陰掃う烈風~その1~
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それでは本編へどうぞ。今回も楽しんで頂けましたら幸いに思います。
町を照らす朱色の光。空一面を覆う夕焼けの中、ぽつりと黒い影が浮かんでいる。
くろがね市山端区にある、集合住宅の並ぶ一角。双輪川を間近に臨むアパートたちの屋根を、黒い影は眼下に見下ろしている。
両目を覆う、緩やかなV字を描く赤いバイザー。金の額飾りに黒い巻き角。黒い髪と赤いマントを靡かせた影・ナハトは、数多く並び建つ中から一軒の裏へ舞い降りる。
ふわり。と音もなく地を踏むナハト。そして左腕を隠すマントを跳ね上げて、鉤爪を備えた重厚な籠手に覆われた左腕を振り上げる。するとそれに引かれるように、ナハトの爪先から黒い炎が巻き上がる。
足から腿、腰と上へ上へと炎に巻かれていくナハト。やがて渦を巻く炎がその全身を包み、その勢いのまま空へ散っていく。炎が消えた後、そこにはアムを左肩に乗せた黒い少女、大室いおりの姿があった。
火の粉と共に舞い上がる長い黒髪。結んでも滑ってしまいそうなほど艶やかで真直ぐなそれの隙間から、左耳を飾る赤い宝玉のついた金色のイヤリングが煌く。
舞い上がった髪が重力に従って流れる中、いおりは周囲に浮かぶ炎を左手人差し指先に乗せ、その光で空に文字を描く。
空に走った文字が溶け、いおりを中心に広がる。変身に使っていた魔力の残りを利用して作り上げた結界。そんな中いおりの左肩、被さってきた髪を重たげに退けて、アム・ブラが顔を出す。
見上げてくる相棒の顔へ、いおりは釣り上がった目に収まった、黒い大きな瞳を向ける。
「さて、回収できた命と心の力だ」
いおりはそう言って、手の甲を銀十字で飾った黒手袋に淡い光を握る。ソフトボール大のそれをいおりは左肩に乗った相棒の鼻先に寄せる。アムはいおりに差し出された、求めていたエネルギーの塊に右の前足で触れる。
『契約者に散らされて、普通の流れに乗りかけた奴だから全部じゃないのがねえ……』
アムはぼやきを零しながら、今回回収できた分のエネルギーをその肉球に吸い込む。肉球に収まったエネルギーは黒い体毛に覆われた肉体を通り抜け、長い尾へと流れる。そして尾の先端を飾る金の輪に触れた瞬間、まるで壁の向こうへ姿を隠すかのように、光が消える。
『ああ、ルクスの契約者が発散した分も混じってたわ。この希望を宿した明るい波長……なるほど、ルクスと波長が合うわけさね』
そこでアムは赤い瞳の右側を瞑り、味見に納得した料理人のように頷く。そうしてアムは閉じていた目を開き、右手側にあるいおりの顔を見やる。
『これで故郷でひもじい思いをしてる奴らも、しばらくは凌げるだろうさ』
「それは重畳」
軽く安堵の息を吐くアム。そんな左肩の相棒へ頷き、結界を維持したまま歩きだすいおり。
アパートの全体のロックを外し、建物の中へ入るいおりとアム。正面奥のエレベーターの前に立ち、扉脇のスイッチを押して、スライド式の扉の向こうへ昇降機本体を呼び出す。
すぐに1の数字が光り、甲高いベルがエレベーター本体の到着を告げる。
静かに横に滑り開く扉。それを潜り、自身を迎えに来た本体へ乗り込むいおりたち。壁際に背中を寄せ預けて3のスイッチを押す。
いおりの操作に従い、滑り戻って締まる扉。背中から伝わる振動と僅かな浮遊感。それを感じながら、いおりはその慎ましやかな胸の前で腕を組む。
「ところで、最後に飛びかかってきたあの白竜。あれとは顔見知りなのか?」
『ん? ああ、ルクスのこと?』
いおりの質問に訊ね返すアム。それに頷き、いおりは言葉を続ける。
「ああ、ルクスと言うのかあいつは。色こそ白かったが、姿はよく似ていたから兄弟か?」
