第1話 小窓越しの出会い
チカチカと、視界が白く点灯していた。
黒と白が入れ替わるテンポは速く、水底に沈んだ意識をチクチクと刺す。
小さな不快感が瞼を揺らす。
「──ッ……?」
目が覚めた。
顔に掛かる髪の感覚。
(私……なんで……寝てるのかしら)
自分が横になっていることに気づく。
右半身から伝わるのは冷たい硬さ。そして不規則な振動。ここが寝室でないことだけは確かだった。
(ここは……)
視界はボヤけていて役に立たない。それと頭も痛い。鈍い痛みがジクジクと響いている。
(最悪の気分ね……)
ひとまず体を起こす。顔に当たる光の不快感から逃れるためだ。しかし上手くいかなかった。
(手が、動かない……?)
伸ばそうとした手が命令通りに動かない。
返ってきたのは、手首に食い込む縄の感触。
(拘束されてる……)
両腕は背中側で縛られていた。
(何よ、この状況……)
エルフの少女──エリス・グロッグは直前の記憶を思い起こす。
(ダメね……記憶がボヤけてるわ)
思い起こそうとして、モヤが掛かったように朧げなことに気づく。
これはあれだ、村のお酒をちょっと拝借し、初めて試みた飲酒。その翌朝の感覚に似ている。ペース配分も許容限界も分からずに挑んだ結果、酷く酔ってしまった時のように、この状況までの過程がすっぽ抜けていた。
彼女は自身の経験に照らし合わせて現状を分析し、理解が及ばないことに納得した。
(とりあえずは、情報収集ね)
はっきりし始めた意識で、そう切り替える。
酔ったあの日にとりあえず水を飲んだように、エリスは必要なものを求めた。
(いい加減、眩しいわ)
少しずつ体をズラし、顔を照らす光から逃れる。こう眩しくてはろくに見えやしない。キツく縛られた縄が手首を擦ったが、彼女は呻き声1つ上げずに黙々と体を動かした。
位置も落ち着き、焦点が合い始めた視界で辺りを見渡す。
(……ここは、馬車の荷台かしら。後部の出入り口が1つに小窓が2つ。それとエルフが6人。縄を切れそうなものは……無さそうね。積まれてる木箱に何かあればいいのだけれど、この手じゃそもそも開けられないし……あれ、あの子達、見覚えがあるわね)
改めてエルフ達を観察する。
エリスと異なり、手縄はされていないようだ。彼女達の服装や、荷台内も最低限の清潔感は保たれている。少なくとも、無理やり連れてこられたという状況ではなさそうだった。
(私は除いて、だけど)
予想と分析を並行しながらの情報収集は、ここで打ち止めとなった。残念ながら現状に関してはさっぱりだ。
(……にしても、こっちを見もしないわね)
見覚えがある──つまりは同じ村から来たのだろうエルフの少女達。耳の長さからして下は12歳に上は26歳程か。年齢はバラけているが、長命種にとっては誤差の範囲だ。
(幼い子ばかりね。私も人のこと言えないけれど)
エリスも19歳と同じ範囲に収まっており、まだまだ成人女性とは言い難い年齢だった。
そんな彼女達が何故同じ馬車に乗っているのか。
共通点は見つけられたが、それまでだ。
(……ダメだわ。お手上げ)
誰か説明して欲しいものだと思いながらも、無理だろうなという諦めもあった。
そっと、同乗していたエルフの1人がエリスに目を向けた。
伏目がちで、恐る恐る。ほんのチラリと目を向けて、すぐに戻す。
そして隣に座るエルフに問いかける。
「アレって……」
「ちょっと……変に話題にしないで。待遇が悪くなるのはごめんよ」
キツい返答だった。
答えたエルフはその声音に負けないほどに瞳を絞って、エリスを睨んだ。
嫌悪感を隠しもしないその視線は、やはりすぐに戻された。
「……そうよね。ごめん」
