魔法使いとダンス
光も届かない深い森の奥に、この世の誰よりも醜い魔女が住んでいるという。黒マントを身に纏い、その容姿は鉤鼻の老婆。
魔女を訪ねた者は誰一人として戻ってくることはなく、彼等は儀式の生贄とされている。
命が惜しければ森へと近づいてはいけない、それは昔から言い伝えられている話だった。
地面へと落ちている木々を踏みしめながら、べリルは鳶色の瞳に決意を秘めてひたすらに前を向きながら歩いていた。
年の頃は十代半ば。卵型の柔らかな輪郭線を描く頬。亜麻色の髪はカールされ、肩に垂らされていた。その上には白い帽子を被っている。身に纏うのは年頃の少女らしく明るいクリーム色を基調としたドレス。袖口や襟元にはレースやゴーズのフリルがあしらわれ、どう見てもこのような森を歩く格好ではなかった。現にべリルは歩き辛いために自分のドレスの裾を持ち上げ、はしたなくも足をさらけ出して、道を遮る雑草をヒールを履いた足で踏みしめた。淑女としてはあるまじき姿だが、目的の場所以外一切目に入っていない彼女は気にも留めていなかった。
「聞いた話だと、ここら辺にあるらしいけれど」
辺りを見回したべリルは、それらしき建物を見つけ瞳を輝かせた。
森が取り囲む中、その古城は佇んでいた。
蔦の覆い茂る大きな鉄柵の門の向こうに広がるのは、手入れを放置された荒れ果てた庭。入ることを戸惑ってしまいそうなそこに、べリルは恐る恐る足を踏み入れた。歩きながらも辺りを見渡して見つけた噴水は、数年間使われていないのだろうコケが付着していた。真っ直ぐに向かった城には、壁一面に蔦が覆い茂っている。元は綺麗な色彩の壁だったのだろうが、今では蔦が覆い茂り壁の元の色など分かりはしない。
「ごめんください……誰もいないのかしら」
城の中で唯一蔦のない扉の前へと立ったべリルは、何度声を掛けようとも出てこない城の住人に業を煮やし、一瞬戸惑ってから、目を瞑り次の瞬間には勢いよく扉を開け放った。
こわごわと目を開けながら城の中を見渡したべリルだが、中は外とは違いホールの天井に吊り下がっている品格のあるシャンデリアや白石の壁、格調高く贅沢な雰囲気であったことに安堵の息を零した。
「な、中までおどろおどろしいというわけではないのね」
彼女としては城の中は一切掃除のされていない蜘蛛の巣の張り巡らされた場所を想像していたため、中の様子が良い意味で予想外だったことに、ふと今まで緊張していた気が緩む。
そのまま城の中へと一歩足を踏み入れたべリルは、その瞬間、彼女の視界が歪んだ。べリルの錯覚などではなく、文字通りに。地面は天へ、天は地へ。平衡感覚がなくなり、次第に辺りが時計のように曲線を描き始め、彼女は目を丸くする。
「へ、あ、きゃっ……!」
驚きで目を見開いたべリルは、次の言葉を発することなくその姿は掻き消えた。
彼女が驚きのあまり落とした白い帽子だけが静かに落ち、その場にいつまでも残った。
人の声が聞こえ、緩やかにべリルの意識は浮上していく。何か温かいものに包まれている気がするが、日が当たっているのだろう。
もう朝になってしまったのだろうか。だがべリルを起こす役目の義妹の声にしては随分と野太い。風邪でもひいたのだろうか、それなら医師から薬を処方してもらわなければいけない。きっとべリルの母親と姉は義妹の変化など気にも留めないだろうし、義妹は自分の体調の悪さなど隠そうとするだろうから、彼女がもらってこなければ誰も医師の所へとなど行かない。だがまずはこれだけは彼女は言っておきたかった。
「シンデレラ、あともう少し寝かせて」
「……ほう。俺を灰かぶりと呼ぶとは豪胆なお嬢様なことで」
耳元に、唇に蜜を乗せたような愉悦をもって囁かれる。鈴の鳴るような声の義妹とは性別さえ違う声に、べリルの意識は覚醒した。
