真琴にしかみえない魚
空をとんでいるお魚。
真琴はうまれたときから、そんなものが見えていた。
夜になるとそれは、とても美しく、キラキラと輝いた。
みず色のお魚や、ピンク色のお魚、または黄色、紫色、白といったの色とりどりのお魚が、星空をすいすいと自由に泳ぎまわっている。
――いったいあれはなんだろう。
と、はじめて疑問に思ったのが四歳のときだった。
夏の、大花火大会の帰り道である。
父親の背中におぶられて、真琴は空を見ながら、それを訊いてみた。
「おとうさん、あのおさかな、なに?」
だが父親は、不思議そうな顔をするばかりだった。
「どこにいるの?」
「おそら」
「お魚が、お空にいるのか?」
「うん。いっぱい」
父親は、まわりの花火客とおなじように駐車場に向かって歩きながら、空をじっと見た。
それから言う。
「お父さんには見えないなあ」
その隣にいる母親も、不思議そうな顔をしていた。
母親にも見えていないようだった。
だが確かに、真琴の目には見えていた。
太陽が出ているような朝や、昼の時間帯には、お魚の姿はハッキリと見えない。しかし夜になると、それはとても美しく、星や月と同じようにキラキラと輝いて見えるのだ。
お魚たちはいつも、星々のあいだを行ったり来たりして、時々雲のかげに隠れては現れて――、とても楽しそうに泳いでいた。空が曇っているようなときや、雨が降っているようなときは、お魚を見ることができなかった。どうやらお魚は、雲よりももっと高いところを泳いでいるようだった。
真琴の家は、四人家族である。
父親、母親、祖母、それから四歳になる真琴。
四人は、たくさんの田んぼが広がっている田舎の、木造建築に住んでいる。そこにはおおきな庭があって、びっしりと芝が植えられていた。
夏になればその芝は、踏みしめるとひんやりしていて気持ちがよかった。だから真琴は、晩御飯をたべたあと、芝のひんやりとした感触を足の裏でたのしみながら、空を見つめるようになった。
すっかりと日課になってしまう。
母親は、毎日真琴の足を拭いてやるのが大変なので、サンダルを買い与えた。
しかし、真琴にはたいして効果がなかった。サンダルを履いて外に出たかと思えば、芝生のうえで脱いでしまうのだ。
かと言って、だれも真琴を叱るようなことはしなかった。真剣に空を見つめる様子に、なにか思うところがあったのかもしれない。家族は静かに見守っていた。
ある夏の日の夜、そうやって空を眺めているとき、祖母が外に出てきて、真琴に声をかけた。
「真琴、きょうもお魚を見ているのかい?」
「うん。おばあちゃんも、おさかなみにきたの?」
「残念だねぇ、あたしには、空のお魚は見えないんだよ」
「ふうん? でも、あそこにいるのに」
真琴は空に指をさした。
「お魚は、元気そうにしているの?」
「うん、げんきだよ」
「綺麗なの?」
「きれいだよ」
祖母の問いかけに、真琴はうんうんと頷いた。
こんどは真琴が、祖母に問いかける。
「どうしてわたしには、みえちゃうの?」
「うーん、なんでだろうねぇ」
祖母はすこしだけ、困った顔になる。
二人のあいだに沈黙が流れた。
真琴の目は、しぜんと空に向いた。この日、真琴の心をとくに奪っていたのは、薄いオレンジ色のお魚だった。ひときわ元気そうに泳いでいて、かわいらしかった。
突然、祖母が言う。
「川も、海も、水が澄んでいれば沢山のお魚が見える」
「うん?」と真琴が首をかしげる。
「空は、いつだって星が見えるほどに澄みわたっている。なのに、空のお魚は真琴にしか見えない。こりゃ不思議だねえ」
「うん……?」
なにを喋りはじめたのか、真琴には理解できなかった。
ときどき祖母は、難しいことを言う。
祖母の趣味は、めがねをかけて、難しそうな本を読むことだった。ためしに真琴も、祖母が読んでいた本をひらいてみたことがあったのだが――、びっしりと書かれた字に目が回りそうになって、すぐに本を閉じてしまった。
そんな難しそうな本を読んでいるから、難しいことを考えているのかな――、と真琴は考えた。
「あ。どうして真琴には見えるのか、あたしには分かったよ」
