その29:牢屋にて
長かった夜が明ける。だが、当然のごとく受験者と特殊部隊の隊員との最終試験は実施されなかった。
ハンターとシェラを除いたメンバーは、全員牢屋の中へと入っている。そして二人は特殊部隊への編入を望んでいなかった。
その頃、牢屋の中でレティシアは一人、冷たい石畳に腰を下ろしていた。視界には壁と鉄格子ぐらいしかなく、時間が止まっているかのように、その光景は不変だった。
ぼんやりと床を見つめながら、頭の中を巡る思考。それは今後の自分がどうなるかではなかった。
集落に残された娘や、同胞の子息……彼らの運命は、もはや風前の灯だ。『赤斑病』を治すための資金はなく、シングマス王の暗殺にも失敗した。
全ては慢心が原因だった。会食場を制圧した時点で、シングマス王の首をはねていれば、何の問題もなかったのだ。
苦しみながら死んでいく子どもたち――それが、レティシアの脳裏を征服している思考の正体だった。皆が皆、レティシアに罵詈雑言を並べながら、次々に倒れていく。
その中には、レティシアの愛娘もいた。
「熱いよ、痛いよ、お母さん……」
「くっ!」
聞こえてくる愛娘の声を振り切るよう、耳を塞いで首を左右に振る。何度も、何度も。
それでも声は消えず、赤い斑点が体中に広がっている愛娘が、一歩、また一歩とレティシアの元へと近づいてくる。
「お母さん、助けて……」
「うああああああ!」
悲鳴を上げつつ、拳を何度も壁へと叩きつける。
しばらくして、ようやくレティシアは我に返った。傷ついた右の拳が、思い出したかのように断続的な痛みを発し始める。
いつの間にか目から流れていた涙を、振り切るように拭う。すると、遠くから足音が聞こえてきた。交互に聞こえる二種類の足音――どうやら二人いるらしい。
その足音は少しずつレティシアの牢屋に近づいてくると、目の前で動きを止めた。
「気分はどうだ?」
レティシアが顔を上げると、そこにはシングマス五世がいた。その横には、救護班で仕事をしていた女性――マスカーレイドのアクサが、にっこりと微笑んでいる。
「最悪だ。貴様の顔など見たくなかった」
「そう邪険にしないでくれ、レティシア。いいお知らせがあるんだ」
「いいお知らせだと?」
「すべては君の仲間のパンドラから聞いたよ。君は自分の故郷のため、はるばるディヴァイナルまでやってきた。わたしを殺せば、故郷を赤斑病から開放してやれる……そう言われてね」
そこまで言うと、アクサをレティシアの前へと促す。アクサはシングマス五世の一歩前へと進み、続きを語り始めた。
「赤斑病は、確かに不治の病でした。ですが今ではもう、完治させるための特効薬が開発されています。赤斑病で死ぬ患者はいないと言っても、過言ではありません」
「それは金持ちの言い分だ。貴様らのような王族や医者などのな! わたしたちのように夫を亡くして、生きていくのがやっとの人間に、一人につき百万バッツなど準備できるわけがないだろう!」
顔を赤らめたレティシアが、食いつくように反論する。もし鉄格子が間になかったら、間違いなくアクサに掴みかかっていただろう。
だが、アクサは脅えるようす一つ見せず、小さく首を振った。
「赤斑病の特効薬に、百万バッツなんて大金を請求する医者はいません」
「な、なんだと?」
「もしわたしが赤斑病患者の治療を引き受けたなら、千バッツも請求すればもらいすぎといってもいいぐらいです」
唖然としてアクサの顔を見つめるレティシアに、さらに続ける。
「そもそも赤斑病の病原菌はすでに死滅したといわれています。その証拠に、ここ数十年、赤斑病の患者が出たという記録は残っていないのです。わたしたち医者からすれば、赤斑病に感染した患者がいる時点で、すでに異質なんですよ」
「そ、そんなこと、あの医者は一言も言わなかったぞ……」
「ええ、ですからその医者を名乗った男は、サンプルとしてどこかに保管されていた赤斑病の病原菌を手に入れ、レティシアさんの町へとばら撒いたと考えられます」
「な、何のために……」
「君たちを利用するためさ」
黙ってアクサの話を聞いていたシングマス五世が、すかさず口を挟む。
「わたしが死んだほうが、都合のいい人間が王都の中にいるらしい。残念ながらそれは事実のようだ。そしてわたしを暗殺するための人材を探していたところ、君たちのような集団の存在を知ったんだ。夫を失い、王都に対して不満を抱えていたものもいただろう。その悔恨と入隊試験を利用して、わたしを亡き者にしようとしたのだ」
一段と目つきをきつくして、レティシアが石畳にコブシを叩きつける。
「わたしたちは、利用されていたのか……」
「簡単に言えば、そういうことだ」
噛んでいた唇から、赤い液体が口元からこぼれ落ちる。利用された悔しさとふがいない自分に、苛立ちが隠せなかった。
「それではわたしは先に、失礼させていただきます」
一通り説明を終えて、アクサが告げる。シングマス五世にも異論はなさそうだった。
「ああ、明日には出発だ。頼んだぞ」
「はい、必ずや吉報をお届けします」
シングマス五世に軽く会釈すると、アクサは来た道を戻っていく。付近にはシングマス五世とレティシアだけが残されていた。
「どこへ……」
小声でぼやいたのを、シングマス五世は聞き逃さなかった。表情を緩めつつ、レティシアの疑問に答える。
「聞いただろ? 赤斑病は治らない病気じゃないんだ」
「ま、まさか!」
「費用はディヴァイナルで負担させてもらう。国民の安全を守るのも、王の仕事の一つだ。無論、君たちの村への援助もさせてもらう。困ったときはいつでも言ってくれ」
「すまない、本当に……ありがとう」
頭を下げるレティシアの前にしゃがみこみ、優しく微笑みかける。自分を殺そうとしていた人を目の前にして、出来る表情ではない。
シングマス王の器量に、レティシアが気づき始めた瞬間だった。
「それはさておき、一つ提案があるんだが……」
「提案? ですか?」
もうレティシアの目からは、憎しみが消えうせていた。それは喋る言葉一つをとっても理解できる。
「このまま牢屋に入れられているのも、本意ではあるまい? 今日開催予定だった本試験は、明日に延期となっている」
「わたし達に参加しろと、おっしゃるのですか?」
「予選を抜けた者には、その権利がある。もちろん、本気で特殊部隊への入隊を考えているなら――だが。任務以外では自分たちの村で過ごせる上、給料も悪くない。こちらとしても腕のたつ隊員が増えるのを望んでいるからこそ、毎年試験を行っているんだ。両者にとって悪い話ではないと思うぞ?」
「しかし、わたしは一度あなたを殺そうと……」
「城の中で起こったことは、城の中の人間しか知らん。そして今日の試験も、わたしの急病を名目とした延期となっている。あとは君たちの決断――それだけだ」
「……もったいないお言葉でございます」
頭を下げて、レティシアは涙を流した。ただただ、むせび泣いた。一度は恨んだ慢心に、少なからず感謝していた。
そして、一度は殺そうとした王のために、命を賭けることを誓った瞬間だった。
その後の試験で、フィメイル=レジスタンスのメンバー十二人のうち、レティシアを含めた八人が見事に入隊を果たした。彼女らはその後、長く特殊部隊として、王都に勤めることになる。
その裏側で、レッシュの部下四人全員が、レジスタンスの面々にやられたという事実も隠されていた。これで少なくとも三年は、レッシュの隊長生活も続くだろう。
それをレッシュが嘆いていたのは、言うまでもない。