その質問に、アムは目を逸らして薄く口を開く。
『アイツの兄弟は別にいるさ。アタシは……単なる、ガキの頃からの腐れ縁さ』
自嘲気味に鼻を鳴らすアム。それに続いて、目的の階への到着を告げる音が鳴る。いおりはそれに伴って開くドアを潜り、3階の廊下へ出る。
「なるほど、幼いころからよく知っている異性の友達、と言うことか」
『なんか含みのある言い方じゃないのさ』
ドアを潜りながらのいおりの言葉に、アムは眉根を寄せて半眼を向ける。
それにいおりは含み笑いを零しながら、廊下を歩いていく。
「クク……そう思うか?」
滑るようにいおりが廊下を進んでいく中、アムは鼻を鳴らして目を伏せる。
『第一アタシは、アイツの友達でいる資格なんかないさ』
その顔を一瞥し、いおりは正面を見据えて口の端を持ち上げる。
「ふむ、そういう貴様の感性は嫌いではないぞ、嫌いではないぞ?」
『それは二回言うほど大事なことなのかね?』
再度眉をひそめて半眼を向けてくるアムに、いおりも眉をひそめて唇を軽く尖らせる。
「むぅ……我が魂の宿敵であれば我が求める返しをしてくれただろうに、我が半身がこれでは……もやもやする」
『アンタは何を言ってるのさ……』
不満げに呟くいおりに、呆れ交じりにため息をつくアム。
やがて歩を進めながら、思い出したように顔を上げるいおり。
「ああ、宿敵、それに白竜と言えば、先程出会った白竜の契約者、あの男とはよい宿敵として付き合えそうだ」
特撮ヒーロー然とした白銀の戦士の姿を思い返し、繰り返し頷いて含み笑いを零すいおり。それにアムは顎を上げる。
『そんな悠長なこと言ってて大丈夫かね? 発散した力の一部から予想できる力の質と量、それに竜族と契約したってだけでも、あれが手ごわい敵になるのは目に見えてるのよさ』
そう言ってアムは呆れ交じりに鼻を鳴らし、いおりの肩の上で前足を組む。
『最初に合った時に潰しておけば、なんて後悔することにならなきゃいいけどさ』
「クク……我を誰だと思っている? そのような小さいことをこの深魔帝国皇女、シャルロッテ・エアオーベルング・神薙が言うはずもあるまい」
いおりは相棒の皮肉めいた心配を杞憂と笑い流し、ポケットから十字架のキーホルダーの付いた鍵を取り出す。そうしてそれを、「315・大室」という表札の掛った部屋のドアに差し込み捻る。
音を立てて開くドアを抜け、相棒を伴って家に入るいおり。明りの灯っていない暗い玄関の中、壁へ手を伸ばして電灯のスイッチを入れる。
玄関に明かりが灯り、リビングへ続く廊下を照らす。靴を脱いで板張りの床に上がったいおりは、無言で歩を進める。そうしてリビングのドアを開けると、真っ暗な部屋が目の前に現れる。
いおりは後ろから差し込む光を背に目を細め、温もりの抜け切った空気に細い息を吐きだす。
「……ところで、自分で契約相手を探しに行った同胞からの連絡はあったのか?」
『ああ、少々不安定だが良い相手を見つけたから、白竜に狙われたら援護を頼む。だとさ』
闇に覆われた部屋にアムの声が吸い込まれるように消えて行く。
※ ※ ※
ドアを開け、特撮グッズの並ぶ自室に入る裕香。ルクスを腕に抱え、孝志郎に手を添えられたまま正面にあるベッドへと歩を進め、クッションの効いたそれに腰を下ろす。
「ふ、うう……」
ベッドに体を預けた裕香は、膝に真っ白な相棒を乗せて深呼吸をする。
「大丈夫、裕ねえ?」
そんな裕香の左隣に座り、背中を支えながら心配そうに声をかける孝志郎。そんな五つ年下の幼馴染に、裕香は柔らかく頬笑みを送る。
「うん、大丈夫。傷は塞がってるし。ね?」
そう言って裕香は、孝志郎に腕を上げて見せる。
絵描きゴブリンを浄化した後、気を失った涼二を鈴森家の前に寝かせた裕香。それから家路の途中で待っていてくれた孝志郎と合流、そのまま連れ立って吹上の家に帰ってきていた。