目を開ければ、そこには漆黒の布地が一面に見えた。少なくともベリルのベッドは黒ではなく白である。ならば、ここは見知らぬ誰かのベッドの上か。
そういえば先程意識を失ったような気がするので、見つけた人が助けてくれたのだろう。しかしあのような辺境な場所に丁度人が通りかかるものなのか、通りかかっても噂の魔女のように偏屈な人物に違いない。いや、善意で人を助けてくれた人になんて言いようなのか。それにしても見知らぬ人のベッドで堂々と寝こけているとは、淑女としてあるまじき姿なのではないか。いやそれよりまずはベッドを借りたお礼を申し上げるのが人としての礼儀であろう。しかしそれでもこのベッドはなんだか固いし、温かい気がするしで少々気味が悪い。そこまで頭を働かせた彼女は、ベッドを貸してくれたお礼を告げようと先程声のした方、すなわち顔を前へと向けた。
彼女の視界に入ったのは、夜の空のような色。星はなかったが、代わりにその黒の中には、姉には届かず、義理の妹なんて比べるのもおこがましい、平均並みの美貌だと彼女自身が自覚して毎日見ている顔が、今は呆気にとられた表情で映っていた。夜の空の上を縁取る長い睫が僅かに振るえ、その側には白皙の面、通った鼻筋はベリルとくっついてしまいそうな程近くにあった。
そう、ベリルは今まで男の上に寝そべっていたのだ。ベッドと思っていたのは男だった。状況を把握した彼女の頬が一瞬にして赤く染まり、次の瞬間には悲鳴を上げた。
「き、きゃー!」
耳元で直接盛大な悲鳴を聞かされた男は、嫌そうに顔を顰めた。
「煩い」
男の手で口を押さえられたベリルは、鳶色の目を大きく見開いて瞬かせる。瞬かせて、次の瞬間には泣きそうに潤みだした。
口以上に雄弁に彼女の感情を語ってくるそれに、男は辟易したように溜息をつくような声で告げる。
「いいか、今から手を外すが絶対に声を荒げるな。出したら二度と声を出せないようにしてやる」
予め宣言をしてから、男は手を離した。
手を口から外されたベリルは、即座に男から離れた。
安堵の息をついてから、彼女は目の前の男を無遠慮に観察し始めた。
夜空を宿した瞳は冷え冷えとした光を放ち、その間にある鼻筋は通っていた。肉薄の唇。座っているからそうは分からないが、身長は高い部類に入るだろう。身を包むのは、髪と同じ漆黒の衣服。目の前の男を一言で表すのならば、白皙の美男子が一番的確な表現だろう。
ベリルが離れたからか、男は彼女を一瞥すると立ち上がりそのまま部屋の奥へと歩いていってしまう。
置いていかれた形になったベリルがしばらくの間呆然とした後、ふと我に返ると立ち上がり、男を追いかけ始めた。
「あ、あの! 助けてくださってありがとうございます」
急いで歩けば、男には追いついたのだが、いかんせん相手にはベリルの言葉を聞こうとする意思が見えなかった。それでもベリルは男の隣で歩きながら声を掛け続ける。
「私はベリル。貴方の名前……」
けれどそれも、ベリルの目の前の出来事に声が途中で掻き消えてしまう。
男とベリルが歩く廊下は暗闇のはずだった。だが男が一歩を踏み出すたびに、廊下の壁に掛かっている近くのランプから光が溢れはじめ、廊下を淡く照らしはじめたのだ。
「ま、魔法?」
立ち止まった驚いたベリルが目を見開き男に問いかけるが、隣にいたはずの男は既にベリルを置いて先へと進んでいた。
再度の仕打ちに負けじとベリルも高らかな靴音が響き渡らせて男の隣へと駆け寄っていく。
「貴方は魔法使いなの?」
ベリルの高らかな声に、いい加減聞かない振りをするのにも限界がきたのか、男が嫌そうに言葉を返す。
「ああ、そうだ」
「だったらお願いがあるわ。惚れ薬を作って欲しいの」
ベリルの言葉に、男は嫌悪も露に言葉を放つ。
「人の心を操る魔法など断る」
