桜郵便
桜郵便
まだ寒さが厳しい3月の終わり。
九州の鹿児島では桜の開花宣言がされた。
数年続いた異常気象の影響で年々早まっていた開花時期に比べると、平年並みだろうか。
河倉正善は白い息を吐き、自転車を走らせる。
「郵便だよ。」
吉村さんは耳が遠いおばあさん。
悴む手でスピーカーを作って、大きな声で叫ぶ。
「ありがとう。寒い中、大変ね。」
「おばあちゃんも体壊さないようにね。ほら、早く部屋に戻りなって。」
よし、これで最後の一通。
「ん?俺宛て?」
自転車の前かごには一枚の葉書が入っており、宛名には河倉正善の名が。
葉書を裏返すと「同窓会のご案内」とある。
「同窓会か。」
寒さに体を震わせながら、自転車をこぎ始めるころ、辺りは暗くなり始めていた。
「ただいま。」
夕飯を終え、風呂にも入り、落ち着いたころ、思い出したように例の葉書を手に取った。
「同窓会って、高校のか。もう10年ぶりだな。」
今年で28歳になる正善のもとに届いた同窓会の案内は高校時代のものだった。
1時間半をかけて自転車で通った懐かしき高校時代。
お陰で郵便局員として自転車での配達は苦もなくこなせている。
「久しぶりだな。場所は・・・東京か。」
田舎にありがちで、クラスメイトたちは次々と進学や就職を理由に上京して行った。
この村に残っているのは正善だけだった。
来月の第三日曜日か。
「よし、遠いけど、行ってみよう。」
参加に○を付けてから、布団に入った。
郵便局の民営化の煽りで正善が勤める郵便局も廃止の話が出ているらしい。
しかし、この村に住む人たちにとっては貴重な郵便局であり、何としても廃止させる訳にはいかず、局員で力を合わせて村の発展も含めて色々なイベントを実施している。
間もなく春を迎えるこの村では桜が山一面を彩り、それは絶景なのだ。
それを村興しに使おうと、オリジナル切手なども販売しており、徐々にではあるがネットでは高値で売り買いがされている。
そんな郵便局で唯一の20代の正善をベテラン局員は可愛がり、高齢の村の住民たちは滅多に帰ってこない自分の孫の代わりのように思っていた。
そんな暖かい村が正善は大好きだったのだ。
「あの、局長。来月の第三日曜日に同窓会があるので、お休みを頂きたいのですが。」
「ん?同窓会か?何だ!気にせず行ってこい!」
自分を除くと年配ばかりの郵便局、人も少ないため、正善一人が抜けるだけで、みんなに負担がかかるのだが、快諾してくれた所長、そして所員たちも噂を聞いてか、快く送り出してくれた。
その日から正善は郵便物の回収・配達で家を回る際に、同窓会の件を話した。
家々からは「これを息子に渡してやって。」と託された野菜
「少しは顔を出しなさい。」と託された伝言
そして、一番多かったリクエストは写真を撮ってきて。とのことだった。
全てを承諾し、日を追うごと、季節は少しずつ春へと近づいて行った。
いよいよ、同窓会当日。
所長の強い薦めもあって、有給を使い同窓会の次の日も休みをもらった正善は大きなリュックと村人から託された土産を持って、バスで1時間の駅へと向かった。
駅からは電車に揺られること4時間の一人旅。
徐々に色付く山々を抜けると、高層ビルが立ち並ぶ大都会が近づいてくる。
局長からもらったメモを手に、やっと東京まで辿り着いた。
10年ぶりに会う旧友たち。
恋したあの子は来るのだろうか?
一緒に馬鹿やった友達はいるのだろうか?
果たして、自分が誰か気付いてくれるのだろうか?
期待と不安でいっぱいの正善は荷物をホテルに降ろし、ホテルマンに道を聞いて同窓会が行われる居酒屋に向かった。
リュックにはいっぱいのお土産。
首からは事前にネットで買ったデジカメをぶら下げて。
初めての東京。
高層ビル、ネオンに圧倒されて立ち尽くす正善と肩がぶつかる通行人、みなチッと舌を鳴らして過ぎて行く。
「すみません。」
ペースが追いつかない。
田舎生まれ、田舎育ちの正善は都会のスピードに慣れない。
それでも何とか居酒屋に辿り着く。時計の針は開始時刻を30分ほど経過していた。
「いらっしゃいませ!」
自動ドアを潜ると同時に響く大きな声。
ビクッと体が反応する。
「一名様で?」
「いや、同窓k・・・」
「お待ちしておりました。こちらです。」
案内された座敷には20人ほどが集まっており、各々盛り上がっていた。
そして、正善を不思議そうな目で見る誰か分からない同郷たち。
「おまえ、誰?」
「河倉正善。」
1番入り口の近くにいた男が話しかける。
「正善か!久しぶり!おい、みんな正善が来たぞ!」
正善は言われるがまま、1番隅に腰を降ろした。
隣の男には見覚えがある。
正面の女は誰か分からない。
「お前、正善か?久しぶりだな!俺だよ、宗二。」
宮田宗二?あのぽっちゃりが、色黒のイケメンに変貌を遂げていた。
「宋ちゃん?」
「そうだよ!お前変わらないよな。今何してんの?」
「山野村で郵便局員」
「え?お前、まだあのど田舎にいんのか?」
「そうだよ。」
「宋ちゃんは?」
正善の問いをもう宋ちゃんは聞いていなかった。
向かいの女に必死で話し掛けている。
やはり馴染めない正善。
見渡せば皆はそれぞれで盛り上がってはいるが、何の話をしているかよく分からない。
その中で時々出てくる名前で誰かを判別していた。
顔を見ているだけでは、本当に誰が誰だか分からなかった。
そして、リュックに詰めたお土産を渡すことを思い出した正善は隣の宗二に話しかける。
「宋ちゃん?」
「ん?何だよ?今、奈津子と話してんのに。」
奈津子とは正善の向かいに座っている女で、正善とは小中高と同じ学校に通った幼馴染だった。
「ごめん。あのこれ、なっちゃんに。」
正善はリュックからおもむろにタッパーに詰めた肉じゃがを取り出し、奈津子の前に差し出した。
「は?何これ?」
明らかに怪訝な表情の奈津子。
「なっちゃんのおばあちゃんが、なっちゃんにって。」
「そんなのいる訳ないじゃん。馬鹿じゃないの?あんたにあげるわ。」
見た目、話し方、態度、全くの別人になってしまったなっちゃんを前に正善は固まった。
「そ、そうか。じゃあ、写真だけでもいいかな?」
と、正善がデジカメを奈津子に向けた瞬間。
「や、やめてよ!!!!」
響き渡る奈津子の声。
楽しそうに喋っていた各々も黙って奈津子を見る。
そして、正善に突き刺さる冷たい視線。
「ご、ごめん。でも、なっちゃんのおばあt」
「知らないわよ!そんなこと!」
あまりの怒号に正善は黙りこくってしまった。
正善を放置して、奈津子を心配する旧友たち。
なんで?