「え、なに?」
「きっと、真琴の瞳が澄んでいるからに違いない」
「ひとみって、なに?」
「瞳っていうのは、おめめのことだよ。つまり、真琴のおめめだ」
「じゃあおさかなは、わたしのおめめのなかにすんでいるの?」
「おや、そういう考え方もあるのか」
祖母は、意外なことを言われてしまったとばかりに驚いて、笑った。
真琴はなにを言われたのか、ほとんど分からなくて――、瞳をパチパチとしばたたいて、空を見て、地面を見て――、それからまた空を見る。首をかしげた。
祖母はしわだらけの顔で、優しそうに眼を細めているだけだった。
「真琴、お風呂にはいりな。お母さんが入ろうって言ってたよ」
「はあい?」
真琴はあいまいに頷いた。
九月。
真琴はもうすぐに五歳になる。
そんなある日、父親が言う。
「なあ真琴、あしたの誕生日には、プレゼントを買ってあげよう」
「ほんとう?」
父親は、晩御飯を食べたあとに座敷で新聞紙を広げ、ビールを飲みながら、真琴に言った。
「なにがほしいんだ? なんでも好きなものを買ってあげるよ。プレゼントだ」
「カレーライスがいい!」
「……うーん、そういうことじゃなくてだな」
父親は、困ったように笑った。
真琴は、形のあるものを欲しがらなかった。
形があるものは、すぐに壊れる。壊れてしまうと、悲しくなる。だから、おもちゃを欲しがるようなことも、一切なかった。
父親の隣で、洗濯物をたたんでいた母親が言う。
「やっぱり形のあるようなものは、欲しがらないのよ。真琴は」
「……え? かたちがあるものって、どういうこと?」
「ううん。なんでもないの」
「ふうん?」
不思議そうにする真琴に、父親が言った。
「じゃあさ、ハムスターなんかはどうだ? 前から欲しいって言っていただろう」
すると真琴の顔が、ぱっと笑顔になった。
「はむすたー! ごーるでんはむすたー!」
「おお、真琴はゴールデンハムスターが好きなのか?」
「うん。かわいい」
「分かった、じゃあ、あしたは一緒にペットショップに行こう。そして、真琴が気に入ったゴールデンハムスターを、家に連れてくるんだ」
「ほんとう!?」
真琴は喜び、父親も笑った。
母親は、すこしだけ屈託のある声で言う。
「うーん、おばあちゃん、ねずみ嫌いだから、おばあちゃんにも訊いてみようよ」
「ごーるでんはむすたーはねずみじゃないもんっ! ごーるでんはむすたーだもんっ!」
「わかった、わかったからおこらないで」
「うううっ!」
すこしだけ興奮ぎみに、こぶしを握る真琴。――その背中に、祖母の声がかかった。
「真琴、飼ってもいいよ」
お風呂から出た祖母が、座敷の部屋に現れたのだ。
すると驚いたのは、母親だった。
「え、おばあちゃん、いいの? 本当に?」
「真琴が好きなものなら、私も好きになってみせるよ」
祖母は、真琴にほほえみかけた。
それから真琴は、空のお魚を観察するだけではなく、もう一つの楽しみができた。
ゴールデンハムスターの世話をすること。
はじめてのペットとあって、真琴はハムスターの世話には苦戦した。というよりは、まだ真琴は、微細な運動が苦手である。
靴のひもも結べないくらいなのだ。
だから、トイレの砂をかえてやろうとしたときなどは――、巣箱のなかでひっくりかえしてしまったりもした。
それでも真琴は、父親に教わりながら、なんとか一人でも世話ができるようにと頑張った。
すると努力のかいがあって、あっというまにやり方を覚え、自分一人だけでもエサやりや、掃除が出来るようになってしまった。すると、ハムスターにはますます愛着がわいて、たくさん可愛がった。
そんなある日の、秋の夕方。
ほとんど太陽がおちて、暗くなった頃。
真琴は、ハムスターの巣箱のなかで、茶色のお魚を見たような気がした。
「あれっ?」
だがお魚は、すでに姿を消していた。
巣箱のなかをいくら見渡してもいない。すやすやと、ハムスターが眠っているだけである。
真琴は立ち上がって、座敷のお部屋、お風呂場、キッチンなどを探し回ったが、どこにもいなかった。
「どうしてだろう」