「作れないってわけじゃないのよね。ねえお願い、私の出来る限りのことだったらなんでもするわ」
ベリルの言葉に、あからさまに馬鹿にした表情で男がようやく振り返る。
「自分の魅力で振り向かせられない相手を薬の力でなどと馬鹿らしい」
それにはベリルとしても反論が出来ない。眉根を寄せて、瞳を伏せる。
「分かってるわよ……だけどあの子、王子様を捕まえられなかったら狸親父のお嫁にされちゃうのよ」
それだけは阻止しないといけない、というベリルと、ベリル自身が使うものだと思っていたからこそ辛辣な言葉を投げかけた男との間に沈黙が訪れる。
しばらくの間、互いの言葉をもう一度よく考えた二人は、思い思いの言葉を放った。
「ちょっと待って、私は使わないわよ」
「お前が使うんじゃないのか」
それから、ベリルは目の前の魔法使いに何か誤解をされていることに気付き、始めから話し始めた。
ベリルの母親は、数年前に裕福な家庭の男性と再婚をした。
だが彼女の母親は娘から見てもお世辞にも性格のいい人というわけではなかった。特に一番辛く当たったのは夫と夫の前妻の一人娘に当たる継娘に対してで、女中のする仕事である皿洗いや部屋の掃除までさせていた。部屋は屋根裏の蜘蛛の巣の張り巡らされた部屋に変えさせられ、それでも継娘はじっと耐え続けた。
父親はといえば母親の言葉に丸め込まされ、同じように実の娘に小言を言う始末。
それでも継娘はじっと耐え続けた。父親が亡くなり母親の仕打ちが一層酷くなろうとも、それでも彼女は何も言わなかった。
そうしているうちに、この国の王子が舞踏会を開くという知らせが家にもやってくることになる。そこから何を思ったのか、母親は継娘を貴族の家へと嫁がせることにしたと言い出した。
「相手は貴族だけど、でも年は親子ほどにも離れているし、何より相手にはもうシンデレラと同じくらいの年頃の子供がいるのよ! それであの子を嫁にだなんておかしいわ」
貴族社会としては当然のことだとしても、ベリル個人の感情としては納得など出来ようはずもなかった。
それで話を締めくくったベリルは、だから、と言葉を繋げる。
「それなら、あの貴族よりもっと位の上の、王族の方の妃になれば貴族も黙るでしょうし、シンデレラも幸せになれると思うの。なにより王子様とは年も近いし、ちょうど舞踏会を開くから何が何でもここでシンデレラに一目惚れをしてもらわないといけないの。だからお願い、惚れ薬を作ってちょうだい!」
必死に頼み込むベリルに、男は溜息を零した。
これは了承してくれるか、と期待に胸を振るわせたベリルだが、それは甘かったことに気付くのはすぐだった。
「断る。何があっても人の心を操る魔法など作らん。それにお前もいい加減ここから出て行け」
あっさりと断った魔法使いが手を振れば、ベリルの体はふわりと持ち上がった。慌て始めた彼女に、魔法使いが再度手を振るえば、次の瞬間には彼女はこの場から掻き消えた。
残された魔法使いは、面倒くさそうにベリルのいた場所を見つめ、それから今までいた廊下を歩いていった。
ベリルは気が付けば、魔法使いに出会う前までいた扉の前にいた。
目の前に落ちていた帽子を拾い上げると、彼女は瞳に決意の色を浮かべて宣言する。
「私がこれで引き下がるなんて思ったら大間違いよ! 見てなさい魔法使い、絶対に作るって言わせてみせるんだから!」
その宣言の通りに、ベリルは毎日魔法使いのいる城へと赴いて、惚れ薬を作ってくれるよう頼み込んだ。
最初は即座に返していた魔法使いだが、それでも尚諦めずやってくる少女に根負けをしたのか、段々と日数が経つにつれ、そのまま彼女を放っておくようになった。
これはいい傾向とベリルは喜び、更にしつこくも魔法使いに薬を作ってくれるよう頼み始めることになったのは魔法使いの誤算であった。
魔法使いは意識を集中させ、左手の掌を上に向けた。そこから眩い光が溢れはじめる。