「じゃあ、そろそろ二次会に行きましょうか?二次会はカラオケでぇす!」
幹事の男が大きな声で気まずさをかき消す。
それに反応して盛り上がる正善以外。
それぞれ、席を立ち店の外に出て行く。
二次会か、行きたくないな・・・。
席を立った正善に近づいてくる幹事。
名前は確か田川。
下の名前は覚えていない。
「会費。5千円。」
「あ、はい。」
財布から5000円を出している正善に向かって
「二次会来ないよね?また同窓会する時は連絡するな。」
そして、5000円を受け取り、みんなの輪の中へ。
外の人気がなくなってから、店外へ出た正善。
あまりにも場違い過ぎて、楽しみにしていた期待はガラガラと跡形もなかった。
そして、田舎で自分の帰り、自分が持ち帰る土産を楽しみにしている旧友の家族たちに対して本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
東京に着いてすぐの頃はぶつかった肩を今は避けて歩いていく人たち。
この大都会の真ん中、正善はただただ立ち尽くした。
そして、ホテルまでの帰り道が分からない。
何となく、歩き出した。うろ覚えの記憶を頼りに。
10年も経つとこんなにも変わってしまうのか。
太っていた宋ちゃんは、痩せて格好良くなってるし
記憶にもない田川が同窓会の幹事
何より、なっちゃん。
あんなに思いやりがあって、優しかった、なっちゃんが。
学生時代、正善は奈津子に恋をしていたのだ。
そんな事を思い出しながら、考えながら、歩いていると気付けば眩しいネオンから外れ、人気もまばらな路地へと迷い込んでいた。
いよいよ、やばくないか?誰かに道を聞かないと。
しかし、旧友でさえ、正善にあれほど冷たかった。
すれ違う人に道など聞く勇気がなかった。
すると
「何だよ、みんな都会っ子気取りで。」
大きな声が正善に届き、瞬時に同じ人種だと悟った。
辺りを見回すと声の正体は街灯の下、電信柱を背もたれに座り込んでいた。
「あ、あの大丈夫ですか?」
正善が声をかけるとかなり酒臭い男性が
「は?お前も東京被れか?どうせ、俺は田舎者だよ。」
「あの、僕も田舎者で、今日始めて東京に来たんです。」
正善がそう言った途端、男性は目をキラキラ輝かせて
「友よーーー!」
と正善に抱きついてきたのだ。
屋台の飲み屋で肩を並べる二人。
話を聞くと、何と男性は正善の一つ上の先輩で、同じく田舎で育った人間だったのだ。
転勤で東京に着てから一ヶ月。都会に馴染めず、酔っ払っていたらしい。
「へぇ、同窓会でな!そりゃ、寂しかったろうに。」
「そうなんですよ!昔好きだった人もすっかり変わってしまって。」
正善も男性に合わせるように、溜まっていた不満を吐き出す。
「俺は東條秀夫って言うんだ。よろしく。」
すっかり、不満を吐き出し、少し落ち着いてから、男性は自己紹介を始めた。
正善はとにかく嬉しかった、辛い現実に打ちひしがれていたとき、思いがけない出会いに。
東京暮らしの先輩である秀夫にホテルまで送ってもらうことになった。
その道中、秀夫が真剣な面持ちで話し始めた。
「なぁ、正善?」
「何ですか?」
「俺、彼女を残して東京に出てきたんだ。」
「そうなんですか?どうして?」
「彼女、病気なんだ。ずっと入院してる。」
先ほどまで底抜けに明るかった秀夫の真剣な表情、声色に正善の酔いはすぐに覚めた。
「重たい病気なんですか?」
「あぁ。でも、本人からは時間はかかるが、必ず治るって聞いてる。だから、俺も東京で頑張ろうと・・・。」
「それが、この様よ。」
下を向く秀夫。
「それじゃあ、頑張らないといけないですね。」
正善は笑顔で言い放った。
「そ、そうだな!都会に負けてたまるか!」
正善は秀夫の芯にある明るさに心惹かれた。
「しばらく、会ってないですよね?」
「そうなんだよ。携帯も通じない場所だしな。最初は電話で話してたんだけど、請求がとんでもない事になって・・・。」
「ん?」
「笑うなよ。」
「笑わないですよ。どうしたんですか?」
「文通してるんだ。」
秀夫の告白に正善のテンションは一気に上がった。
「秀夫さん!僕、実は郵便局員なんです。手紙いいじゃないですか!」
「そうだったのか!そりゃ、いい。どんな時代でも文通はいいよな!」
田舎者同士、都会に馴染めない者同士、デジタルではないアナログの響きで共感する。
「で、病院の名前は何て言うんですか?」
「茜坂病院って所。場所は・・・」
秀夫の話を遮るように声を上げた正善だったが、無理もなかった。
「茜坂病院って山野村の?僕の配達エリアですよ!秀夫さん!」
「ほんとかよ!!そうだよ!山野村の茜坂病院!」
こんな偶然、あるのだろうか?
