第3話 リンデンの魔法
ある日、ルーカスは老婆の後を付いて森の中を歩いていました。それは月の美しい晩でした。
これまでもルーカスは老婆に付いて森の中を歩いた事はありますが、キノコが生えている場所でも、泉の傍の木苺の茂みでも、血止め草の自生している場所でもない初めての道を歩いているのに気が付きました。
やがて、二人は大きな菩提樹の下にやって来ました。
その大きさといったら、森じゅうの動物たちがいっぺんに雨宿りできるくらい大きく、そして葉が繁っていました。ちょうど花の頃らしく、甘くて優しい芳香が辺りの空気に溶け込んでいます。
菩提樹の葉と花は、月光を浴びて銀色に輝いていました。
老婆はその銀色の葉と花を摘むと、持っていた籠に入れました。
ルーカスは老婆がするように銀の葉と花を摘みました。
月の綺麗な晩に
銀の葉を摘もう
月の光に晒して
浮世の辛さを癒す
リンデンの魔法
月の綺麗な晩に
真実をみつめれば
月の光に溶けて
夢から醒める
リンデンの魔法
老婆がか細い声で何度もそれを歌うのをルーカスはじっと聴いていました。
もうルーカスは彼女が何者なのかも、どうしてこんな歌を自分に聴かせるのかも分かっていました。
ルーカスは黙ってそれに耳を傾け、月光に菩提樹の葉と花を晒す作業を手伝いました。
またある日のことです。
老婆はルーカスに言いました。
「私の寿命はもうあと1日だよ。ルーカス、お前さんに魔女の眼をやろう。魔法使いは力を後継者に継承するものさ。お前さん、貰ってくれるかい?」
老婆が差し出す手を、ルーカスは両手で包みこみました。すると、どうでしょう。
老婆の掌から熱い何かがすぅっと流れ込んだかと思うと、たちまちルーカスの淡い金色の髪は、月光を浴びたリンデンの葉のように銀色に輝き出しました。
「もし私がこの力を継承出来なければ、どうなっていたのですか?」
魔女の力を失い、急に老けこんでしまった老婆は、濁った眼でルーカスの方を見ると、穏やかな笑みで答えました。
「どうもならないよ。リンデンの魔法使いがいなくなるってことだけさ。幸せにおなりルーカス。もっとも魔法使いであることがお前さんにとって幸せかは分からないが、この力が身の内にある間は時間がゆっくりと流れていく。時間はたっぷりとあるから自分の幸せが何なのか、ゆっくり考えるといいよ」
そういうと、老婆はルーカスにリンデンのお茶を淹れるよう頼みました。
温めたポットに月光に晒したリンデンの葉と花、そして月桂樹の葉を入れて、教えられたようにあの不思議な香りのするお茶を淹れました。
老婆はカップに注がれたそのお茶を飲むと、黒い猫に姿を変えて、森へと消えて行きました。
それからあの老婆は、この小さな家には戻って来ませんでした。
ルーカスが一人になっても森の中の小さな家には魔女を訪ねて人がやってきました。
魔女の眼を継承したルーカスには、その人が来るのが朝から何となく分かっていました。そして、訪ねてきた人達がもうどうしようもないほど打ちひしがれているのが分かりました。
辛い。
騙された。
生きていたくない。
これからどうして生きていけばいいのか分からない。
寒い。
ひもじい。
痛い。
おとうさん、おかあさん、どうして僕を愛してくれないの?
様々な負の感情がルーカスに流れ込んできました。
それは、ルーカスに魔法使いにならなければ良かったと思わせるのに十分でした。
それでもルーカスはその森の中の小さな家を飛び出す事はしませんでした。
せっせと月夜の晩にリンデンの葉を摘んでは、訪ねてくる人々に魔法をかけました。
哀しい人々に一時の安息を与えられるなら、例え騙すように呪いをかけても、それでいいと思っていました。
もう長い間、ルーカスは自分の幸せについては考えることを忘れていました。
その日、ルーカスは朝からまた“お客さん”が来るような気がしていました。
夕方になっても“お客さん”は現れませんでした。
この日はちょうど満月の日でした。
15日に一度の満月の日には、月が森の上でキラキラと菩提樹を照らしている間に、葉を摘まなければなりませんでした。
ルーカスは“お客さん”を待つ事を諦めて、菩提樹のある場所へと出掛けて行きました。
食卓テーブルの上には、湯気の立ったきのこのスープが皿に盛られたまま、ぽつんと置いて行かれました。
これはルーカスが猫になった老婆がいつ戻ってきてもいいように、毎日一皿多く盛られているものでした。
でも、あの日から一度もそれが食べられた事はありません。
そう、この日までは――。
前日譚はここまでです。このあと、ルーカス視点の「リンデンの魔法使い」番外編へと続きます。