意識を研ぎ澄ませ、それを、魔法使いは呼びよせた。
世界が、謡う。
それは、甘く蕩けるような。
たくさんの声無き声が魔法使いを祝福し、また笑いさざめく。
そして、声は。聞こえた時と同じように唐突に終わりを告げた。
変わりとしてか、部屋の中、風が緩やかにベリルの頬を撫でる。
ベリルが魔法使いを見れば、彼の左手の掌の上、そこに見えただろう。淡い緑色を帯びた光が、ふうわりと漂っているところを。光は段々と中央へと収まってゆき、小さな人へと形作ってゆく。そして、光が収まる頃には、肌の色も髪の色瞳も全てが緑色の、翼を生やした小さな小さな人が、魔法使いの掌の上にいた。
声無き笑い声が、空気を震わせベリルの耳を打つ。
「まあ凄い! これが魔法なのね」
「……お前、まだいたのか」
「ええ、いたわよ」
魔法使いの呆れた声も気にせず、ベリルは快活に笑った。笑って、魔法使いが呼び出した妖精に恐る恐る近寄り、「可愛い」と微笑んだ。
彼女はよく笑う。魔法使いに何を言われても笑って返す。それは彼女の尊い気質で、だからこそここで初めて、魔法使いはそんな彼女が心を傾ける義妹について知りたくなった。
「何故お前は、妹を王子になど嫁がせたいんだ」
聞けば、母親や姉はシンデレラに辛く当たっていると聞く。ならば普通ならばベリルも同じように辛く当たるものではないのだろうか。魔法使いの疑問に、ベリルは妖精に指で触れながら視線を彷徨わせる。
「そうね、最初はお母様やお姉様と一緒になって意地悪をたくさんしたわ。でもあの子の心がとても綺麗だからかしら、あの子ね絶対に悪口を言わないの。お母様達に何を言われても笑っていて、自分の愚かさに気付いたのよ……だから絶対に、私はあの子を幸せにしなければいけないと思うの」
「お前の妹とは醜女なのか」
「そんなわけないじゃない、とても可愛いわよ……それこそ、お姉様や私なんて到底及ばないくらい」
ここで初めて苦笑を浮かべたベリルに、魔法使いは僅かに首を傾げる。
「お前は綺麗だろう」
「……え?」
魔法使いの言葉が信じられず瞳を瞬かせる彼女に、魔法使いは再度告げる。
「お前は綺麗だ」
その言葉に、ベリルは笑うに笑えないといった困った顔で笑った。
「ありがとう。でもそんな世辞を言わなくても自分の顔くらい分かっているつもりよ」
姉には及ばず、シンデレラになど遠く及びもしない、美しくもないごく普通の自分の顔。
母親がシンデレラを苛めるのは、自分と姉がシンデレラ程美しくないからだということをベリルは知っている。顔貌は元より、心の美しささえも彼女に遠く及ばないからだ。
ベリルの明らかに魔法使いの言葉を信じていない様子に、彼は彼女の手を取りどこかへと歩き出した。
慌てたベリルがどこへ行くのか聞いても、魔法使いは一切答えなかった。しばらく歩いた後、彼等は大きなホールのある部屋へとたどり着いた。
今まで見たことのない新しい部屋の存在にベリルが目を輝かせていると、魔法使いは彼女の手を離し、一歩下がった。
そうして、彼女へとてのひらを向け、静かに夜空の瞳を閉じる。
「どうしたの?」
ベリルが戸惑っている間にも、魔法使いのてのひらから先程と同じように眩い光が溢れはじめた。
魔法を使おうとしていることは分かったが、一体何に使うのかと彼女がいぶかしんでいる間にも、光が辺りを照らし出し始め、ベリルまでをも包み込み始めた。
眩しさに彼女が目を閉じ、開けた頃には彼女の装いは何時もと変わっていた。
白のドレスは、ローズのドレスへ。肩に垂らされていた亜麻色の髪は緩く纏められ、細やかな細工の施された髪飾りが、彼女が動くたびに涼やかな音を奏でた。化粧はどちらかといえば薄めの、それでも彼女の魅力を十分に引き立てる装いへそれぞれ変わっていた。そしてそれはベリルの魅力を十分に引き出し、余すことなく魅せていた。