二人は俄かには信じがたい事実に出くわし、驚きながらも
「僕で良ければ、秀夫さんの手紙、彼女さんに直接渡しに行きます。」
「じゃ、じゃあ早速なんだが、これ今日ポストに入れる予定だったんだが、渡してくれるか?」
「もちろんです!」
正善は運命的な出会いを感じていた。正善の目に映る秀夫もきっと同じ気持ちに違いない。
「正善?お前は明日まで東京だっけ?」
「そうです。明日の昼に東京を出ます。帰るのに5時間かかりますし、早くこの手紙を届けたいですから。」
「そりゃ、頼もしい。俺は明日仕事だから会えないけど、これ。」
そう言って、秀夫は名刺の裏に何やらペンで書いてから差し出した。
「これが俺の携帯番号で、裏に住所が書いてあるから。またもし東京に来たら、連絡くれよな。」
「分かりました。本当にありがとうございました。」
「いやいや、こちらこそありがとうな。ホテルはこの道を真っ直ぐ行った右手にあるから。」
「ありがとうございます。」
そう言って、二人は別れた。
ホテルの部屋に着くなり、ベッドに体を沈めて、すぐ正善の寝息が狭い部屋に響き始めた。
次の日の朝、特に予定もない正善は早々と荷物をまとめて、駅へと向かった。
玉葱は勿体無かったが、ホテルの従業員に手渡した。
デジカメには取り繕うようにホテルや都会の景色だけを写して、電車に乗った。
電車に揺られ、車窓から見える景色がどんどん緑に覆われていく。
その様に、正善はホッと胸を撫で下ろし、心地よい安心感があった。
駅を出て、バス亭に着くと、次のバスまで30分ほど時間があった。
東京に比べると、まだまだ寒い。
待ち時間中、ふと思い出してカバンから例の手紙を取り出した。
秀夫さんの彼女、天木美也子さんか。どんな人なんだろう。
妄想を繰り広げていると、バスが到着し、時計の針は16時を刺していた。
山野村に着くと、たった一日だけ離れた故郷がこんなにも懐かしいのかと実感していた。
「ただいま。」
小さく呟き、家に自転車を取りに向かった。
徐々に暗くなる中、正善は自転車で茜坂病院を目指していた。
正善の家からは自転車で20分ほどの距離にある病院は、この辺りでは比較的大きな病院で、小さな診療所もない山野村の住民たちにとってはお馴染みの場所だった。
正善が病院のドアを開けると、待合室に人の影はなく。
受付のおばさんの挨拶の声が響いた。
「あの、天木美也子さんの病室はどこですか?」
「面会?えっと、天木美也子さんは・・・駄目だわ。」
「え?」
「一般病棟じゃないんだよ。天木さんは。療養病床といって、治療に時間がかかる人が入院する病室なんだよ。」
「酷い病気なんですか?」
「それは、私からは言えないけど、軽くはないね。療養病床の面会時間は15時までだから。ごめんね。」
「じゃあ、これだけでも届けてもらえますか?」
正善は秀夫から預かった大事な手紙を受付の看護婦さんに手渡した。
「分かったよ。明日にでも渡しとくから。で、あんたは東條秀夫さん?」
「い、いえ、僕は代理で渡しに来たんです。僕の名前は河倉正善と言います。その東條さんから預かった者だと伝えてもらえますか?」
「分かったよ、ご苦労さん。」
直接渡せなかった事が残念であると共に、やはり重い病気なんだと知った正善はもう真っ暗な道を少し足取り重く引き返した。
次の日、仕事場に着くなり
「おい、正善。みんな元気だったか?!」
局長の声に正善は俯き
「あの実は・・・」
全てを話した。局長もそれは悪かったと、全然悪くないのに正善に変な責任を負わせてしまったことを謝った。
それから郵便物を配達するのと同時に土産を托された一軒一軒回り、土産は喜んでいたが、写真は照れ臭いからという理由で断られたと告げた。
中でも、なっちゃんのおばあちゃんは写真がないのをすごく残念そうにしており、それを見ているのは辛かった。
本当の事が言えずに、嘘を吐いたこと。
自分が力不足だったこと。
何より、変わってしまった旧友たち。
そんな東京に対するネガティブなイメージを明るくしてくれた秀夫の彼女がすぐ近くにいる。
その事実は正善をかなり喜ばせた。
それから二日後、郵便物の回収をしていた正善の目に天木美也子の名が止まった。
あ!秀夫さんへの返事だ。
それから一週間後。
村の緑はピンク色に染まる。
そして、秀夫からの手紙が届き、正善は今度こそ美也子が入院している病院へと向かった。
時計は12時絶対に間に合うと確認しつつも、ペダルを精一杯漕いだ。
病院に入るなり、息を切らせている正善を見て看護婦さんは驚いた。
「あんた、どうしたんだい?」
「手紙を届けに来ました。」
「何をそんなに慌てて・・・あ!天木さんだね。まだ面会時間だから、行っておいで。305号室だよ。」
病室を教えてもらい、意気揚々と向かう正善だったが、よくよく考えると天木美也子とは何の面識もない。
秀夫さんが手紙に僕のことを書いてくれてればいいけど・・・
「失礼します。」
不安のまま、305号室のドアをノックすると、中からか細い声の返事。
ドアを開けると正善の目に映ったのは黒く長い髪の色の白い小柄な女性だった。
「ん?郵便屋さん?」
不思議そうに正善を見る美也子。
それもそのはず、どこの世界に病室まで手紙を届ける習慣があるだろうか。
「あの、河倉正善と言います。秀夫さんからの手紙を届けにきました。」
不安そうな美也子の顔。
「秀ちゃんが?」
とにかく手紙を読んで欲しいと、美也子に手渡すと、その場で手紙に目を通し始めた。
「あなたが、正善さんね。手紙にそう書いてありました。」
不安げな顔がパッと明るくなり、それから10分ほど東京での秀夫の様子を話すと、美也子は本当に嬉しそうに笑い、その姿はとても病人には見えなかった。
二人は愛し合ってるんだな。
正善は美也子から元気をもらった気がした。
「あの?正善さん?」
「どうしました?」
「正善さんさえ、良ければ病室まで秀ちゃん宛ての私が書いた手紙を取りに来て欲しいんですが、駄目ですか?」
「もちろん!二人の大切な手紙ですから、責任持って僕が届けますよ!」
「嬉しい。秀ちゃんの手紙にも書いてあった通り、いい人ですね。」
「秀夫さん、そんなこと言ってたんですか?照れますね。」
病室からの帰り際に美也子からお願い事を託された正善だったが、寧ろそれは正善自身が望んでいたこと。
