第2話 詠唱魔法
目の前に垂らされた救いの糸。
それは蜘蛛の糸か、それとも藁か。
「──た、頼むッ」
御者は咄嗟に手を伸ばす。判断するだけの余裕、理性はとうの昔にすり切れていた。
「助けてくれ!」
上擦った助命の声。
緊張で乾燥した喉がジリジリと痛むほどの大声は、しっかりと届いた。
「もちろん」
赤い男は軽く手を上げて肯定を返した。
「さて、手早く済ませよう」
襲撃犯に向かって振り返る。動きは緩やかで緊張を感じさせない。本当に戦いの場に立っているのかも怪しい気楽さを添えて、彼は口を開いた。
「我示す……」
声は、風に乗ってエリスの耳に届いた。優れた聴力を持つ彼女だからこそ、正確に捉えることができていた。
そして理解する。
(干渉節……)
詠唱によって発動する魔法、その発動キー。それが干渉節。
この時点で、彼が魔法士であることをエリスは確信した。それは野盗も同じようだ。
「魔法士か!?」
「なんでこんな所にいやがるッ」
「言ってる場合か! 詠唱を止めろ!」
慌てて距離を詰めようと走り出す。しかし遠い。
「間に合わねぇッ──弓兵!」
「射て!」
届かないと見るや即座に弓兵に声を飛ばす。事態は切迫していると判断してか、隠れているアドバンテージを捨ててまでの指示だった。
──シッ!と、風を切る音と共に矢が3本放たれる。どうやら隠れていたのは3人だったらしい。焦りを感じていたのは弓兵も同じだったのか、指示が飛ぶのと矢が放たれるのは同時だった。
しかし躱される。赤い男はひらりひらりと、舞うような動きで軽やかに矢を躱してみせた。
「クソがッ! 詠唱中は動けないんじゃなかったのかよ!?」
「アイツ、野良の魔法士じゃねぇぞ!」
「なんで将校レベルが出てくるんだッ」
唾を飛ばしながら怒りを口にする野盗達。彼らは荷馬車を襲って生計を立てている。つまりは弱いものイジメをしながら生活しているわけだ。だから、強者を知らない。
詠唱と身体駆動の並列処理は、戦場の最前線で振るわれる技術。お目にかかる筈のなかった現実を前に、彼らの表情には絶望が浮かび上がっていた。
詠唱が開始される。
「──風よ 駆けよ 翼となりて 天を裂き 力放ちて 渦を描け」
素早く、正確な歌い上げ。2秒と掛からず紡ぎ終えた6節、いや干渉節を含めて7節の詠唱。その唄に惹かれたように、赤い男の周囲に光輝く粒子が浮かび上がる。身体に纏わり付く淡い緑色の粒子は一瞬強く瞬き、そして溶けるように消えた。
その一連の変化が、世界が彼の詠唱を認めた証明だった。
(早いッ!?)
種族柄、魔法を得意とするエルフ。その中でも、知識や技術においては上澄だと自負するエリス。そんな彼女から見ても、その工程は滑らかだった。
詠唱をキッカケに、世界は記憶を呼び起こす。かつての全てを記録している、世界そのものが持つ記憶を想起する。
想起とは、反射的な変化を齎すものだ。喜びの記憶が頬を緩ませるように。悲しみの記憶が涙を溢すように。過去の記憶は、現在に干渉することを可能としている。
変化の名は再現。干渉の名は魔法。
世界の記憶から呼び起こされた現象、その魔法の名は──
「──嵐翔」
告げる。それが戦闘再開の合図となった。
──同時に、戦闘終了へ動き出す。
「風魔法かッ!」
「なんでもいい。どこかに掴まれ!」
喧騒を揉み消すように風が舞う。それは次第に渦を巻き、辺りの砂埃を纏めて上に押し上げる。
自然現象ではない。これは魔法が生み出した現象の前兆。
(これッ……)
詠唱と前兆。その2つの情報を元に、エリスの分析が魔法の正体を暴く。
同時。
「無茶苦茶だッ」
「ダメだ、飛ばされる!」
「助けてくれぇぇええッ」
再現されたのは、竜巻。
その威力は凄まじく、砂埃どころか野盗達も纏めて巻き上げていく。抵抗も許さず、上空へと跳ね飛ばしていく。
(風の上級魔法ッ!?)
