第8話 獣の襲来
"敵"と、そう告げられて、思い浮かべたのは妹の姿だった。
エイデンの話を聞いていたことも理由だろう。しかしそれとはまた別の理由で、彼女の頭に像を作らせていた。
(まさか、本当に……)
実のところ不安があったのだ。それは物心ついた頃から胸にこびり付き、時を重ねる毎に大きくなっていった。妹が村を立つその時まで、大きくなり続けていた。
思い出すのは、世界でたった1人の妹が自分に向けてきたあの瞳。
村の誰もが、親すらもが嫌悪の目を向けてくる中で妹だけは違った。距離を離すのではなくむしろ近づくような、そんな熱があった。
良い意味ではなく、悪い意味で。
(あの子が殺しに来ると言われて、咄嗟に否定できなかった……)
あの瞳に浮かんでいた黒い炎は、それこそ殺意と呼べるものなのではないか。
身を焦がされると錯覚するほどの熱量を、砂埃の奥に幻視する。
(違うわよね……)
ギュッと、胸の前で両手を握り込む。不安に瞳が揺れていた。
「……砂埃が晴れるな」
エイデンの呟きに従うように、宙を舞っていた埃が薄れていく。
辛うじて残っていた数本の蝋燭の光が、ボンヤリと地下を照らす。
仄暗い視界の奥に、紅い瞳が浮かび上がった。
獣特有の無機質な光沢が、貫くようにエリスを見ている。
(違う……)
怯むことなく、紅い瞳を見つめ返す。
(あれは、妹の、リリィの……)
"深い翠色の瞳とは違う色"……。
そのことに、体の力が抜けた。感じたのは安心なのか安堵なのか。
どちらにしろ、答え合わせは済んだ。
(やっぱり、あの子じゃなかった)
「ホッとしているところ悪いけど、そろそろ獣が動くよ」
注意を促し、エリスを抱き抱えたまま姿勢を低くする。
砂埃の奥で紅い瞳は動かない。しかしそれは今だけだと、エイデンは察していた。
「逃げるぞ。早く魔法を──」
──グォンッと、獣が咆哮する。音は振動だ。密室に近い地下空間を震わせ、砂埃を吹き飛ばす。
辛うじて残っていた蝋燭の火が消し去られ、牢屋を暗闇に染めた。急な暗転に視界が閉ざされてしまう。
「おっと、これはマズイ。種族を確かめる前に暗くなってしまった」
(何を呑気に言ってるのよ)
「これでも焦ってるんだけどね? だからそろそろ魔法を使ってくれるとありがたいんだけど」
(妹が殺しに来るだなんて嘘情報を伝えておいて、よくお願いを続けられるわね)
「そりゃぁ、だって──」
──ギャリンッと、甲高い音がエイデンの言葉を掻き消した。耳の奥を引っ掻くような乱雑さが、獣が牢の柵を削り砕いたことを教えてくれた。
「魔法、使わないと死ぬよ」
獣から伝わる圧が根拠となっていた。流石のエリスも、ことここに至って理由を問うことはしなかった。
現状、地下の光源は外に繋がる通気口から差し込む微かな光のみ。獣に対し、影の濃淡で読み取ることができたのは体の大きさ程度だが、しかしそれで十分だった。
(で、デカいわね……)
腕を振り下ろし、四肢を地につけた状態でも、牢屋の天井にまで背が届こうとしている。
(森でも、こんな巨体見たことないわ)
「君も存外呑気だなぁ」
砂埃も、牢の柵も、遮るものはこれでなくなった。光がなくとも、獣には優れた嗅覚と聴覚が存在する。狩るものと狩られるもの、その位置付けは決定していた。
「ほら、もうご近所さんだ」
軽く言うエイデンと獣との距離──獣の1歩。
今一度動き出し、牙が、爪が届くまでほんの数瞬で事足りだろう。
「時間はないって、俺言ったよね」
エイデンは、動かない。
エリスを抱えたまま、その時を待っている。もしも獣が腕を一振りすれば容易に体が吹き飛ぶだろう。抱き上げられた側も一緒に。
(ああッ、もうッ!)
多くの不満と疑問を飲み込んで、エリスは生き残ることを優先する。動かなければ待っているのは死。そして幸運にも、エリスはこの状況から生還する術を持っていた。
(後で一発殴るから!)