病院を出ると、大きな桜の木があるのだが、美也子の病室からは見えないだろう。
出来ることなら、美也子にも見せてあげたいと名残惜しそうに桜を見つめる正善。
それから一週間ごとに秀夫から手紙が届き、美也子に直接届けては、秀夫宛の手紙を受け取る。
時に、一週間に3通送られてくる事もあり、まだ返事が書けていないと正善を待たせて、美也子が焦って手紙を書くこともしばしば。
「秀ちゃんって、気分屋なんです。」
と、申し訳なさそうに話す美也子の姿に、正善は幸せを分けてもらった気持ちになる。
「こんにちは。手紙届きましたよ!」
毎週会っている内に、美也子とも随分と仲良くなった正善だったが、美也子に手紙を渡しに来る度に気になっていた事があった。
自分以外に誰も美也子の元へ面会に訪れている気配がない。
こんな田舎なので、友人が来ないのはまだ理解出来るが、家族の一人ぐらいと顔を合わせても不思議ではない。
正善は最低でも、毎週通っているのだから。
「あの、美也子さん?ちょっと気になる事があるんですが。」
正善の問いかけに笑顔で首を傾ける美也子。
「僕以外に、面会には誰も来られないんですか?」
一瞬、ハッとした表情の後、俯く美也子。
その様子に聞いてはいけない事だったと
「すいません!少し気になっていただけで、言いたくなければ、言わなくていいですから!すいません!」
焦る正善を尻目に
「いえ、不思議ですよね?毎週来てくれているのに、誰にも会わないんですから。」
俯いた顔を正善に向け
「私、父を交通事故で、母を病気で亡くしたんです。」
正善は後悔した。
美也子と仲良くなった気でいたが、彼女のことを何も知らずに、ちょっとした出来心から酷い質問を。
落ち込んだ様子の正善に気付いた美也子は声のトーンを戻し
「それは、いいんです。昔の事ですから。ただ・・・。」
「ただ?」
「祖母の事だけが気掛かりで。」
美也子が言う祖母とは、父方の祖母らしい。
美也子の父は大手企業に勤めるエリートで、母は大病院の看護師。
美也子は一人っ子で、玉のような赤ん坊だと両親を始め、親族から可愛がられたそうだ。
しかし、美也子が中学校へ進学した際、母が発病。
その病気を治すには住んでいた場所から遠く離れた病院でないと治療が出来ない事を知り、母は即入院、父は遠く離れた病院へ、見舞いに訪れるという生活が始まり、美也子は祖母に預けれる事が多かったそうだ。
美也子曰く、後から知ったそうだが、父は仕事と病院の往復で多忙を極め、母の病院へ向かう途中に、信号無視の車に衝突され、即死だったらしい。
母はその事実を知り、精神的にも弱ってしまい、病状が悪化。
父の後を追うように、亡くなったそうだ。
「そうだったんですか。」
美也子の明るい笑顔に隠された過去。
「私は幼かったし、当時はよく分からなかったんですよ。父が死んでしまったこと、その後すぐに母が死んでしまったこと、母が発病してからの2年間、父と母にはほとんど会えなかったので。」
「ただ、寂しくて寂しくて、お婆ちゃんには我侭いっぱい言って、それを謝りたいんだけど・・・。」
「お婆さんは、今は?」
「多分、引っ越してなければ、昔の家に居てると思う。でも、私、嫌われてるんです。」
先ほどと比べても一層悲しそうな表情の美也子。
父と母が亡くなってしまってからの祖母は優しかった面影はすっかり無くなり、父が亡くなった原因は母だと信じて疑わず、美也子に対しても随分酷い対応で、それに嫌気が差し、家を出たらしい。
「そこで、出会ったのが秀ちゃんだったの。でも、すぐに病気だと分かって。」
病気になり、入院してから、何度か祖母宛に手紙を書いたらしい。
ただ、一度も返事はなく、電話しても声を聞くとすぐに切られてしまうの繰り返し。
「あの?美也子さん?」
「ん?」
「僕で良ければ、お婆さんに直接、手紙を渡しに行きますよ!」
「え?でも。そんなの悪いよ。」
「このままだと、良くないです。美也子さんも心配でしょ?」
「そうだけど。」
「来週、秀夫さんへの手紙を受け取りに来ますから、その時、お婆さんへの手紙も用意しておいて下さい。僕が届けます。」
「ありがとう、ほんとにありがとう。何から何まで。」
涙を見せる美也子。
「いえ、僕は郵便局員ですから。」
と笑顔を見せる正善。
「あ!随分、長居してしまった!じゃ、そろそろ仕事に戻りますね。」
「お大事に。」
そう言って、病室を出た正善。
一週間後、美也子に秀夫からの手紙を届け、美也子からは二通の手紙を受け取った。
「これ、綾辻村までお願いします。」
次の休み、正善は綾辻村へと向かった。
綾辻村へは電車を乗り継いで、3時間。
田舎の交通の便の悪さは酷いものだったが、それが当たり前の正善にとっては、さほど遠い場所には感じなかった。
「ここが、綾辻村か。」
綾辻村は正善が住む山野村にも負けないほどのど田舎だった。
とりあえず、出会った村人に天木という家はどこかと聞くと、すぐに教えてくれた。
天木という表札の家の前に立ち、チャイムを鳴らすが、返事はない。
家の前で立ち尽くしていると、近くを通りかかった村民が
「天木さんは、出掛けてるよ。」
「そうなんですか。何時ころ帰られるか分かります?」
「えっとね、今日も病院だから、夕方4時ぐらいかね。」
「ありがとうございます。」
親切なお爺さんにお礼を言って、時計を見る。
あと2時間後か。4時だと今日中に帰れるかな。
「まぁいいか。明日も休みだし。」
季節は夏を迎え、じっとしているだけで汗が噴き出す。
適当な日陰を見つけて、寝転ぶ正善。
日陰に入ると風も涼しく感じられ、心地よさにすぐ寝息を立て始めた。
「ちょっと、兄ちゃん、こんなとこで寝てたら干からびちまうよ!」
聞きなれない声で目が覚めた正善。
目に写ったのは、額から流れる汗を拭っているお婆さんだった。
その優しげな表情には見覚えたあった。
「もしかして、天木さんですか?」
「天木はあたしだけど、あんた誰だい?」
美也子の知り合いだという事を話すと快く家に招き入れてくれたお婆さん。
正善は意外だった。
美也子の話だと、嫌われているという事だったのだが。
「これなんですが。」
冷房の効いた部屋で、スイカとお茶を出してもらった正善は、早速美也子から預かった分厚い手紙を渡した。
「わざわざ、ありがとうね。」
これが、美也子に辛く当たっていた人なんだろうか?