「でも、さ……」
裕香の無事だというアピールにまだ心配そうに見つめてくる孝志郎。それに裕香は笑みを深めて、孝志郎の刈り込んだ茶髪に包まれた頭を撫でる。
「心配してくれてありがとう、孝くん。まだちょっと疲れてるだけだから、もう平気だよ。怪我をすぐに治すように力が働いてるんだから」
重ねて自分は大丈夫だと孝志郎へ言い聞かせる裕香。その膝のルクスから微かな声が上がる。
『う、ううん……ここは?』
「ルーくん!」
裕香の呼びかけに顔を上げるルクス。その翠色の大きな瞳は、二、三まばたきを繰り返し、はっきりとした光を取り戻す。
『ユウカ? そうだ、アムとあの女は!?』
目を見開いて問うルクスに、裕香は目を伏せて首を左右に振る。
「ゴメン。良い様に遊ばれた上に見逃されちゃった」
裕香はそう言って下唇を噛み、両手を強く握り合せる。
「裕ねえ」
『ユウカ』
そんな悔しさを滲ませる裕香の手に、孝志郎の手がそっと重なり、同時にルクスの肉球が組み合った指に触れる。
「まだチャンスがあるじゃないか! 今度合った時は今日の逆にぶっ飛ばしちゃえばいいじゃないか!?」
『そうだよ、まだ負けたわけじゃない!』
「孝くん、ルーくん」
二人からの励ましの言葉に、唇を緩めて顔を上げる裕香。しかしその瞬間、孝志郎は眉をひそめて裕香の膝に居るルクスを睨む。
「何真似してんだよ」
『別にいいじゃないか。ボクはユウカと契約したパートナーなんだ』
睨む孝志郎へ毅然と言い返すルクス。そんなルクスに怯まず、孝志郎は唇を尖らせて圧し掛かる様に顔を寄せる。二人はそのまま鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、険しい視線をぶつけ合う。
「ふふ……」
そんな和やかとは言えない物の、いつも通りの孝志郎とルクスのやり取り。それに裕香は思わず笑みを零していた。
「裕ねえ?」
『なんで笑うのさ?』
それを見咎めて、揃って不満げな顔を向けてくる孝志郎とルクス。
「だから真似するなって!」
『真似なんかしてないよ!』
そうして再び睨み合う二人。その姿に裕香は再び笑みを零す。
「ゴメンゴメン……なんだかいつも通りな二人を見てたらホッとしちゃって」
抑えきれない笑みを零しながら、孝志郎とルクスを交互に見やる裕香。二人は裕香の頬笑みを見て目を瞬かせると、再びお互いの顔に目をやる。
「まあ、裕ねえに元気が出たならいいや」
『それはそうだね』
そう言ってお互いに視線をぶつけ合ったまま、孝志郎とルクスは座り直す。
裕香はそんな二人の姿に微笑みのまま頷いて組み合っていた手を解く。
『それにしても、あのナハトって名乗ったアムの契約者。何者なんだろう』
裕香の膝の上に座ったまま一息ついたルクスは、目元を引き締めて呟く。それを聞いて裕香は相棒へ視線を落とす。
「そう言えばあの幻想種、アムって言うの? 知り合いみたいだったけどどういう関係なの?」
頭上からの裕香の質問に、ルクスは険しい面持ちのまま顔を上げる。
『あいつは黒竜族のアム・ブラ。幼馴染って奴かな……一応は』
「一応?」
「なんだよ、はっきりしないな」
ルクスの歯切れの悪い物言いに、小首を傾げる裕香と眉根を寄せる孝志郎。するとルクスは目を瞑り話の続きを口に出す。
『今回の一件は若い黒竜族の娘、つまりあのアムが起こしたことなんだ。アムは多くのパンタシアを連れて、人間界への門を守っていたボクの兄さんを……殺したんだ』
目を瞑ったまま鼻の根元にしわを寄せ、歯を剥くルクス。
「そう、ルーくんのお兄さんが……」
白い歯を噛み締め軋ませる相棒の姿に、裕香も目を伏せる。そんな裕香の手に温もりが重なる。それを辿れば、心配そうな顔を向ける孝志郎と目が合う。