不思議に思って真琴は、サンダルをはいて外に出た。それから芝生のほうに移動して、裸足になって空を観察する。
暗闇がせまり、星もぽつぽつと現れはじめた空には――、いつものように色とりどりの、たくさんの綺麗なお魚が泳いでいた。
しかし、どこを探しても、さっきの茶色のお魚の姿はいなかった。
まったく意味のわからない出来事だった。
家にゴールデンハムスターがやってきてから、ちょうど二年。
真琴が七歳になって、すぐのことである。
茶色のお魚が、ふたたび現れた。
それは、ペットのゴールデンハムスターが死んでしまったときだった。
動かなくなってしまった身体のまわりを、茶色の小さなお魚は、スイスイと自由に泳いで――、やがて、外へ向かって泳ぎはじめた。
窓をすり抜けて、庭に出て行ったしまったようだった。
「えっ、なんで!」
真琴が叫び、座敷を走って、窓をあけて、裸足で外にとびだした。
「真琴?」
「どうしたの、真琴」
父親と母親も、びっくりしたような声をあげた。
外に出た真琴は、見た。
暗闇のなか、一匹の美しい、ぼんやりと茶色にかがやいた小さなお魚は、庭をすいすいと楽しそうに泳いでから、真琴に近寄ってきた。そして、まるでお礼でも言うかのように、優雅に踊ってみせてから――、空へ向かって泳いでいった。
真琴は、涙を流した。
芝生のうえで、空をみながら、真琴は泣いた。
お魚の正体がわかったことの驚きよりも、ハムスターが死んでしまったと悟った悲しみよりも、その茶色の、もともとはハムスターだったお魚の健気さに心をうたれていた。さきほどの、最後の踊りはとても無邪気で、生き生きとしていて、美しかった。
それからの真琴は、不思議なことに、いままでよりもはっきりと、空のお魚がみえるようになった。
それどころではない。
空だけではなく、もっといろいろな場所で、お魚を見るようになったのだ。
たとえば――、
父親の心臓のあたりには、青色の、元気そうなお魚がおよいでいる。
母親の心臓のあたりには、オレンジ色の、元気そうなお魚がおよいでいる。
祖母の心臓のあたりには、みどり色の――――、弱ったお魚がいた。
一ヶ月後、秋の暮れのことだった。
祖母は、とつぜん倒れた。
それからは、病院から帰ってくることもできなくなってしまった。
だから真琴は、父親、母親と一緒に、毎日病室を訪れた。
祖母は、真琴の姿をみると、つとめて元気そうにふるまった。しかし、真琴は気がついていた。祖母のお魚――、心臓のあたりにいる、みどり色のお魚は、前よりももっと苦しんでいるようだった。おとといよりも昨日――、昨日よりも今日と――。お魚はどんどん元気をなくしていった。
ある日、夕暮れの病院の個室で、祖母と真琴は二人きりになった。
だから真琴は、率直に言ってしまった。
「わたし、おばあちゃんいなくなったらいやだ」
ベッドのうえで、眠るように目を細めていたおばあちゃんは、ゆっくりとした口調で言った。
「……真琴、どうして、そう思う?」
「どうしてって、どうしてもだよ」
「真琴には、わたしの中のお魚が、見えるのかい?」
「……うん。みえるよ」
「そうかい」
祖母は満足したように、まるでため息をつくように言った。
真琴はふいに、今までとはべつの、よく分からない、形容もできない気持ちになってしまった。祖母の横顔が、いままでのどの人間とも、違ったタイプの顔に見えてしまったのだ。
従容としてなにかを受け入れようとしている祖母。そして、それを受け入れたくない自分。――その違いに、直感的に気がついて、寂しくなってしまったのだ。
だが、それを言葉にすることは、当然できなかった。
わずかに沈黙が流れたが、祖母が言う。
「ねえ、真琴」
「なに」
「あのね、おばあちゃんはね、もうすぐ夢がかなうんだよ」
「ゆめ? どういうことなの?」
「あたしはねぇ、もうすぐおじいちゃんに再会できるんだよ」
「おじいちゃんに?」
おじいちゃんとは、真琴の祖父である。つまり、祖母にとっては夫である。真琴がうまれるよりも、もっと前に亡くなってしまっていた。真琴は会ったこともないが、「とても優しいおじいちゃんがいたんだよ」お父さんから聞かされていた。
