸を斬り裂いた。
あれはいったいどうやったんだろう。
自分にもできるのではないか。
唐突な思いつきではあったが、彼にすればむしろ気づくのが遅すぎたくらいだった。
彼女に殺されて彼は変わった。それまで会ったこともなかった櫟潟蛟希を知った。
ほかにも何かを知ったのではないか。
たとえば彼女のあの技を。
彼はひざを突いたまま、対手の声がした方に向かって剣を振った。紫色したあの髪に、櫟潟蛟希のことをお姉さまなどと呼ぶあののどに斬りつけるつもりで薙ぎ払った。
何の手ごたえもなかったが、対手のひっという叫びが返ってきた。
「な、何を……何をしたんですかぁ?」
甘露寺のおびえたような声に応えるには、彼女の毒にやられた目を何とかしなければならなかった。
ユウキは袖で入念に目をこすり、それでもにじみでる涙の中に指を突っこんで、左のまぶたをこじあけた。
彼の眼球は見ることをこばんで痛んだ。
もやがかかったような視界の中でユウキは、甘露寺にレンズの焦点を合わせた。
彼女の右ほおに横一文字の刀創が走っていた。輪郭にそって流れていた長い髪が一房斬りとられ、水に溶けたように風の中へと散っていった。
彼女の刀は根元から断たれ、柄と鍔を残すのみとなっていた。
彼は瞳に浮いた涙をまぶたでこそぎおとしてから、ふたたび刀を振ってみた。
甘露寺のブレザーの裾が裂けた。
彼女は制服に開いた裂け目を汚らわしげに見た。ユウキの刃は肉までは達していないようだった。
「何なの何なのずるいずるいずるいですぅ卑怯者!」
甘露寺はユウキに背を向け、逃げ出した。校門と彼女のあいだにいた生徒たちが、髪を振りみだして疾走してくる毒赤子に恐れをなして道を空ける。
ユウキは刀をおろし、血のまじったつばを吐いた。
「ユウキ……おまえ……」
剄介が身をかがめながら、おそるおそる近寄ってきた。「さっきのやつ、いったいどうやったんだ? ハッ……ひょっとして俺との特訓で身につけたのか? 何てこった……俺はとんでもない怪物を育ててしまったのかもしれない……」
いいえ、櫟潟蛟希さんのおかげです、と答えたかったが、口全体がしびれていてうまく話せなかった。つばがたまるが、飲みこめないので、どろりと吐く。
剄介はユウキの顔の前に手をかざした。
「いや、すまん。怪物っていってもおまえの顔のことをいってるんじゃないぞ。ちょっと腫れてて、何か血が出てて、白目がやばいくらい赤くなってふくらんでるけど、だいじょうぶ。お医者さまに診てもらえばすぐによくなるさ」
専門医とかでないとダメなレベルなんだな、とユウキはぼんやり考えた。ずいぶんダメージを食らって、対手にはわずかな手傷を負わせただけだ。ほかには刀と髪と服を切っただけ。これではとうてい勝ちといえない。きっと甘露寺も櫟潟蛟希に自分が勝ったと報告するだろう。
そうだ、自分は負けたのだ。
目からとめどなく涙が流れつづけているのは彼にとって好都合だった。おかげで悔し泣きしているのがバレずに済んだ。