年月は人を変えたんだろうか。
分厚い封筒の封を開けると、何枚も重なった手紙をお婆さんは取り出した。
「また、何だい、あの子はこんなに一杯。」
と言いながら、一枚目の手紙を広げると、お婆さんは黙ったまま口を手で塞いで、涙を流した。
「あの子ったら。」
お婆さんの手から零れた手紙が正善の目に入る。
すると、驚くほど大きな文字で
お婆ちゃんへ。お元気ですか?
と書いてある。
目が悪いお婆さんの為に、大きな文字で書いたのだろう。
で、枚数が増えたのだった。
「ごめんなさいね。」
と言いながら、気を取り直し、手紙を読むお婆さん。
終始、涙を流しながら。
「本当にありがとうございます。」
と、正善に頭を下げるお婆さん。
「いえいえ、止めて下さい。」
恐縮する正善に対して
「あたしも駄目でね。分かってたんだけど、あの子に当たってしまって。」
「恥ずかしながら、どう接していいか分からなかったんです。」
目の前で、頭を下げるその姿は本当に美也子に良く似ており、微笑ましかった。
「正善さん?あんた、今日は泊まっていっておくれ。」
「いや、それは申し訳ないです。」
「美也ちゃんに返事も渡して欲しいし、お礼もしたいから。お願いします。」
深々と頭を下げるお婆さん。
「分かりました。今晩、お邪魔させてもらいます。」
お婆さんの美味しい手料理を食べ、美也子の幼少時代の思い出話に花が咲いた。
もうお腹一杯だと言っても次々と出てくる料理の数々を完食し、風呂に入り、用意してもらった寝床で正善は横になっていた。
「人はそれぞれ、何かを抱えてるんだな。」
好意からかクーラーが効きすぎた部屋で、布団に包まると、とても懐かしい匂いがした。
次の日の朝
「おはようございます。」
と、挨拶を終えると食卓には豪華な朝食が並んでいた。
「昨日は本当にありがとう。」
改めて、礼を言うお婆さんに
「こちらこそ、ご飯をご馳走になって、泊めて頂いて、ありがとうございます。」
「冷めてしまうから、食べて下さい。」
と、お婆さんが渡した箸を受け取る正善。
「あの、食べながらでいいので、聞いて下さい。」
「あ、はい。何でしょうか?」
「美也ちゃんの事なんだけどね・・・。」
お婆さんから託された手紙を手に、美也子のお婆さんの家から、その足で正善は茜坂病院へと向かった。
正善が病院に着いた頃、時間はまだ昼過ぎ。
「よし、まだ間に合う。」
と、通いなれた病室までの階段を早歩きで駆け上る。
そして、美也子の病室のドアを開ける。
最初は不安げな表情だった美也子だったが、手紙を読み進めるうち、その目から涙がこぼれ始めた。
その美也子の姿を、お婆さんと重なり、正善自身の目からも涙が溢れた。
手紙を読み終えたのか、手紙を起き、涙目の正善を見つめ
「正善さん、本当にあなたには何て感謝の言葉を贈ればいいのか分かりません。」
大きな目からは涙が溢れ、美也子は深く深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
お婆さんの手紙には、謝罪の言葉が延々と並んでおり、元気になったら帰っておいで。の言葉で締めくくられていたらしい。
何年もお互いが言えなかった言葉。
美也子の話を聞く間、正善は必死で涙を堪え続けた。
正善は郵便局員という仕事に誇りを持っていた。
世間ではメールや、携帯電話で簡単にやりとりが出来る。
それでも、気持ちを伝えるのはその人だけの言葉であり、文字。
それを届ける仕事。
今日も家々を回り、手紙を届ける。
そんな日常だったが、一つだけ気掛かりが。
秀夫からの手紙がピッタリと絶えてしまったのだった。
手紙が途絶えてから、一週間。
美也子とは秀夫も仕事で忙しいからじゃないか?