そんな幼馴染の手を柔らかく握り返す裕香。ルクスは裕香の膝の上で四本の足で立ち上がると、改めて長い前髪に隠れた相棒の顔を見つめる。
『ボクは一族の使命を果たしたい。でもそれはアイツに兄さんのことを償わせたいだけで……』
そう言って頭を下げるルクス。その角の生えた白い頭を、裕香は優しく撫でる。
『ユウカ?』
「お兄さんのこと、大切だったんだよね? 大切な人に何かあったら怒ったりするのは普通だと思うよ。私だって、お父さんにお母さん、孝くんや友達に何かあって欲しくないから戦ってるんだし。だから気にしないで、ね?」
柔らかく自身を撫でる手に身を委ねて、ルクスは改めて頭を下げる。
『ありがとう、ユウカ』
そんな二人のやり取りに、孝志郎は上体を倒して左手を膝に頬杖を突く。
「裕ねえってばソイツに甘いんだから」
そう言って軽く鼻を鳴らす孝志郎。裕香はそんな年下の幼友達に目を向ける。
「そう、かな?」
首を傾げる裕香に、孝志郎は軽く唇を緩める。
「まあ、それだから裕ねえなんだけどさ」
笑みを浮かべる孝志郎に、裕香は微笑みと共に頷く。
「ありがとう、孝くん」
午後の山端中学校第一体育館。二クラス合同のバスケットの授業が行われているここで、張りのあるボールの弾む音と、甲高い摩擦音が響く。
右手でオレンジ色のボールをドリブルしながら、バスケットコートを駆ける、長い後ろ髪だけをまとめた裕香。
ハーフパンツに白い体操服。その上から赤い10番のビブズゼッケンを着た裕香は、行く手を塞ぐ白いビブズの女子生徒の左脇をすり抜け、そこへボールを取ろうと伸びてきた手を体を盾に挟んで防ぎ抜ける。
ゴールを目がけて進む裕香の前に、裕香以上に上背のある白ビブズの女子が立ち塞がる。
「助っ人帰宅部に、これ以上は行かせないよ」
黒髪をベリーショートにした別クラスの女子バスケ部員。両腕を広げて行く手を塞ぐ女子バスケ部員と向き合い、ドリブルをしながら隙を窺う裕香。
不意にボールを取ろうと伸びる手に、裕香は身を翻して体を盾にする。背後から圧し掛かかるように覆いかぶさってくるバスケ部員に、裕香は両手でボールをホールドし、左右に視線を振って相手とコート全体の動きを見る。
「ク……!」
周囲を取り囲むように集まってくる相手チームのメンバーに、裕香は歯噛みする。
しかし、その中にちらつく赤を見つけて、裕香は意を決して身を翻す。
「甘いッ!?」
刹那、鋭い声と張りのある音が響き、ボールが弾かれる。
床を跳ねたボールへ手を伸ばすベリーショートの女子。しかしそのボールを黒い尾を引く影が横から拐いとる。
「なあっ!?」
バスケ部女子の驚きの声に合わせて、靴と床を擦り鳴らす赤の11番、いおり。そこから長く艶やかな黒髪を靡かせ、ドリブルで大柄な女子の脇をすり抜ける。
裕香の行く手を塞いでいたバスケ部女子を始めとした三人がいおりを追う。
それに続いてゴールへ向かう裕香。その背を追って白ビブズの女子が二人慌てて続く。裕香はそれを一瞥し、先を行くいおりに視線を戻す。
三人に追われながらもドリブルでボールをキープして走るいおり。しかしベリーショートの女子に追い着かれ、行く手を塞がれる。
後ろを見たいおりと裕香の視線が重なり、裕香はある方向を一瞥する。瞬間いおりは身を翻し、裕香が視線を送った方向へボールを両手で撃ち出すようにパスする。
床を一度弾んでコートを走るボール。その先の空間。そこに居た赤ビブズ5番の愛は、反射的にパスされたボールを受け取る。
「え? へ?」
ボールを抱えて戸惑う愛。そこへベリーショートの女子が体を切り返して向かう。更に戸惑う愛へ、裕香は走りながら右手を上げる。
「愛さん!」
「あ、うん!」
