第9話 脱走
(……それで、いつまで私を抱えるつもりかしら)
「数分もすれば一旦下ろすけど、もしかして酔ったか?」
(不思議なくらい揺れいから平気だけど……)
「ならもう少し我慢してくれ」
炎が抉り抜いた煙突を走り抜け、その足で即座に移動を開始していた。突然の地震と魔法による噴火は、街に一時的なパニックを起こしている。見つかるのを嫌ったエイデンの動きは迅速だった。
外套を深く被り視界が狭まった中でも、その速度はかなりのものだった。おかげで裏路地を走り抜けるのに邪魔をされることはなかった。
エイデンはそのままの勢いで街からの脱出を試み、そしてそれは成功していた。入門の時とは反対側の、西側の城壁をあっさりと飛び越えたかと思えば、その先に見えた森に躊躇なく踏み入ったのだ。
現在、森の奥へ奥へ颯爽と走り続けているところである。
驚くべきはその身体能力。地上まで5m近くの高さがあった煙突に加え、15mは軽く超えている城壁までその足で乗り越えている。それも人1人を抱えたまま、一足で。
さらにエリスを戦慄させたのは、これまでのエイデンの動きには魔法が使われていないことだった。
(……どんな身体してるのよ)
煙突に飛び込む瞬間には荒れ模様だった彼女の心も、城壁越えの際には既に諦めが勝っていた。こんな化け物染みた身体能力を持つ相手に、抱えられている状態でどうしろというのか。
運ばれることに抵抗などせず、力を抜いてされるがままだった。
(ねぇ、なんで息が切れてないの?)
「全力って訳じゃないからね」
(走り続けてもう10分は経つわよ)
「鍛えれば誰だってこうなる」
淡々と答えながら、エイデンは雑木林を突っ切った。
道なき場所をあえて選んで彼は走る。追手を巻くためだ。牢からの脱走に対し、追跡がないと考えるのは浅慮が過ぎるだろう。時には木々にも飛び移り、少しでも逃亡の形跡を消そうと工夫していた。
ここまでの道中、"誰にも見られずに"とは流石に行かなかった。いずれ追手は必ず辿り着くだろう。それもかなりの腕利きが現れることが予想される。突然の獣の襲来に続いて、今度は追跡者の対応だ。流石に一息吐きたいところだった。
だからこそ少しでも距離を稼ぐために、エイデンは走っていた。
高速で流れていく景色を前に、エリスは負けた気持ちになっていた。
森はエルフの棲家。彼女は狩りで食料を確保して生活していたこともあり、このフィールドにおいて人間種に遅れは取らないと言う自負があった。
(外の世界って怖い……)
そんなもの、既に跡形もなく粉々である。仮にエリスが本気で走っても、今のエイデンに追いつけるかどうか分からなかった。
しかも、抱き上げられいてるせいでエイデンの脈の音が耳に届いてしまう。リズムは一定で、いっそエリスの心臓よりも落ち着いている。その安定性が、"全力でない"という言葉の裏付けとなっていた。
(息も切らさず脈も乱さないって、もはや意味不明ね)
「今はひとまず、逃げるために都合のいい乗り物が手に入ったと思っていればいいさ」
(そうするわ……)
精神の安定のため、エリスはエイデンの案を採用した。
「……あの辺りでいいか」
ペースを落とさず走り続けていたそうエイデンが、そう呟いて枝から飛び降りた。一際大きな古木の根元。そこに音もなく着地する。数秒遅れて、落ち葉が数枚舞い降りてきた。
「うん、悪くないね」
ぐるりと見渡した後に頷くと、素早くエリスを下ろす。
(──わちょ!?)
驚いたのは彼女の方だ。急に地面に足がついたことに唖然としてしまう。咄嗟に力が入らず、ペタリと尻餅をついてしまっていた。木の根が背を支えてくれたおかげで、なんとか背中から倒れずに済んでいた。
(いきなり何よ!)