驚くベリルに、魔法使いは魔法で出したのか大きな姿見で示しながら、当然のことのように告げた。
「だからお前は綺麗だと言っただろう。普段の装いが地味すぎたから正確な評価を出せなかったんだ」
白やクリーム色などの地味な色合いよりも、どちらかといえば派手な色合いのものの方が彼女自身の魅力を引き出せる。告げる魔法使いに、ベリルは戸惑ったような、嬉しいような泣きそうな顔で微笑った。そしてそれは、彼女という人間が持つ美しさを凝縮して現されたかのような微笑みだった。
「ありがとう。貴方は最高の魔法使いね」
「……いや」
僅かに視線を逸らす魔法使いに、彼女は笑いかける。
「ねえ、魔法使いさん。お願いがあるの」
「なんだ」
「この魔法を、あの子にもかけてあげてくれる? それなら人の心を薬を使って動かすことはないわよね」
その言葉に、魔法使いは「わかった」とベリルの言葉で初めて頷いたのだった。
王族の開く舞踏会の開催される日、ベリルは挙動不審な程に慌てていた。
「なあに? 大丈夫よ、王子様は貴方のことなんて見ないから」
姉の皮肉すら聞こえないようで、彼女は逸る心臓を落ち着かせようと胸に手を置いた。
深呼吸をする義姉の様子を見たシンデレラが、深緑を宿し方のような緑の瞳で不思議そうに問いかける。相変わらず、灰を被って白に近い金髪が煤汚れようとも美しい娘であった。
「お姉様、本当にどうされたの?」
聞いてから、彼女はふふっと綺麗な微笑を浮かべる。
「お姉様の大切な方に本日お会いされるのかしら」
「な、なな……!? たいせつな人だなんて、私にはいないわよ!」
否定するベリルに、シンデレラは不思議そうに小首を傾げた。
「そうなのですか。お姉様が最近とても綺麗になられたから、わたくし、お姉様に好い人でも出来たのかと思っていましたのに」
唐突なシンデレラの言葉に、ベリルが慌てたように頬を真っ赤に染め上げた。口を開けては何も言えず、鯉のように開けては閉じを繰り返す彼女に助けが入ったのは、先程まで彼女を皮肉っていた姉からだった。
「なに馬鹿なことを言っているのよ、ベリルに好い人が出来るわけがないじゃない」
「そ、そうよシンデレラ。私に好い人なんて……」
その瞬間、ベリルの脳裏に浮かんだのはここ最近毎日のように会っていた魔法使いの姿だった。皮肉気に笑う彼の姿が「馬鹿か」と言いながら出てくる。
首を左右に振りながら、ベリルは言葉を続けた。
「……私に好い人なんていないわ」
そう、好い人なんていないはずなのに、どうして魔法使いの姿が消えないのだろうか。ベリルは困ったように笑った。
夜の闇に、明かりが仄かに浮かび上がる。城下町も普段とは違った姿を見せ、今日は一段と喜びに満ちていた。奥にある城は一際豪華に光の装飾をまとっている。
今日は特別な日なのだと、人々が楽しげにざわめく。
王子から舞踏会の招待を受けた人々がこの城には集まっていた。巨大なホールをシャンデリアが照らし、楽師が優美な曲を奏でる。色とりどりの食べ物が並び、人々の目を楽しませていた。着飾った少女達は口元に扇子をあて、可愛らしくもおしゃべりに興じる。
その中、一人壁の花となり外だけを見つめている少女がいた。ベリルである。
今日の彼女の装いは、ガーネットのドレスに同色の靴、亜麻色の髪は緩くウェーブがかかっていた。白い肌に花びらのような色の唇。彼女の魅力を存分に引き出したそれは、彼女を十分に魅力的に見せていた。
それでも彼女が憂いの表情を隠さない理由は、たった一つである。
「……魔法使い、ちゃんとやっているかしら」