小さな視界を塗りつぶす巨大な竜巻。圧巻の迫力を前に、エリスの分析は証明された。
風の上級魔法──嵐翔。
それは自然が生んだ、大気の暴力を再現する詠唱魔法。戦地で使えば何百人もの命を呆気なく散らす戦略魔法。
対処法は同階級の魔法による相殺か防衛の2択。回避は不可能。
敵に戦場帰りの英雄でも居なければ、この戦いは既に決着している。そして当然、そんな事態は訪れない。
(このレベルの魔法士が、なんでこんな所にいるのよ……)
エリスの心中で呆れと困惑が混じる。図らずも野盗達と同じ思いを抱いていた。
彼女はエルフだ。種族柄、閉鎖的で村を出たことがない。そんな外の世界を知らない彼女であっても、上級魔法の使い手が希少であり、引く手数多なことは知っていた。こんな所にいる筈がないのだ。
(あの子だって、すぐに村を出ていったのに……)
上級魔法を使えるエルフは、村にもいた。その彼女のことを村人達は誉の如く語っていた。村を出る時には宴も開かれ、居なくなった後も多くのたわいの無い話が飛び交った。
その時に何度も耳にしたのだ。"英雄が生まれた"という言葉を。
本から得た知識と照らし合わせても間違いはないだろう。
(これが、戦場で振るわれる魔法)
詠唱魔法と言っても、その内訳は多岐にわたる。種類も規模も豊富に存在し、当然、区分けがされていた。
魔法の規模という視点において、詠唱魔法は5つの段階に分けられる。超初級・初級・中級・上級・超級の5つだ。超初級は生活に役立つレベルの初歩魔法であり、超級は"最低でも"災害級の規模を誇る──が、その性能から秘匿されがちで、詠唱節をお目に掛かることすら希少である。その為、戦闘で使用されるのは初級から上級の3段階に纏まっていた。
そして今、赤い男が使用した嵐翔は上級魔法に分類される。魔法を扱う者──魔法士として最上位のレベルに達している証拠であった。
(これが……英雄)
どこか眩しいものを見るように、エリスは目を細める。
血に濡れた手のひらが、ズキリと痛んだ。
「こ、これはいったい……」
「こんな魔法、初めて見たぞ……」
エリスの感嘆、そして御者達の驚愕を他所に、竜巻は元気に唸りを上げる。野盗達に空の旅を強制プレゼントしながら、ゆっくりと移動していた。
竜巻は赤い男の制御下に収まっているようだ。狙い澄ましたかのように、森の中にも踏み入っていく。深く根を張った木々を塵のように吸い込んで、隠れていた者達を呆気なく暴き、そのまま巻き上げた。
「ぉぉォオぉッ!?」
「いやだぁぁッ!」
「見逃してくれぇぇええッ」
激しい風切り音に覆われて、泣き言は誰の耳にも届かない。虚しく喉を震わせるだけだ。そもそも急な高度変化に対応できず、意識を失った者が殆どだろう。
「な、なんでぇぇえッ!?」
10秒もした所で……地面にしがみ付いていた最後の1人が、今、剥ぎ取られる。
声にならない絶叫は、風に揉まれて消えていった。
「な、なバァ……」
「へぇァ……?」
呆然と空を見上げる御者と護衛達。ポカリと開いた口からは意味を成さない音が漏れていた。
彼らの視線の先。上空を飛ぶ襲撃犯達の姿は小さく、ギリギリ目視できるかどうか。高さだけでなく、竜巻との直線距離もかなり離れている。その大きさのせいでゆっくりとした動きに見えていたが、その実、移動速度はかなりのものだった。
何故こうも離れているのか。
竜巻は赤い男が生み出し、操っていた。つまるところは気遣いだったのだろう。この後の結末を見据えた上での、御者達に向けた気遣い。
「……そろそろか」
彼の呟きと共に、竜巻が消えていく。糸がほつれる様に、風の渦は柔らかく解けていった。風が雲を散らしたことで、澄み渡った青空が天に広がっていた。
人類の夢、空を飛ぶための力がこれでなくなってしまった。後は誰でも予想できる。重力は平等だ。
(御愁傷様ね……)
エリスの黙祷。力の差があり過ぎる状況に、微かな同情が顔を出す。
しかし慈悲はない。空を飛べない彼らは哀れ、地表に一方的な喧嘩を売って破裂した。
──バツンッ、と。
水風船が破裂したような鈍い音が、微かに鼓膜を揺らす。
(うわぁ……)
人体の破裂音をしっかりと耳で捉えてしまい、エリスの気分は降下した。
兎にも角にも。
ここに、助命の声は確かに応えられた。
「さて、こうして手助けした訳だが……」