と話していたが、音信普通が2週間を越えた事を美也子に伝えたとき。
美也子は何とも言えない表情を浮かべた。
美也子、そして秀夫が心配になった正善は、次の休みに東京へ秀夫に会いに行くことを決意した。
数ヶ月前に着た東京。
やはり慣れない土地だったが、今回は目的が明確だったため、辛いなどとは思わなかった。
東京に着くなり、公衆電話から秀夫から渡された名刺にあった携帯の電話番号に電話したが、都合が悪いのか一向に出る気配はない。
仕方なく、アポなしだったが、住所を頼りに秀夫の家へと向かった。
苦戦しながらも、ようやく辿り着いた秀夫が住むアパート。
道中、何度か電話を掛けたのだが、やはり応答はなかった。
「あれ?」
久しぶりに会う友人の部屋には明かりが灯っている。
何度も名刺と照らし合わせるが、あの部屋に間違いない。
秀夫の様子が心配だという不安は違う形に変え、不安のままアパートの呼び鈴を鳴らした。
「はい!」
と、懐かしい声が正善の耳に届く。
すぐに開いた扉。
顔を合わせるなり、秀夫はかなり驚いた表情を見せた。
「正善!お前、何で?」
驚くのも無理はなく、突然の来訪者を迎えるには当然の反応だっただろう。
しかし、その後、正善は秀夫よりもさらに驚くこととなる。
「秀夫?誰?」
部屋の奥から響く、女性の声。
「え??」
状況が把握出来ない正善。
「あぁ、友達だよ。」
と正体不明の女性の声に答える秀夫。
「入ってもらえば?」
女性の声を制して、正善を外へと連れ出す秀夫。
その時、秀夫は正善の顔を一切見なかった。
「秀夫さん!いったい、どういう事ですか!?」
「すまん。」
「謝るだけじゃ、分からないです!説明して下さい!」
家から少し離れた公園で、秀夫を攻め立てる正善。
ただただ、謝るだけの秀夫。
「いや、どういう事か、説明して下さい!あの人は誰ですか?」
正善の追及に、秀夫は話し始めた。
「実は・・・」
秀夫の家にいたのは彼女らしい。
そう、秀夫は美也子に黙って、彼女を作り、気まずさから手紙を書くのを止めたとの事だった。
「あんたって人は・・・。」
怒りに声が震える正善。
「美也子さんは!」
そう言いかけて、正善は言うのを止めた。
「寂しかったんだ。」
ほとんど声にならない声の秀夫に正善は何も言わずに公園から立ち去った。
「待ってくれ!」
叫ぶ秀夫、その声に耳を傾けずに、歩き続ける正善。
「すまん、美也子にこれを!」
正善の前まで回り込み、手紙を手渡す秀夫。
破り捨てたい気持ちだったが、出来なかった。
「すまない。」
俯き、涙を流す秀夫。
無視して、正善はまた歩き出した。
あまりのショックに、真っ白な頭のまま駅まで辿り着いた正善は、駅のベンチに腰を下ろし、立ち上がる気力も沸かない。
「美也子さん。ごめんなさい。」
自分の無力さを嘆き、打ちひしがれる正善。
手紙が途絶えた時点で、何故こうなる自体を想像していなかったのか。
簡単に東京へ行くと、何故言ってしまったんだ。
自分を待つ美也子には何て説明したらいいんだ。
東京は9月を迎え、まだまだ蒸し暑く、居心地の悪さしか印象のない場所となってしまった。
電車の乗り継ぎを重ね、ようやく帰ってきた正善。
結局、電車がなくなり、駅で夜を明かし、来た電車に闇雲に乗り込み、ほとんど記憶もなく、よくぞ帰って来れたものだ。
いや、帰って来たくはなかった。
しかし、帰るしかなかった。
そして、美也子に真実を伝えるべきか、否か。
正善はまだ答えが出せないままだった。
きっと美也子は、正善の報告を心待ちにしているはず。
家に帰ってからも、正善は悩み続けた。
病床の美也子に、この事実を伝えるのはどうなのか?
あんな最低の奴のせいで、美也子がショックを受けるのは許せない。
おもむろに秀夫から預かった手紙を取り出し、封を開けた正善。
「美也子さん!」
「あ、正善さん。」
「で、どうでしたか?」
これ、どうぞ。
そう言って、美也子に手紙を渡す正善。
いつもと違う様子の正善をに少し不安を覚えながら、封を空け、一呼吸してから手紙に目を落とす美也子。
正善は心臓の高鳴りが美也子に聞こえないよう、平静を装うことに必死だった。
「そうか。」
手紙を読み終え、一言呟く美也子。
「良かったぁ。」
表情が一気に砕けて、大袈裟なぐらいの笑顔を正善に向ける美也子。
「秀ちゃん、仕事が忙しかったんですね。」
手紙には仕事で昇進した為、多忙すぎて手紙を書く暇が無かった事を謝り、そして、手紙のペースが前に比べると遅れてしまうが、かならず返事はする。
という内容だった。
美也子から説明されなくても、正善は知っていた。
美也子から秀夫の様子を聞かれたが、本当に忙しかったようで、ほとんど話せなかったが、元気そうだったと伝えた正善。
美也子も不安が解決したのか、安堵した表情を浮かべ、正善に手紙を数通渡した。
秀夫と連絡が取れない間に書き溜めたらしく、正善にとっては重たすぎる手紙だった。
美也子の病室を出て、病院のロビーを出たとき。
「あ!」
「お婆さん!!」
玄関に居たのは、美也子のお婆さんだった。
「あ!あんた、あの時の郵便屋さんかい?」
「そうですよ!どうしたんですか?お婆さん?」
聞くと、美也子に会うのは避けていたが、お婆さんはずっと病院には通っていたらしい。
医者に美也子の病状、様子を聞くために。
美也子に会ってくれと頼んだ正善を制して、お婆さんは少し話をしないかと正善を誘った。
「実はね、あんたのこと、看護婦さんから聞いてたんだよ。」
待合室で話し始めたお婆さん。
美也子の事が心配で、定期的に病院へと向かっていたお婆さん。
正善と会った時も、美也子の病院へ行っていた為に不在だったそうだ。
そんな中、美也子を担当する看護婦さんから足繁く美也子の病室に通い詰める郵便屋さんがいるという話を聞き、恋人との手紙を届けていると伝え知ったらしい。
「美也子の為に、本当にありがとうございます。」
「とんでもないです!僕は郵便屋ですから。」
と、笑顔で返す正善。
「あの、郵便屋さん?」
神妙な面持ちのお婆さんの様子に、正善は生唾を飲み身構えた。
「前に話したよね?美也子の病気のこと」
「はい。」
美也子の病気の重さは以前、家にお邪魔した時に聞いていた。
そう、美也子の病気は治らない病気だったのだ。
「今日、お医者さんに聞いたんだけど。」
お婆さんの声に、全神経を傾ける正義。
「美也子は・・・」
黙り込む正善。
「は、春まで持たないって。」
そう言って泣き崩れるお婆さん。
正善は何も言わず、ただ涙を流した。
季節は残暑を通り過ぎ、少しだけ肌寒い風が吹き始めていた。
お婆さんはこんな泣き腫らした顔じゃ美也子には会えないと、帰って行った。
正善もこれ以上、仕事に戻らないと今日の分の郵便物を届け終えれないと、急いで自転車に乗り、何かを掻き消すように自転車を目一杯飛ばした。
黙っていても浮かぶ、先程のお婆さんの告白。
自転車を飛ばせば飛ばすほど、感じる肌寒さが憎らしかった。
「くそーーーーーーーーーーーー。」
正善は心のまま、叫んだ。
家に帰り、正善は美也子から預かった手紙を一枚、一枚、一字一句逃さないように、読み始めた。
初めて見る、美也子の手紙。
秀夫の体が心配だ。
無理だけはしないで。
正善という共通の友人が出来た喜び。
そして、秀夫の手紙が届く度に体調が良くなるという言葉がしつこいぐらいに並んでいた。
各手紙の最後には、こう締め括られていた。
早く病気を治して秀ちゃんに会いたい。
と。
溢れる涙が止まらない。
正善は真っ白なルーズリーフを取り出し、手紙を書き始めた。
美也子へ
仕事は順調だけど、忙しくて睡眠時間もゆっくり取れない毎日だよ。
けど、美也子も頑張ってるんだから、俺も頑張るよ!