ベリルの魅力ですらも気付けたあの男ならば、シンデレラの魅力などすぐ引き出せてしまうだろう。そこの心配はしていない。だがそれでも心配なのは、魔法使いがシンデレラを見て惚れないかどうかである。気立てもよく見目も美しい娘ならば、あの朴念仁のような魔法使いだってきっと一目で惚れてしまうに違いない。
そこまで考えてから、ベリルは胸を押さえた。苦しい。魔法使いとシンデレラのことを考えると、最近心臓が鷲掴みをされてしまったような息苦しさを感じる。
泣きそうになってしまい、彼女は瞳を伏せた。考えてはいけないと、ひたすらに彼女自身へと念じ続ける。考えてはいけない、あの青年のことなど。彼女が思うのは義妹のことだけでいい。それでいい。
「こんばんは、お嬢さん。隣いいですか?」
そこに唐突に声が掛けられて、ベリルは振り返った。振り返り、そして息を呑む。
「で、殿下」
戸惑った声に、深い海のような青の双眸を煌めかせ、この国の王子は微笑った。
「隣いいですか?」
再度尋ねられたそれに、ベリルは慌てて頷いた。
あまりのことに心臓が波打っている。姉や他の少女たちが、どうして貴方がといった目で見てくるが、ベリルだってどうしてこんな端にいた自身へと王子が来たのか誰よりも知りたい。だがそれを表に出すことなく、彼女はスカートの端を持ってお辞儀をする。
「はい」
言葉少なめなベリルに対し、王子は柔らかな笑みを浮かべながら彼女の隣に立った。
何を考えているのか悟らせない王子に対し、ベリルはこわごわと彼を見上げる。
「懸命に外を見て、何か面白いものでもあったのですか」
ベリルは今度こそ心臓が止まる勢いで跳ね上がった。
「……いえ、なにもありませんわ」
「そうですか。なにか恋しいものでも見るかのような顔で外を見られていたものですから」
失礼いたしました、そう呟く王子の言葉はベリルの耳を素通りした。彼女の中では、先程の王子の言葉だけが頭の中を繰り返し流れていく。
「……私、そんな顔で外を見ていました?」
ベリルの王子の言葉を遮った疑問に、王子は気分を害した様子もなく頷く。
「ええ。恋しい人を見ているかのようでした」
王子の言葉に、ベリルは気付かないうちから蓋をしていた感情が溢れ出てくるのを感じた。
胸に手を置き、目を閉じる。
恋とか、愛とか。最初は、そんなものではなかった。
けれど、ベリルは気付いてしまった。
ベリルの内側に入ってこれる人は少なくて。家族ぐらいしか彼女の世界にはいなかった。そうであった、はずなのに。
最初は敵意しかなかった、その声が。次第に興味深そうな感情や少しの好意を伝えてきて。砂に染み込んでいく水のように、じわりじわりとゆっくり、でも確実にベリルの内側に入り込んできた。段々とその存在を主張していった、警戒心なんて関係なしに。気が付いたときには、既に男はベリルの中で大きなものになっていた。
ぱっちりと目を開けた。見えるのは、何を考えているのか口元を緩ませている王子。
彼から視線を逸らし、ベリルは空を仰ぎ見る。
稀有な煌きを見せる双眸を眇め、口元を僅かに歪めた。
「本当に、今更ね」
泣きそうになって、ベリルは笑う。
それまでベリルの仕草を楽しげに見ていた王子が、次の瞬間、目を見開き息を呑んだ。
稀有な煌きを見せる瞳を揺らめかせ、ベリルは微笑んでいた。別段それは可笑しいことではない。彼女は、先程からずっと笑みを湛えていたのだから。
何度か瞳を瞬かせ、目の前のことが本当のことだと確認する。
少女は、今、明らかに「女」だった。性別の話ではなく、少女の衣を脱ぎ捨てて、女性としてこの少女は花開こうとしていた。
瞳はよく見れば潤んでいて誘っているようで、仕草の一つ一つが蠱惑的だった。こんなにも艶やかに微笑む少女を、世の中の男どもが放っておかないだろう。
少女は唇の端を蠱惑的な仕草で持ち上げ、静かに言った。
「……好きだったの。本当に好きだったの、あの人のことが」
けれどそれも今更だ。ベリルはそうも思う。