残心。後に辺りをグルリと見渡した赤い男は、御者に向かって正対。伺うような言葉を投げる。
ビクリ、と。御者の肩が跳ね上がる。瞳が揺れ、ウロチョロと泳ぎ始めた。
動く視線。
そうして映る、破壊された森林。
「──ふひッ」
大地をひっくり返したような荒れ模様を前に、御者の全身から汗が吹き出す。それと気味の悪い声も漏れていた。己の命を容易く塵と変える人間が目の前にいるのだ、平静ではいられないのも仕方ない。
護衛達はもはや諦め一色で、腰の剣に手を添えることもなく歪な笑みを浮かべている。馬達も本能を超えた領域であることを直感したのか、先ほどから微動だにしない。
震える膝を握り締め、御者は出来る限りの笑みを形作った。
「な、何を差し出せばよろしいでしょうか」
交渉も何もない。最初から全面降伏だった。命以外なら何でも差し出しそうな勢いだ。
「はぁ?」
対して、きょとんとするのは赤い男。すぐに御者達の様子に思い至ったのか、彼は小さく笑った。
「ははは。助けた相手から剥ぎ取ることはしないさ。そうだな、良ければ相乗りさせて貰えないかな」
「相乗り……ですか?」
「君ら、アーゲートに向かうんだろう?」
それは御者達の目的地である都市の名前だった。ここから1番近くにある大都市で、この道に沿って進めば迷うことはなく着くことができるだろう。しかし木々の根が蔓延る道は凹凸が激しく、馬車でも丸2日。徒歩だと1週間は必要になる距離だ。
つまり足代わりになれと。
そう、御者は辛うじて息をしている脳で理解した。
「ぜふぃッ!?」
「ん?」
思いっきり噛んだ。可哀想なほどに緊張している。舌を噛んだのだろう、御者は痛みに肩を跳ねさせて、肥えた腹が弛んでいた。
赤い男は苦笑を返すだけにとどめ、無言で続きを促した。
リテイク。
「──ゴホンッ。是非ともご一緒して下さいませ。恩人には報いますとも。ええ」
御者は下手に出ながらそう媚びる。赤い男の目的が明確になり、多少の冷静さを取り戻せていた。
これまた苦笑を返しながらも、赤い男は頷いた。
「助かる。ああもちろん、今回のようなことがあれば手を貸すから、安心して欲しい」
「えッ、ええ。ええ……それは心強いですな。いえ、本当に……そうでしょう?」
求められた同意に対し、千切れんばかりに首を振る護衛達。首の向きは当然、縦だった。
実質、お前達は役に立たないと言われているも同然なのだが、反論はない。先の実例もある。こんなところで発揮するプライドなんて微塵も残っていなかった。
彼らだって空の旅は嫌なのだ。
「……そうか」
色々なことに目を瞑りながら、やはり赤い男は苦笑を返した。
仕方なさげな所作からは少しの不満も滲まない。根は善良なのだろう。ほぼ無償で助けてくれたことも含め、きっとそうだと。御者は自分を納得させた。そうであって欲しいという願望。それが大部分を占めていることを自覚はしている。しかしその思いは頭の隅に追いやった。
心と旅先の平穏の為にも、受け入れることを決意したのだ。
「で、では……」
受け入れの姿勢を示すためにも、御者は席を降り、スッと右手を差し出した。
シェイクハンド。握手だ。もはや意地で震えを抑え込み、友好の証を示す。
(うえぇ……)
エリスには辛うじて見えていた。御者の手に滴り落ちるほどの汗が滲んでいることに。
ここは目を瞑るべきだろう。彼も一杯一杯なのだ。
護衛達は内心で応援した。"マジで頑張ってくれ"と。
「私は、労働補助事業を営んでおります、メルク・サロンと申します……この度は私どもをお助けいただき、誠にありがとうございます」
御者──いや、商人であった小太りの男。その汗に塗れた手。女性でなくても生理的な嫌悪を感じずにはいられないだろう、その肉付きの良い手。
赤い男は嫌な顔一つとせず歩み寄り、メルクの右手を握り返す。
「俺はエイデン。ありふれた旅の魔法士だ。これも何かの縁。良ければ気楽に接してくれ」
よろしく頼む、と付け加え、彼は護衛達にも会釈を1つ。
情け容赦なく災害を押し付けていた人物とは思えない、誠実で謙虚な姿勢。それを目にし、彼らもなんとか冷静さを取り戻すことができた。
"気に入らないからと人をすり潰す"ような危険人物ではなさそうだ、と。彼らはやっとこさ、まともに息を吸うことができるのだった。
お読み頂きありがとうございます。
感想、評価、是非お待ちしています!