そこまで書いて、ペンが止まる正善。
出来る限り秀夫の字体を真似て書く為に、かなりの集中力を使う。
一呼吸おいてから、またペンを握り直す正善。
まだ美也子に伝えるかどうか、迷ってるんだけど
来年の春、纏まった休みが取れそうだから、会いに行くよ。
だから、それまでお互い頑張ろうな!!
何度も涙が手紙に落ちてはボツになり、何度も書き直した。
「美也子さん、ごめん。」
せめて、少しでも長く生きて欲しい。
そんな思いから、正善は秀夫の代わりに美也子と文通する決意をした。
「あ!お婆ちゃん!」
美也子の病室に、お婆さんが訪れたのは正善が代筆した手紙が届いた数日後の事だった。
「久しぶりだね、美也ちゃん。」
ゆっくり、ゆっくりと美也子に近付き、抱きしめるお婆さん。
「ごめんね、ごめんね、一人ぼっちにして。」
「いいよ。お婆ちゃん、私こそごめん。」
二人はしばらく抱き合い、すれ違った時間はすぐに埋まる。
「ねぇ?お婆ちゃん?」
「何だい?」
美也子は秀夫の話を嬉しそうにした、それを嬉しそうに聞くお婆さん。
そして、一枚の手紙を取り出し、見せる美也子。
「ほら、来年の春にこっちまで来てくれるんだって!」
「あら?ほんとだね。」
お婆さんは胸を締め付けれる気持ちと共に、正善の優しさから出た行動なんだとすぐに気付いた。
「じゃ、それまでに頑張って病気治さないとね?」
お婆さんの優しい問いかけに対して、美也子は大きく大きく頷いた。
その目は生きる活力に満ち溢れていた。
それからも、正善はしばらく手紙がなくても、毎週、美也子の元を訪れていた。
ただ、どうしても毎週だと、あと何回会えるか?と想像してしまう為、時間が出来る度に会いに行き、その頻度は以前よりも増していた。
「あ!正善さん、今日もお疲れ様。」
「美也子さん、今日も手紙はないんですけど・・・。」
「いいの、いいの。秀ちゃん、忙しいみたいだから。」
そう言って、笑顔を向ける美也子だったが、正善は気付いていた。
美也子が徐々に痩せ細り、顔色も悪くなり、山野村に初雪が振った日、美也子はICUへと移されたのだった。
ICUに移されるまで、美也子は正善に対して、ただの一言も弱音は発しなかった。
弱っていく自分を知りながら、それでも健気に強気に、春を待ち続けたのだった。
「ごめんね、ICUには家族の方しか入れないの。」
「そこを何とか、お願いします!」
このやりとりをすでに30分以上続けている。
「規則だから・・・。」
すっかりお馴染みの看護婦さんが、本当に申し訳なさそうに正善に話す。
仕方なく、帰ろうと正善が肩を落としていると。
「この人は、美也子の婚約者です。家族になる人です。」
お婆さんが看護婦さんに向かって、言い放つ。
「え?」
驚いた正善だったが、お婆さんの瞳に宿る強さを感じ。
「美也子に合わせて下さい。」
看護婦さんは深く頷き
「しっかり、見て上げてね。」
正善の顔を見つめ、そう言った。
集中治療室の中の美也子は、人工呼吸器を付けられ、体中に色々なチューブが巻きついている。
痛々しい姿に、目を背けたくなるが、正善は精一杯の笑顔を美也子に向けた。
お婆さんと正善に気付いた美也子は、少しだけ顔を向け、恐らく笑っているのだろう。
微かに表情が緩んだように見えた。
「美也子さんは、今病気と戦ってます。」
付き添いの看護婦さんが隣でそう言った。
「美也子さん、言ってたよ。郵便屋さんと約束したからって。」
正善は拳を力いっぱい握り締め、涙を堪えた。
美也子の負担になるから、という理由で面会はかなり限られた。
正善はあれからも手紙の代筆を続けた、美也子からはもちろん返事が出来ない状態で、正善はICUのガラスの壁に手紙を張り付け、自分は隣で大きな字で手紙を訳しては、美也子に伝えた。
「頑張れ。」
「頑張れ。」
「頑張れ。」
もうすでに、自分が秀夫の代わりであるつもりはなく、それは正善の心からの気持ちだった。
その文字を見る度に、美也子は微かに頷き、その姿に正善は深く頷くのだった。
クリスマス、正月をICUのガラス越しで過ごした美也子と正善。
過ごすと言っても、手紙を見せるだけで、頑張れ。という内容。
頑張っている美也子に対して、その言葉をかけるのは勇気がいったが、躊躇はなかった。
そして、季節はいよいよ春と呼ばれる3月になろうとしていた。
雪解けと共に、美也子の体調は嬉しい変化を見せ始めていた。
「天木美也子さんの事ですが。」
医者が神妙な面持ちで話し始める。
「本当に病気と一生懸命戦われたのですが。」
向かい合う、お婆さんと正善。
「来週から、一般病棟へ移ってもらいます。」
「それは、どういう事ですか?」
正善の問いに、毅然とした態度で医者は答える。
「最後は、家族の方と過ごして頂きたい。という事です。」
お婆さんは、医者にすがり付き、何とかならないかと責め立てている。
正善は両手で顔を覆い、今まで堪え続けた涙が溢れるのを止められなかった。
医者の話した通り、美也子が一般病棟に移ったのは、3月も終わる頃。
一度は体調が盛り返したのだが、それが病気の完治とは無関係である事が検査で分かり、お婆さんは無理が祟ったのか、倒れて同じ病院で入院している。
「お婆ちゃん、大丈夫?」
か細い声で、お婆さんを心配する美也子。
その姿は、痩せ細り、顔色は白く、痛々しかったが、正善にとってはまた話せる事が何より嬉しかった。
「お婆ちゃんも美也子さんと一緒に病気と闘ってたから、今は休憩してるんだよ。」
「そうか。」
弱りきった様子の美也子だったが、その笑顔は変わらず眩しかった。
もう何度も医者には聞いた。
「美也子の病気は治らないのか?」
医者の返答はいつも一緒だった。
「限りは尽くしました。」
美也子の最後を覚悟した正善は、美也子の為に、手紙を書き始めた。
美也子へ
美也子が病気と戦っていること、正善から聞いてるよ。
頑張ってるんだってな。
俺も、美也子と会える日までこっちで頑張ってる。
絶対に会いに行くから、病気に負けるんじゃないぞ!