勢いのある思念に反して、彼女は両腕の力を抜いた。
抱えられたまま、ダラリと腕を床に向かって垂らす。エイデンが姿勢を低くしていたこともあり、掌が床に届こうとしている。
そして指先が、触れる。
──チリッと、細くしなやかな指が床を擦った。
──ゴドゥッ!と、間髪入れずに視界が爆ぜた。
一瞬のことだった。エイデンから見て前方、そして上方に向かって、熱と光を凝縮した炎が吹き荒れる。
その勢いは台風目下の川を思わせた。激しく、荒く。岩も獣も纏めて押し流していく。
「おお……眩しいね」
あまりの熱量と急な光に、エイデンは目を細めた。しかし苦しそうな様子はなく、口角は楽しげに上がっている。急な環境変化にも動じないのは、事前に魔法の効果を予想していたからだろうか。
しかし全てが予想通りと言う訳でもないようで、エイデンはエリスを見下ろして褒め言葉を送る。
「これは予想以上。やるね君」
(アンタに言われても嫌味にしか聞こえないわよ)
使用した魔法は、野盗を吹き飛ばしたエイデンの上級魔法に負けず劣らずの破壊力だった。それなのに、エリスに誇らしげな様子は見られない。謙虚、とはまた別のように思える。
(本当ならアンタに向けて打ちたかったわ)
「それは勘弁」
(あれだけ私を煽っておいて、よく言うわね)
「あれも交流の一環だよ。流石に君が本気だったら、俺だって慌てて頭を下げたさ」
(どうだか)
呑気に会話を続ける中、不思議と炎は向かって来ない。2人を中心に半径3mには、綺麗な安全地帯が生まれていた。エリスが魔法を制御し切っている証拠である。
使用する魔法への深い理解と、正確に法陣を描く技術。その両立によって成せる技だ。まだ若いエリスが扱っていることに違和感すらある超技だった。
「暑いね。手早く移動しようか」
火の粉が踊っている。地下に熱が満ちていた。この場で呑気にしていれば、焼かれ空気に焦がされることが目に見えていた。
チラリと、エリスは炎の奥を見やる。
(さっきの獣は、流石に倒したわよね)
「さぁ、どうだろう。結局種族は分からず仕舞いだ。でもまぁ、災害級でもなければ流石に死んでると思うよ」
(そのレベルのが来てたなら、上は壊滅してるでしょ)
"災害級"とは文字通り、災害レベルの損害を与える力を持つ獣を指す。この場所に辿り着く前にアーケードが荒地と化しても可笑しくはない。
この瞬間までそのような騒動の気配はなかった。つまりはそういうことだろう。
未だ視界の中で炎は燃え続けている。吹き飛ばされた獣の姿は見当たらない。きっと焼け死んでいると、2人は判断した。
「問題は、上までしっかり道が繋がっているかだけど……」
エイデンが見上げた先に天井はない。その代わりに、直径3メートルはあろうかと言う歪な煙突が作り出されている。エリスの魔法が作り出した空洞だった。岩盤はその肌を溶かし、気まぐれに火を吐き出している。
エイデンは数瞬見やって、そして頷く。
「それじゃ、まずは地上に行こうか」
(この赤熱の中を? 冗談でしょ)
「もちろん、本気だ」
エイデンの視線の先。煙突の内側を走る火は、不規則に揺らめいている。
「火が踊ってる。空気が流れてる証拠だ。なら道は通ったってことだから大丈夫」
(誰も道が繋がってるかどうかなんて気にしてないのよ。暑いでしょって話をしてるのよ私は)
「それは見れば分かる」
(なら言わなくても分かるわよね)
道がある事と人が渡れるかは別問題なのだ。誰が好き好んで火の海に足を踏み入れるのだろうか。
"こいつ馬鹿か"と疑わしげに目を細めるエリスに、エイデンは微笑みを向けた。
綺麗な笑みだった。
「言ったろ。時間がないんだ」
(ちょッ──)
返事を待たず、エイデンは軽やかに飛び上がった。炎の煙突へと、その身を突き入れる。同行者の同意も得ずに。
エリスに拒む術は無い。ここに残る選択肢も当然無しだ。迫る熱と赤に顔を引き攣らせる他無かった。
(絶対ッ殴るから!)
2度目の決意表明。悲しいかな、抱えられたエリスにできるのはそれだけだった。
………
──ガラリッ、と。
火が舞う地下で、何かが崩れる音が響いた。
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未沱 鯉