第2話 失われた名前
老婆は、まるで彼がここを訪れるのを知っていたかのように、皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべて、彼を家の中に迎え入れてくれました。
家の中には暖炉があって、大きなお鍋にお湯がたっぷり沸いていました。
干した薬草の香りが、家の中に立ち込めていました。
老婆に勧められた椅子には、毛糸で編んだ手編みのカバーが掛けられていました。
見る物全てが、彼の好奇心を刺激して、とても愉快な気持ちでした。
老婆が王子の前に、不思議な香りのするお茶を出してくれました。
「これは何のお茶ですか?」
疑う訳でなく、ただ純粋な興味から五番目の王子はそう老婆に問いました。
しかし、老婆はそれには答えませんでした。
ただ、静かな声色で王子に話しかけます。
「お前さんは、どうしてここに来たんだい?」
五番目の王子は考えました。
最初に頭に浮かんだ事は、特に珍しくもないものを城に持って帰れればいいと思っていた事でした。
国は兄達の誰かが継げばいいと思っています。
国を継げない王子達は、側近として臣下に下り王を支えるか、他国に婿に行くか選ばなくてはなりません。でも、五番目の王子にはそのどれもが自分に向いているとは思えませんでした。
王子は最初に南の森を選んだ訳を思い出しました。
「私は……魔法使いになりたいのです」
彼の言葉を聞いて、老婆は初めて驚いた顔を見せました。
「面白い事を言うね。お前さんはどこぞの王家の人間だろう?」
「はい。ルメール王国の第5王子。ルーカス=ルメールと申します」
「馬鹿だね。相手がどこの誰だか分からないのに、正直に名乗るなんてさ」
老婆は顔の皺をさらに深くして笑いました。
「さて、お前さんにはこれは必要ないようだね」
そう呟くと、老婆はルーカスの前に置いたお茶を下げてしまいました。
それからというもの、老婆はルーカスに出ていけとも出ていくなとも言いませんでした。
そこで、ルーカスは老婆がやる事なす事全てに付いて回りました。
掃除、洗濯、お料理。
森を散歩する時も、何やらの植物を摘む時も。
老婆は、それを厭わず、干渉もせず、ただルーカスのしたいようにさせてくれました。
ただ、小さな声で「これは血止めに便利だからねぇ」と呟いてはルーカスに聞かせてくれました。
第五王子としてお城で大事に育てられてきたルーカスにとって、その日々は刺激的で興味深い毎日でした。
何しろ、掃除も洗濯もお料理もしたことが無かったのですから。
時折、ルーカスは「お婆さんが魔女なのでしょう?」と訊ねましたが、老婆は決して首を縦に振ることはなく、「どうだろうね」とはぐらかすばかりでした。
そんなある日、いつかのルーカスの様に森の小さな家を訪ねてくる者がありました。
それは若い女と男でした。
ルーカスは二人が何故、兵でさえも恐れるこの森に入って来たのか分かりませんでした。
自分のように森に興味があって、魔法使いになりたいと望んでいるわけでもなさそうです。
老婆はそんな二人を快く招き入れると、二人になぜここに来たのか訳を訊ねました。
二人はお互いの両親に結婚を反対されて逃げてきたのでした。
そして、ルーカスに最初に出したのと同じ、あの不思議な香りのするお茶でもてなしたのです。
若い二人はそれを飲みました。
すると、二人の姿はたちまちつがいの蝶へと変わってしまいました。
2匹の蝶が睦まじく森の中へと飛んでいくと、ルーカスは老婆に詰め寄りました。
「彼らに何をしたのですか! 別の土地で隠れて住まうことも出来たのに!!」
老婆は少し哀しげな顔をして言いました。
「彼らはね、この森に死を求めてやって来たのさ。でなけりゃ、わざわざ人食いの魔女がいるっていう森にやって来ないよ。説得してこの森から追い出しても、彼らはきっとどこかで心中してしまう。わたしにはそういう未来が視えるんだよ。それならせめて俗世を離れて最後の時まで一緒にいるというのも幸せの形の一つじゃないかねぇ」
老婆は二人が残して行った空のカップを流しに運びながら、言葉を続けました。
「この森にはね、そういう人を呼び込む不思議な力がある。死を求めている人や、死が間近に迫っている人、自分を見失って生きるのが辛くなっている人……。みんな自分では死ねないから人食い魔女を頼ってくるんだろうね。だけど、あたしゃ、そこまで優しくないんだよ」
「……では、私もこの森に呼び込まれたのでしょうか?」
ルーカスが恐る恐る訊ねると、老婆はにんまり笑って言いました。
「お前さんもこの森に呼び込まれた時は、自分の生き方を見失っていたようだがね。魔法使いになりたいときたもんだ。馬鹿げちゃいるが、生き方を自分で見付けられた者には、この魔法は必要ないんだよ」
「魔法……。でも! 姿を変える前に選ばせてやる事はできないのですか」
「事情を知ったものをこの森の外へ帰すとどうなるか、分かるかい?」
老婆は穏やかな目でルーカスを見つめました。
それは、ルーカスの心の奥まで見透かすような眼差しでした。
返答できないルーカスの代わりに老婆が答えました。
「始めは小さな呟きでも大きな噂に成長する。それが為政者の耳に入ったらどうなるだろうね。このお茶一杯の為に戦争になるのは避けたいだろう?」
「ですが……」
「もちろんお前さんみたいに、姿を変えて次の生き方を与えてやらなくても、自分の生き方を見付けて森を出ていくものもいるだろう。そんな奴の前では、わたしはただの森に住んでいるお婆さんでいいのさ。だが、そんな奴は未だ現れたことは無いがね」
「私にそれを話してしまってもいいのですか」
老婆は口角を少し上げると、皺を深くして言いました。
「自分に自信がないかね? では、お前さんがここから逃げ出さない様に大切な物を一つ貰おうかね」
そういうと、老婆の片手がルーカスの鼻先で何かを掴むように動きました。
「お前さんの名字を貰ったよ。これでお前さんはただのルーカスさ」
こうしてルーカスはただのルーカスとなってしまい、帰る家を失くしてしまいました。
でも、この頃のルーカスには自分の国に戻る気はもうありませんでした。
それからも、この小さな家を訪ねてくる者がありました。
その全ての人が皆、動物や昆虫に姿を変えて森へと消えていきます。
彼らが何処に消えていくのか、ルーカスは訊ねました。
「森には棲むところがたくさんあるからね」
老婆はそう答えるだけでした。