ふと、手紙を書く正善の元へ、桜の花びらが一枚、ヒラヒラと迷い込んだ。
それは、正善が書いていた手紙の上に、ヒラリと着地した。
「美也子さん!手紙届いたよ!」
正善は自分が書いた手紙を、美也子に渡した。
美也子は嬉しそうに、手紙の封を開けるとヒラヒラと何かが零れ落ちた。
「桜?」
「そうみたいだね。」
美也子は花びらを大事に布団の上に置いて、手紙を読み始めた。
「うん、わたし、頑張る。」
手紙を読み終えた美也子は、そう言って凛と姿勢を伸ばした。
「正善さん、わたし頑張るよ!」
正善を真っ直ぐ見つめて、そう話す美也子。
その姿は、本当に病気が治るのではないかと錯覚させる程だった。
それから、正善は毎日、病院へ顔を出し、毎日手紙を渡した。
美也子が手紙の封を開けると、中には一枚、桜の花びらが入っているだけだったが。
それを見る度に、美也子は生気に満ち溢れた表情で
「頑張る。」
と正善に言うのだった。
その姿に大きく頷く正善。
季節は春を迎え、村は緑からピンク色に染まっていた。
いつものように、病院から家へと自転車を漕ぎ、向かう道中。
桜の花びらを集めようと探すが、あっという間に散った桜はすっかり緑の葉を咲かせている。
なかなか、花びらを見つけられない正善。
辺りは暗くなり、諦めかけたとき、葉桜の先、一枚だけ残っていた花びらを見つけ、優しく手に取った。
それを封筒に入れ、正善は家路を急いだ。
家に着くなり、母親が必死の形相で
「あんた、遅いよ!美也子ちゃんが!」
その言葉を聞くと同時に、正善は今来た道を引き返した。
頭に浮かぶのは美也子のことだけ。
「美也子。」
「美也子。」
何度も繰り返し呼ぶ名前。
「生きてくれ、美也子。」
正善が病院に着くなり、看護婦さんがこっちと手招きをする。
病院内を走りぬけ、案内された病室へと駆け込む正善。
そこには、変わらずベッドに横たわる美也子の姿があった。
ただ、いつもと違ったのは
美也子にすがり付き、声を上げて泣くお婆さん。
何も言わない看護婦さんたち。
静か過ぎる病室。
息をしていない美也子。
放心状態の正善。
その手には一枚の封筒。
いつの間に手にしていたのか、覚えていない。
ほら、美也子、楽しみにしてた手紙だよ。
でもね、美也子に謝らないといけないんだ。
実は美也子への手紙は僕が書いてたんだよ。
ごめん。
美也子。
美也子。
僕は君の事、愛していたんだよ。
泣き崩れたお婆さんは、そのままベッドで眠り、正善はただただ葬儀社が美也子の遺体を運ぶのを見ていた。
寝台車に乗せられ、一度家に戻る美也子。
正善も後を追って、美也子の家へと向かった。
眠るように動かない美也子の傍で、正善はまだ事態を飲み込めず、放心状態のままだった。
お通夜、小さな告別式を終え、美也子は天国へと旅立った。
美也子が居なくなって、休日に正善は美也子がいた病室へと向かった。
あれからの事は、よく覚えていない。
ただただ、涙が出なかった事だけが不思議だった。
病院に入ると、馴染みの看護婦さんが
「あ、正善くん、ちょっと待ってね。」
ナースステーションから戻った看護婦さんの手には一枚の手紙があった。
「これ、美也子さんからあなた宛てに。」
正善さんへ
あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう死んでしまってると思う。
正善さん、あなたのお陰で、私は春を越えられました。
実はお医者さんから聞いていたんです。
わたしの体は冬を越えられないってこと。
でも、あなたが私の手を引いて、冬を越えさせてくれました。
わたし、正善さんに謝らないといけない事があるの。
実は秀ちゃんから手紙が来ていないこと、知ってました。
そして、あなたが手紙を書いてくれてること、知ってました。
だって、字が違うんだもん。
最初は分からなかったんだけどね。
ありがとう。
それにね、正善さんが私の為にくれた桜の花びら。
手紙に花びらがなくなるまでは生きろ。って入れてくれた桜の花びらだけど。
秀ちゃんが住んでるとこじゃ、とっくに桜は散ってるんだよ。
バレバレだよ。笑
ありがとうね。ほんとに嬉しかった。
誰かに生きて欲しいって思われること。
ほんとは、直接言いたかったこと、いっぱいあったんだ。
正善さんのこと、大好きだってこと。
愛してるってこと。
でも、言えなかった。
伝えたかったよ。
直接言いたかった。
死にたくないよ。
もっと早く出会いたかったよ。
もっと、生きたかった。
でも、贅沢言っちゃ駄目だよね。
私はあなたに会えて、幸せでした。
正善くんも、幸せになって下さい。
手紙を握り締め、肩を震わせ、涙する正善。
「美也子・・・。」
それ以上は言葉にならなかった。
正善が崩れるように肩を落とすと
美也子の最後の手紙が入った封筒から一枚の紙がヒラヒラと舞い落ちた。
そこには、今まで正善が美也子に送り続けた桜の花びら一枚一枚が張り合わされて、一本の桜の木が描かれていた。
「美也子、俺は幸せだよ。」
正善が大切に抱き締めた、桜のイラストの裏にはこう記してあった。
河倉美也子