裕香の声に従ってパスを出す愛。ぬるい勢いで跳ぶボールへ自分から受け取りに向かう裕香。
「させない!」
「……こっちのセリフ」
パスを阻もうと踏み出すベリーショートの女子。その眼前にいおりが滑り込んで壁となる。
その隙にボールを取った裕香は一気にゴールへ向かって走る。壁になろうとする白チームの一人を、上体を振ったフェイントでかわし、宙に開けたゴールへのコースへ床を踏み切って飛び込む。
右手にボールを振りかぶり、真直ぐにゴールへ飛翔する裕香。そしてその勢いのまま、ボールを待ち構えて大口を開けたゴールリングへ、オレンジ色のボールを叩きこむ。
鋭い音を響かせるダンクシュート。その直後、裕香の両足が床を踏み、得点係が赤チームの点を加算する。
「よし!」
拳を固め、ガッツポーズをとる裕香。そこへ2クラス混ぜこぜの赤チームメンバーが集まる。
「やったね裕香さん!」
「ナイスパス、愛さん!」
両手でハイタッチを交わす裕香と愛。そして裕香はいおりへ向き直ると、右手を差し出す。
「さすがだね。いおりさん」
「どうということはない」
言葉と共に二人は握手を交わし、笑みを浮かべる。そこから握手を解き、拳の底と頭を交代にガシガシと打ち合わせ、掌をピシッと音を立てて合わせる。続けて腕相撲の様な形でグッと握手を結んで手を上下。その勢いに弾ませて手を解くと、お互いに腕をまわして三度手をグッと結び直す。
複雑な握手を淀みなく決め、互いに笑みを深める裕香といおり。
そんな二人の姿に愛が首を傾げる。
「変わった握手だけど、それスポーツ選手がやったりするの?」
「あ、え、ええっと……あはは」
その愛の問いに、裕香は特撮ヒーローが元ネタだと堂々と言えず、いおりと共に曖昧な笑みを返すしか出来なかった。
そんな裕香といおりのコンビに、愛を始めとする赤チームはただ首を傾げるばかりだった。
午後の授業を終えて放課後。
帰り支度を終えた裕香は手提げ鞄を片手に、前髪の隙間から出口際にある愛の席を見やる。すると愛も丁度帰り支度を終えた所であった。
友人の席とその傍にある教室の出口へ歩み寄る裕香。それを愛は鞄を手に立ちあがって迎える。
「じゃあ帰ろっか」
「うん。行こう行こう」
連れ立って教室を出る裕香と愛。するとそれを待っていたかのように、廊下の壁に背を預けたいおりの姿が目に入る。
「あ、いおりさん」
「うむ」
裕香の姿を認め、口の端を吊り上げて頷くいおり。
「いおりさんもどう? 一緒に帰らない?」
裕香の誘いに、いおりは壁に背を預けたまま、顎に指を添えて考える様なそぶりを見せる。
「そう、だな……悪くはない、な」
その歯切れの悪い反応に、裕香は顎を引いて長い前髪をいじる。
「あ、何か用事があったの? ゴメンね。無理に誘っちゃって。行こう、愛さん」
「あ、うん」
二人はそう言っていおりの前を通り過ぎようとする。
「ま、待った!」
だがすれ違う瞬間、裕香の袖に何かが引っかかる。それに裕香が振り向くと、慌てて手を伸ばしたらしいいおりがそこに居た。
「べ、別に用事などない。同行しよう」
目を逸らしながらそう言ういおり。それに裕香は唇を緩めて頷く。
「なんだ良かった。じゃあ一緒に帰ろう?」
「もう、大室さんも素直に言えばいいのに」
「う、うむ……」
裕香の陰から覗き込むようにして軽く笑う愛。それにいおりは、口の中に言葉を籠らせて頷く。
それから三人で一纏まりとなった一行は、裕香を基点に左隣に愛、後ろにいおりという三角形を描いた形で昇降口へ向かう。
「それにしても今日のバスケットの授業は凄かったよね、二人とも息ピッタリで! いつの間にそんなに仲良くなったの?」
下り階段へ向かう道すがら、不意に愛の好奇心に輝く瞳と額が裕香に向けられる。