遅れて文句をぶつけようとしたエリスを無視して、エイデンの手が伸びる。
ゆらりと近づくその動きは不穏で、エリスの頬が引き攣る。
(ちょっと何する気──)
──パキン、と。ガラスが割れるような音が小さく響く。都度4回。
エリスの四肢に嵌められた枷が、小枝のように砕かれた音だった。
(……は? アンタ、それ)
「何かな」
(いや何かなって……)
エリスの視線はエイデンの手に向いていた。ちょうど最後に砕いた手枷が、その指先に摘まれている。
砕いたのだ。素手で。なんて事なく。
(ええ……)
ドン引きである。
パラパラと落ちる枷だった金属屑。
尻餅をつく姿勢のまま、エリスは呆然とそれを眺めていた。あの手に抱えられていたと思うとゾッとする。無意味に暴れなかった自分を褒めてやりたい気分だった。
現実逃避である。
「ほら、君の荷物」
(……ああ、うん。ありがとう)
差し出され、思わず感謝と共に受け取った簡素な皮袋。中には、自分が着ていた服や身に付けていた小物が入っていた。小さな装飾品もしっかりと残っている。
これに着替えれば、奴隷に堕とされる前とそっくりそのままの姿になれるだろう。
(これ、どこで見つけたのよ)
「牢屋に侵入する時に取っておいた。君が引き渡されてからの一連の動きは把握してたから、保管場所は分かってからね」
(ちゃっかりしてるのね……一応、お礼を言っておくわ。手間かけさせたわね)
頭を下げようとしたエリスの肩を、エイデンはそっと押さえた。
「大した手間ではなかったから大丈夫。ひとまず着替えるといいよ。俺は後ろを向いてるから」
(離れてはくれないのね)
「本当はそうしたいところだけど、状況が状況だから」
(良いわよ。分かってるから)
エリスは雑に手を払った。
エイデンは体を反転させて少しだけ距離を取る。3m程だろうか。何かあればすぐに動ける距離感である。
布の擦れる音が響き始めた。
(それにしても、よく私の荷物を見つけられたわね)
「君の荷物だけ一箇所に纏められていたおかげで、見つけるのは簡単だったよ」
(それはまた、都合がいいわね)
「失落紋の所持品ってことで個別に保管されたんだろう。世間の評価が今回は吉と出たね」
(特別扱いってわけ。笑っちゃうわ)
もちろん悪い意味である。
失落紋が刻まれているだけで周囲からの扱いは変わってしまう。これまで経験してきたことで、慣れ親しんだものだ。しかしだからといって疲弊しない訳ではない。
(ほんと、笑っちゃう……)
両親の裏切りから始まり、投獄、襲撃、そして逃走。人生に一度あるかないかの状況が、目まぐるしく移り変わっていく。どれだけ心が強かろうと疲労からは逃れられなかった。
それでも着替える手は止めない。背を向けているとはいえ男の前で着替えるのは恥ずかしいが、少しでも備えておかねばならない。
"着替えながら聞いてくれ"と、エイデンは切り出す。
「整理が付かないのは重々承知だけど、それでも聞くよ。この後どうなるか分かってるよね?」
(……脱走した私を、誰かが追ってくるってことでしょ)
エイデンは頷く。
「おそらく、衛兵が来ると思う」
(やっぱりそうよね……アーゲートの兵は優秀だと聞いているわ。村にまで聞こえてきてたもの)
「あの街は食料生産の要だから。戦地には及ばなくても、それに近い精鋭がいると考えた方がいいだろうね」
(気が重いわね。でも、それなりに距離は稼げたでしょう? アンタ、ずっと走っていたものね)
「それでもたぶん、もって10分。追いつかれるまでの猶予はその程度だろうね」
(え、いや……流石に、もう少し掛かるんじゃない?)