魔法使いはもうシンデレラに会ってしまっただろう。あの娘に会ってあの娘の魅力を知った男が、彼女に振り向いてくれることなどない。彼女が慕う相手は皆シンデレラの方へと向いて彼女など見向きもしなかった。これまでもずっとそうだった。きっとそれはこれからも変わらない。
だからといってシンデレラに会わせないことも出来ない。シンデレラのために彼女は彼に会って、そして恋に落ちたのだから。
泣きそうになった彼女は、だからこそ背後にある長身の影に気付かなかった。そして、王子が笑うそのわけも。
「誰が好きだというんだ」
憮然とした声が聞こえ、ベリルはまさかという思いで振り返った。
最近ずっと聞いていた声。馬鹿にした声、呆れた声、不思議そうな声、他にたくさんの声を聞いた。今ではどんなに声が枯れようが間違えたくないと願う、彼女の魔法使いの声。
振り返った先には、声と同じように秀麗な顔を憮然とした顔に変えていた魔法使いがいた。夜の空のような瞳、烏の濡れ羽色の髪、どれもこれも彼女が思い浮かべた彼女の魔法使いに姿かたちそっくりだった。
「……な、なんで」
ベリルの驚いた顔に、魔法使いは憮然とした顔のままで答える。
「お前の妹を連れてきた。これで『お願い』は終わりだろう」
「ええ、そうよ。でもだからどうしてここに……」
魔法使いは、彼女が幾度も見た呆れた表情を浮かべる。どうしてこの目の前の女は分からないのか、心底分からないといった表情で。
「お前は契約をしただろう。これを叶えたら、なんでも言うことを聞くと」
「でもそれは、惚れ薬を作ったらよね……まさか、え、この願いは違うわよね」
ベリルにしてみれば、惚れ薬を作ってくれたらなんでもするという約束のつもりだった。だが魔法使いには違ったのだろうか。
「契約は契約だ。魔法使いとの約束に、一度口に出した以上撤回は出来ない」
彼女の言葉に、魔法使いは無言で彼女に一歩近づく。確かな熱のようなものが、感情を雄弁に伝えてくる。
ベリルは、一歩後ずさろうとして、背後が窓だったことにようやく頭が回った。
「……だ、だって」
言葉が震える。ベリルの瞳が揺れた。目の前のことが信じられなかった。
手首を掴まれて、ベリルは震えた。
「だって私、綺麗じゃないもの。みんな、あの子のところに行くのよ……どうして、行かないの?」
「お前は以前の俺の言葉を聞いていなかったのか」
呆れたように呟く魔法使いがいつものようで、ベリルは子供のように頼りない顔で見上げた。
「ベリル」
呟かれた言葉に、彼女は驚いた表情で魔法使いを見つめた。今までどんなに願っても呼んだこどのなかった彼女の名前をここで初めて口に出す彼がずるいと顔を歪める。
「ベリル、お前は綺麗だ。その姿ありようも、自分の弱さを見据えられる強さも、綺麗だと俺は思う」
抱き寄せられ、ベリルの耳元で魔法使いは祈るような声で告げる。
「だから俺のものになれ、ベリル」
そして告げられた言葉に、彼女は泣きそうになりながらも「はい」と答えた。
「私も、私は、貴方が好きです」
人々の視線の中、彼女は幸せそうに笑ってぬくもりを抱きしめた。
彼と彼女、二人を一番近くで見届けた王子が、さて、と広間へと戻ろうとすれば、そこには見たことのない美しい姫君がいた。
姫君はこちらを見つめていて、王子は熱心さに心打たれる。実際のところ、見たことのない姫君は彼女の義姉と彼女をここまで連れてきてくれた魔法使いを見ていたのだが、王子にとっては知らなくていいこと。
手を出した王子に、姫君ははにかみながらも美しい微笑を見せて、王子の手に自分の手を乗せた。
彼と彼女がどうしたのか。それはまた、別のお話である。
後半は急いで書いたので端折ってしまった部分もあるのですが、完結させられて満足です。
お付き合いくださり、ありがとうございました。