「ええっと、それは……」
そんな友達の質問に、裕香は互いを繋いだ共通の趣味について言い淀み、後ろのいおりを見やる。するといおりも唇をもごつかせて、その吊り目がちで瞳の大きい目を逸らす。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げて見上げてくる愛。それに裕香は、前髪の一房を右手の指で摘みねじりながら言葉を選んで口にする。
「昨日、たまたま公園で会って……一緒に子ども達と遊んでる内にね」
裕香の語る日曜午後の出来事に、愛はそのぱっちりとした目を更に大きくして斜め後ろに向ける。
「へえ、子ども好きなんだ。ちょっと意外かも」
「われ……私みたいなのがそんな事をするのは、そんなに可笑しいか」
好奇心と驚きを含んだ愛の言葉と視線に、いおりは唇を尖らせてそんな言葉を返す。だがその白い頬に僅かに差した朱色に、それが照れ隠しであることが窺える。
「何もおかしくなんかないよ」
裕香は階段を降りながら、段上のいおりを振り仰ぐ。それに乗って愛も首を縦に振る。
「うん。物静かなイメージしかなかったってだけだから」
微笑み、他意は無いと主張する愛。それにいおりは頬を染めたまま、軽く鼻を鳴らす。
そうしている内に昇降口へ辿りつき、それぞれの下駄箱で上履きと下足を取り替える三人の少女。
午後の日差しが降り注ぐ表に出た三人は、今度は裕香を挟むように横一列に並び、正門へ歩いていく。
門を抜け、学校の敷地を出る三人娘。
水路沿いの道を進みながら、不意に愛が裕香の胸元に目を向ける。
「それにしても、前から着替えの度に思ってたけど、裕香さんって大きいよね」
「そ、そう?」
唐突に向けられた視線と話題に、裕香も戸惑いながら自身の胸に目を落とす。そこで愛とは逆方向からの視線を感じてそちらへ顔を向ける。すると、裕香の豊かな山と、自身の平原を交互に見やるいおりがいた。
「オ・ノォレェエ……」
妬みを滲ませたいおりの呟きに、裕香の頬を冷や汗が伝う。そのまま助けを求めて愛を見やる。だが愛からも羨ましげな視線が注がれ続けている。
「なんで同じ年なのにこんなに……」
「私に聞かれても分からないよぉ。11歳ごろに身長にブレーキがかかってから、入れ替わるみたいに膨らんだだけだし」
両サイドから胸元に注がれる視線に、裕香は頬を染めて身を縮める。そのまま前髪を指先で弄び、その隙間から左右の友人を交互に見やる。
「それに大きくなっても、そんなに良い事ないよ? 運動には邪魔だし、男の人からも女の人からも変な目で見られるし」
そこまで言って裕香は一度深い溜息をつく。
「それにサイズも上のにしていかないといけないし。無い物ねだりするみたいだけど、もう少し控え目か、せめてこれくらいで止まってくれたら……」
「『無い』のは私の方だ」
項垂れる裕香の隣で、いおりが低い声音で呟く。
「う、え?」
それに裕香が顔を向けると、空いた手をワキワキと動かす据わった目のいおりと目が合う。
「なにゆえ膨らみ育つのか……ささやかなモノこそ美しい、さあ我が手の中で萎み縮むがよい!」
どこぞの大魔王の様なセリフを言い放ち、じわじわと裕香の胸に手を近付けるいおり。
「ひ!? ちょ、目が本気!?」
握り潰そうとする様に迫る手に、裕香も顔をひきつらせて胸を交差した腕の下に匿う。
そうしてじゃれ合っている内に三谷家の前に到着。
「じゃあ、またね。裕香さん。大室さん」
「うん。また明日」
「うむ」
片手を軽く上げて挨拶を交わし、愛と別れる裕香といおり。その姿がドアの奥へ消えるのを見送って、裕香達二人は再び家路を進み始める。
車道側に裕香、歩道奥にいおりと並んで歩く二人。その後ろからバタバタと慌ただしい足音が追い迫る。
「ん?」
「何事か?」