問うたエルフは小さく謝罪し、それ以降エリスに目を向けることはない。
他のエルフ達も、勤めて意識の外に追いやろうとしているようだ。誰もエリスに気を向けるようなことはしなかった。
(アレって何よアレって)
小さな苛立ちを目線に込めて、エリスは最初に口を開いたエルフを睨む。
しかし目は合わない。抗議が伝わることはなさそうだ。
(……その金髪を燃え上がらせて、赤髪に変えてやろうかしら)
それ焼け野原になるヤツ。
女の命を相手になかなか物騒なことを考えながら、エリスは息を吐く。
(……切り替えましょう。いつものことよ)
慣れたことだ。今更なんだから、と己を納得させる。
現状では些細な仕返しもできないことを、エリスは自覚していた。後ろ手に縛られた上に、こうも不規則に揺れる状況ではどうしようもない。仮に文字通りの突撃をかました所で、一撃放てば体勢を崩して後は袋叩きだ。
苛立ちは心の底に一旦逃し、周囲の観察に戻る。
(馬車なら、御者が居るはずよね)
前方からの情報収集はこれ以上望めない。であれば後方。御者側を見るべきだろう。
そう対象を切り替え、視界の向きを変えるために再び体をズラし始める。
──その刹那。
ドンッという、音と衝撃。
「──キャァアッ!?」
続いて響く、6つの甲高い悲鳴。
(──ッ!?)
痛い。
痛烈に身体を打った。慣性に引かれ、御者席と荷台を遮る壁に激突したエリス。体勢を動かしていたのが功を奏し、肩からぶつかったおかげで怪我はない。しかし衝撃は確かに伝わった。
(──ッたいわね! 何事よ!)
声もなく痛みを耐えながら、馬車が急停止したようだと察する。
「な、なんだ、貴様ら!?」
「道を開けろ!」
外が騒がしい。ただでさえ頭が痛い所にこの喧騒。エリスの機嫌は順当に降下した。
それでも頭は状況を理解しようと回っている。
(予定外の事態のようね……事故か獣か、それとも野盗か)
頭に浮かぶ幾つかの予想を、外の声が補完する。
「おいおい、見りゃ分かんだろ」
「俺らより賢いんだろオタクら。一目で理解できないのかい」
「言ってやるな。見ろよあの腹。カエルの頬袋みたいだ。腹を満たすことしか頭にないんだろうさ」
「ちげえねぇ!」
ゲラゲラと、下品な笑い。
重ねて響く、鈍い金属音。剣を鞘から抜いた音だ。1つや2つではない。
(武装集団による襲撃ッ!)
エリスは現況を即座に弾き出す。
同じく事態を理解したのか、御者が震える声を発した。
「お、愚か者共が! たった3人で何ができる!」
どうやら護衛は襲撃犯より多く雇っているらしい。4人以上なのは確かだろう。
怯えながらも、御者の男の声には自信が感じられた。
(バカッ、全員仲良く顔見せるわけ無いでしょッ)
奇襲を警戒しなさい。そう心中で罵ると、壁に肩を預けながら体勢を立て直す。
中腰に近い所まで身体を起こし、御者席と繋がる小窓に顔を近づけた。
(せめて周囲の立地が分かれば、伏兵の場所も予想できる筈ッ)
荷台と外との明るさの違いに目を焼かれるが、目を細めることで対処する。
小さな視界に最初に映ったのは、鮮血だった。
「──ひッ!? な、何が!?」
血を前に、御者が身を竦ませる。同時にドサリと荷崩れのような音が鈍く響く。数は2つ。馬車に繋がれた2頭の馬の前方と右方、それぞれにいた護衛。その2人があっけなく倒れ伏していた。
馬が驚き暴れ始め、慌てて御者が宥めに掛かる。
(さっそく奇襲されてるわね)
小窓では地面まで視界が届かず、生死の判別はできない。
遅れて響いた呻き声から察するに、即死は免れたようだった。
(言わんこっちゃ無いッ)
言ってない。