祖母は続けて、ゆっくりとした口調で言う。
「あのねえ、寂しいって思うのは、残された人間の勝手なんだよ」
「……どういうこと?」
「つまりね、あたしはいま、わくわくしているんだよ」
「どうして、わくわくしているの?」
「どうしてって、そりゃあ、もうすぐ大好きな人に会えるからねえ」
「……わたしだって、おばあちゃんのこと、だいすきなのに」
真琴がすこしだけ怒ったように言うと、祖母はほほえんだ。
「だからね、真琴、いつまでも澄んだ瞳で、清らかに生きなさい。そうすればいつか、あたしと真琴は、ずっと一緒に暮らせるようになるから」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
実のところ真琴は、この日、祖母と交わした会話の意味がほとんど理解できなかった。
いつかの会話と同じように、ほとんど分からなかった。
しかも今とはっては、あのときの会話もまったく思い出せない。
だから真琴は、こんどこそ忘れてはならないようにと、いつか理解できる日がくるようにと――、いまの会話を、頭のなかで何度も何度もくりかえした。
二人きりでの会話は、それが最後だった。
祖母が亡くなったのは、星が雲に隠れてまったく見えないような、夜の自宅だった。
祖母は、最後の場所として、自宅を強く希望していたのだ。
狭い座敷のなかに、たくさんの親戚があつまっていた。名残惜しそうな顔もあったが、穏やかな顔が多かった。母親だけが泣いていた。
そのなかで真琴は――、お魚に見とれていた。
ぼんやりと、みどり色に輝いているお魚。
祖母の身体のなかから出てきたお魚だった。
ついさきほどまでの、元気のなかった様子とはうってかわり――、そのみどり色のお魚は元気そうに、部屋のなかをピンピンとして動きまわっていた。それはまるで、自分の泳ぐべきところをやっと見つけられて安心しているかのような、喜んでいるかのようだった。
それからみどり色のお魚は、みんなに挨拶をするように、座敷のなかを元気よく動きまわったあと、真琴に近づいてきてくれた。
真琴は思わず、手をのばした。
みどり色のおさかなは、挨拶でもするかのように真琴の指を、二、三回つついてから――、その手をすり抜けて、外へ向かってしまう。窓もすり抜けて、かつてのように庭に出て行ってしまった。
「あ……」
真琴はいそいで後を追った。窓を開けて、裸足で、まっくらな庭に飛び出した。何人かの親戚が驚いた顔をしていたが、真琴には、そんなものを気に留める余裕もなかった。
芝生のうえで、キョロキョロとその姿を探すと――、すでに、みどりいろのお魚は、曇で真っ暗な空にむけて、一直線でおよいでいるところだった。
やがてお魚は――、雲の向こう側へと消えた。
呆然として立ちつくしている真琴の背中に、声がかかった。
「真琴」
と、心配するような父親の声。
靴を履いた父親が現れた。
「家のなかに、戻りなさい」
「うん……」
釈然としないような思いのまま、空をみつめていると――、
ぽつり――、と雨粒が、真琴のほっぺたに落ちた。
思わず空を見る。
一つ、二つと雨粒が、静かに降りはじめたところだった。じっとその様子を見つめる。雨粒は、あとからあとから降ってくる。まるで空が泣いているかのようだった。
ぽつり、ぽつり――、と、肌におちてくる感触は柔らかくて、こころなしか温かかった。
「あ、分かった」
と真琴が言った。
「……なにが、分かったんだ?」
と父親が訊いた。
「おばあちゃんは、おじいちゃんとあえたんだ」
「……うん? そうなのか?」
「おばあちゃんは、ゆめがかなったの。だからうれしくてないているの」
「……本当か?」
「ぜったいにそうだよ!」
真琴は自信をもって言った。
そして父親を見る。
父親の心臓のあたりには、青色の、とても元気そうなお魚がみえていた。
その青色のお魚は、さきほど見た、みどり色の美しいお魚とおなじような、元気な姿だった。
真琴はそれを見て、ほほえんで言った。
「おばあちゃんはもう、お父さんみたいに、げんきになったんだよ!」