その足音に二人が振り返ると、学ラン姿の男子生徒が一人、走って追いかけて来ていた。
「待ってくれ、吹上ぃ!」
「鈴森くん?」
「む……」
駆け寄ってくる眼鏡をかけたクセ毛の男子の名を呟き、その到着を待つ裕香。その隣では、いおりが眉をひそめて半身を僅かに引いていた。
裕香達の前で立ち止まり、膝に手を突いて弾んだ息を整える鈴森涼二。
「どうしたの、何か私に用?」
肩を上下させる涼二へ首を傾げて尋ねる裕香。その一方で、身を引いたいおりの顔にも目をやる。
「……ああ、昨日のことで、ちょっと」
涼二は深呼吸交じりに用件を切り出し、裕香の斜め後ろに居るいおりを一瞥する。そして軽く片方の眉を持ち上げる。
「えっと、確か隣のクラスの奴だっけ? えっと、その悪いんだけど……」
裕香といおりを交互に見やり、探り探りに言葉を出す涼二。それを見ていおりは軽く息を吐き、踵を返す。
「では、私もここで別れよう」
「え、いおりさん?」
戸惑いがちに声を上げる裕香に、いおりは腰の上から振り返る。
「またの機会にな」
「う、うん。また、ね」
いおりはそう言って、どこか寂しげな笑みを残して歩きだす。裕香はその背中と涼二を見比べながら、一時の別れの挨拶を送った。
離れていく友達の後ろ姿を見送る裕香。
その隣に、涼二が頬を掻きながら進み出る。
「悪いこと、しちまったかな」
バツが悪そうに呟く涼二。裕香はその横顔を見やり口を開く。
「それで、私に用って?」
すると涼二は、頬を掻く手を速めてレンズ奥の目を泳がせる。
「あ、ここで立ち止まってっていうのもなんだし、歩きながら、でいいか?」
「? うん」
強張った涼二の調子に、裕香は再び首を傾げながらも了解の返事をする。
「じゃあ、行こう」
裕香の返事に、涼二は安堵の息を吐いて歩きだす。それに続いて、裕香もその右隣へ小走りに滑り込む。
涼二が本題を切り出すのを待ち、黙って歩を進める裕香。無言のままいくつもの家の前を過ぎり、電信柱の脇をすり抜ける。
「昨日は、ありがとうな」
「え?」
不意に口を開いた涼二に、裕香は左隣へ首を巡らせる。すると涼二は照れたような頬笑みを返してくる。
「昨日、倒れてた俺を家まで運んでくれたんだろ?」
確認する様な涼二の問いに、裕香は首を縦に振って答える。
「なんでそんなことになってたのかは覚えてないんだけどさ。でも、ありがとう。吹上」
「う、ううん。気にしないで。偶然見かけて放っておけなかっただけなんだから」
『愛さんの時みたいに、融合していた時のことを覚えてないの? 人やその時の状態によって違うのかな』
裕香は内心で愛の時との違いを分析しながら、掌と首を左右に振る。それに涼二は頬を掻き、眼鏡の奥で目を細める。
「気にしないってわけにはいかないって。それで礼になるか分からないけど、今度の連休に遊園地、アイアンマウンテンにいかないか?」
「いやそんな。別にお礼をしてもらえる様な事なんてしてないのに」
謙遜し、遠慮する裕香。それに涼二は慌てて続きの言葉を打ち出す。
「そんな重く考えないでさ、俺の気持ちなんだ」
そう言いながら、裕香の正面に回り込む涼二。それに裕香は返事を詰まらせる。
「……裕、ねえ……?」
「え?」
不意に響く聞き覚えのある声。裕香がその声を辿って顔を向けると、歩道の真ん中でランドセルを背に呆然と立ちつくす孝志郎と目が合う。
「孝くん」
孝志郎は裕香と涼二から視線を外さず、一歩、二歩と後ずさる。その目元は震え、何か言おうと開きかけた唇を噛み結ぶ。そして無言のまま、裕香たちに背を向けて走り出す。
「孝くんッ!?」
呼びとめる裕香の声を振り払う様に、孝志郎の背中は離れていく。その背中に、裕香は目の前に壁を張られたかの様に追いかけることが出来なかった。