しかし罵らずにはいられないエリスだった。それほど綺麗に嵌められている状況に、何が護衛だと思わずにはいられなかった。
(……弓持ちが居るわね)
護衛が倒れるまでの一瞬、未だチカチカとひりつくエリスの視界で辛うじて見えたのは、矢。
護衛の肩と胴に深々と突き立った矢は、矢羽の向きからして、馬車の右側から射られたようだった。
小窓に頬を押し付けるようにして、エリスは視界を広げる。
気持ちばかりに拡張された視界の端には森。道を挟むようにして木々が生い茂り、身を隠すのにはもってこいの環境だった。
(……最低2人、隠れてるってワケ)
木々が光を遮り、森は深い闇に浸かっていて射手の姿は見えない。
隠れている人数と位置を正確に割り出すのは、流石に無理があった。
「これで、オタクの護衛が減っちまったな」
正面に立っていた襲撃犯の1人が、楽しげに口角を上げている。
後ろに立つ2人の仲間もゲラゲラと笑っていた。
護衛の血を前に興奮した馬達をなんとか宥めた御者だが、安心には程遠い。
「ぁ、ぁ、あ、あなた達ッ! 大丈夫なんでしょうね!」
流石に状況がまずいことを理解してか、御者は護衛に向かってそう叫ぶ。
対して護衛達は無言。馬車の前方と左右に1人ずつ立ち、抜き放った剣や盾を構えていた。倒れた仲間の介抱をする様子は無い。
(……これ、大丈夫じゃないわね)
エリスからは背中しか見えないが、余裕がないことが見て取れた。
「おいおい、そっちは残りたったの3人か?」
「愚か者がぁ〜!たった3人でなぁにができるぅ!」
先の御者の言葉を用い、襲撃犯が煽る。
そして再び笑う。ゲラゲラと。勝利を確信しているのだろう。
御者も顔を青ざめさせ、言い返すこともできていない。
(本格的にマズいわよッ……)
何かないかと、荷台の中を見渡す。
先の急停止で崩れ落ち、痛みと混乱で涙するエルフ達は使い物にならない。武器足りえるものはなく、木箱が幾つか散乱しているだけだった。
(どれか1つくらい、今の衝撃で空いてたりしないかしら)
揺れのおさまった荷台に立ち、エリスは木箱に近づく。倒れたエルフ達が怯えて後退りしていたが無視だ。今は時間が惜しい。
(ちッ、ダメね。どれも綺麗に閉まってる。いい仕事するじゃないまったくッ)
木箱はどれもピタリと閉じていた。梱包担当は仕事をしっかりこなすタイプのようだ。この時ばかりは手を抜いて欲しかった。
「き、貴様ら!私に手を出すと、どうなるか!私を誰だと思ってッ」
「知らねぇなぁあッ!その太い首に剣を振りゃあ、残るのは名無しの死体よッ」
ヒッ、と。御者が情けなく喉を鳴らす。
続いて土肌を削る足音。音源はだんだんと近づいてくる。こちらとの距離を詰め始めたようだ。
(……これで何とかするしかないわね)
切迫した状況を音で把握しながら、エリスは木箱に手を伸ばす。後ろ手で木箱を撫で、飛び出た釘を一本探り当てた。
そのまま指先に力を込め、引き抜くッ。
(──ッぅ! 痛いわね、まったくッ)
引き抜く際の抵抗が痛みとして返ってくるが、悪態を吐くことで抑え込む。
なんとか引き抜いた釘は1本。小指ほどの長さで武器としては心許ない。首を貫けば1人くらいは倒せるだろうが、手首を縛られたエリスには無理な話だった。
それでも右手にしっかりと握り込み、再び小窓に近づき外を確認。
(……まだ戦闘は始まってないわね)
襲撃犯達はジリジリと距離を詰めている。慢心して一気に攻勢に出るかと思いきや、意外な程に慎重だ。
対して護衛達はどうだ。完全に腰が引けている。びびっているのが丸わかりだった。
御者は震えるばかりで使い物にならない。
(雇主も含めて、これは死んだわね)
非常に困る流れだ。ただでさえ今起きたばかりの身。現状もろくに理解できていない。