思わず、袖に通していた腕が止まる。思い出すのは、これまでの高速移動。入り組んだ森を通ったとはいえ、街との距離は数キロなんて近さではない筈だ。
疑い半分、期待半分で尋ねるエリスに、エイデンは淡々と返す。
「鍛えられた兵の足は早い。この程度の距離なら簡単に追いつける筈だ」
(こわッ)
「君を抱えた上、形跡をなるべく減らして走ったのではあの速度が限界だった。せめて夜ならもう少し急げたんだけどね」
(え、こわ……)
あの速度に追いつく衛兵も、全力でなかったエイデンも。
街の衛兵は優秀だと耳にしていたが、その言葉の内訳は予想を遥かに超えていた。愕然とする他なかった。
信じがたいことだが事実なのだろう。この状況で嘘をつく理由をエリスには思いつけない。
"それで"と、エイデンが前置きを1つ。
「遅くなったけど、改めて君に質問がある」
(……今?)
彼女の怪訝そうな目を正面から受け止めながら、エイデンは困ったように嘆息した。
「このままだと、聞く機会がなくなりそうだからね」
事態が二転三転して困っていたのはエイデンも同じだった。
その声音にはやるせなさが滲み出ている。
(確かにズルズルと伸びているけど、それはあなたの説明不足が理由でしょ。それに、妹が殺しにくるって言うのも嘘だったじゃない)
「それに関しては弁明したいところだけど、今言っても仕方がないか……」
煮え切らない返事に、外套を羽織りながらエリスは眉を顰める。
(どういう意味よ)
「……いや、やっぱり今はいい。嘘を伝えるような形になってしまって悪かった」
(いやに素直ね)
「君に信じて貰わないとここから先に進めないからね」
(ちょっと気になるけど……まぁ、逃がしてくれたお礼として水に流すわ)
「助かるよ」
とりあえずの謝罪を受け取り、エリスはエイデンへの不信感を薄めることに決めた。
少なくとも、その身でここまで逃がしてくれたことは事実。多少は信じてもいいと感じていた。
「けど分かっているだろうけど、誰かが君を殺しに来ているのは確かだ」
(衛兵とは別口よね? ってことは、あの獣のことを言ってるのかしら。どう考えても、あの場に現れたのは不自然だものね)
あの時、獣は上から降ってきた。なら街の中を通ってきた筈だ。しかし牢から脱出した時、地上に獣が滑走した形跡は見られなかった。足跡一つすらだ。街が小さくパニックを起こしていたのも、エリスが発動した魔法による噴火に対してのみだった。
まるで人目を避けて連れてこられたような違和感がある。
「あの獣は人の手によるものだよ。あの目、見たでしょ」
(──ッあの、紅い瞳)
砂埃の奥で瞬いた、血のような瞳。
アルビノとはまた違う、濁って色だった。
(そうよ……本で読んだわ。確か、獣との血の契約)
「所謂、従属魔法だね。紅い瞳はそれ特有の現象だ。繋がりが強いほど、瞳は濃い赤へと変わっていく」
(ならあの獣に掛かっているのは相当強力ってことよね)
「だろうね。恐らく、獣の本能すら抑え込めていると思うよ。実際あの時、俺には目もくれなかった」
(そうなの?)
「気づかなかった? あの獣、ずっと君のことだけを見てたよ。まず間違いなく、君を狙うように命令されているだろうね」
(なんだって私を狙うのよ……)
"着替え終わったわ"と付け加える。
膝上まで丈のあるポンチョのような上着に、そこから伸びる若草色のパンツスタイル。厚手のブーツはふくらはぎをしっかりと覆っており、動きやすさを重視した服装に思えた。それらの上から厚手の外套を羽織っている。
振り返ったエイデンは、小さな苦笑を浮かべていた。
「理由はいくつか予想がつくけど、正直、自信はないかな」
(意外ね。ここまで随分と自信満々だったじゃない)
「その第一候補が嘘になっちゃったからね。流石に慎重になるさ」
(それはそうね)
「カッコ付かないなぁ」
(それもそうね)
淡白な反応に、エイデンは肩をすくめた。
"とにかく"と、一拍置いて切り替えると本題に移る。
「改めて質問だ。1人で逃げるか、俺と一緒に戦うか……さて、どっちがいい?」
手を差し出しながら、エイデンは尋ねた。
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未沱 鯉