事態が二転三転するのはゴメンだった。
(間に合ってよッ)
ガリッ、と。握り込んだ釘を壁に沿わせる。どういう訳か彼女は壁を削ろうとしていた。やぶれかぶれでは無い。明確な意思を持って、釘を動かしている。
拘束のせいで力が入りにくいのか、壁に対して半身となり、体重を掛けながら削っていく。その動きは細かく、正確で……緩慢だった。
(せめてナイフでもあればッ)
ギシリッ。無意識に噛み締めた奥歯が擦れて音を漏らす。
打つのではなく、彫る。釘本来の用途とは異なる使い方。壁を少し削る度に釘先が暴れ、力づくで押さえつける。その無理が彼女の手を痛めていた。掌には内出血の跡が点在し、場所によっては血が滲み出している。
それでも彼女は痛みを顔に出すことは無い。
少しでも作業速度を早めようと、壁に背を向ける形に体勢を変える。より体重をかけやすくなることで多少は釘の動きが滑らかになったが、誤差程度。肥大した痛みにはつり合わない鈍臭さだ。
むしろ外の状況を目にできなくなったことで、焦りだけが大きくなっていく。
(どうなってんのよ今日はほんとにッ)
悪態を吐いても現状は変わらない。
それでもやれることをやるしかない。苛立ちすら力に変えながら、彼女はより一層強く釘を握った。
その瞬間。
──ドォオンッ!と。鈍く重い破裂音が響く。
遅れて突風が吹き荒ぶ。再度馬が叫び、上体を起こしながら興奮を露わにする。
風と馬の動きによって荷台ごと揺れる馬車。急なことに体勢を保てず、エリスは思わず膝を折った。釘が手元を離れ、微量の血と共に跳ねていく。
(今度は何ッ!)
外では風切音が絶え間なく響き渡っている。荷台の中ではエルフ達の大音量の絶叫だ。音で事態を把握していたエリスにとっては、急に目隠しをされたようなものだった。
揺れのせいで体勢を保つのがやっと。小窓から外を視認することもままならない。
数秒ほど経っただろうか。風は溶けるように消えていき、順じて揺れも収まった。
カラン、と。木と金属のぶつかる音が響く。
転がった釘が荷台の隅にでもぶつかったのだろう。小さな音だ。それが耳に届くほどに、あたりは静けさを取り戻していた。
(状況は……何が起こってるのッ)
エリスは慌てて小窓に近づいた。前兆の無い環境変動。まさか相手に魔法士が居たのかと、最悪の予想を立てながら視界を確保する。
視界の中で、未だに暴れる2頭の馬達。その奥で立ち昇る派手な砂埃。視界一杯に広がり、襲撃者の姿を見ることは出来ない。
(目隠し。何の為に。優位は相手にあった筈。1人づつ削れば終わる状況だった……なら、もしかして──)
──味方。
期待混じりの予想。その答え合わせは即座に行われた。
一寸先も見渡せないような土煙。その一部が、裂けるように弾ける。生まれたのは、大人1人をすっぽり覆えるほどの空間。まるで結界が張られたように、そこだけは塵ひとつ入り込まない。
埃まみれの中で唯一澄んだ空間に、1人の男が立っていた。
(アイツが、この状況を作った魔法士……)
長身の男だった。
次いで目に付く、赤。
錆びついた血を塗りたくったような赤黒い髪が、風に靡いてゆらりと揺れている。
つい先ほどまで姿形も無かった男が、こちらに背を向けていた。
彼は半身で振り向いた。
「助けが必要と思ったが……不要だったかな?」
場に似つかわしくない落ち着いた声音。美しいと思わせる重心の通った所作。
どこか気品のある男の顔に嵌め込まれた、暗い焔の瞳。
焦がされそうなほどの熱を秘めたその瞳は、確かに、エリスを捉えていた。
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