第一話 勇者は、いなかった
灰色の雲が、空を覆っていた。
季節は春のはずだったが、花は咲かず、風は乾いていた。大地には、かつて村だったものの残骸が散らばっている。焦げた木の骨組み、黒く煤けた井戸、破れたまま揺れる洗濯物。人の姿は、どこにもなかった。
そこに立つ男の影だけが、かすかな生命を主張していた。
――リオ。
それが彼の名だった。
年は十八か十九ほど。くすんだ黒の外套を纏い、剣を一本、腰に提げている。だがその姿は、戦士というより、どこか飢えた旅人のようでもあった。
無言のまま、リオは地面に膝をついた。
そこには、真新しい焼け跡。血痕。砕けた木の盾。
そして、その傍らに、老婆が一人倒れていた。
死んでいる。だが、その顔は不思議なほど穏やかだった。
リオはそっとその手を取る。震えるような細い指は、何かを握っていた。
――それは、小さなメダルだった。
錆びついた金属に、微かな光沢が宿っている。
「……誰かが……こんなもの、渡してどうするってんだよ……」
リオは、誰に向けるでもなくつぶやいた。
その時、背後から音がした。
枝を踏む、軽い足音。
「リオ! いたか!」
振り返る。
赤いマントを翻し、息を切らして現れたのは、少年だった。
栗色の髪を結い、肩に剣を担いでいる。整った顔立ちに、若さの光を残していた。
「カイ……」
「帝国兵が村の南口に集まってる。もうすぐ包囲される。……行くぞ!」
リオは頷いた。
老婆の手からそっとメダルを外し、胸のポケットにしまう。
ふたりは、崩れた塀を飛び越え、瓦礫の間を駆け抜ける。
空気が焦げた臭いを運び、乾いた土が靴底に絡んだ。
⸻
帝国兵の声が、風に乗って響く。
「標的は確認済み! 勇者認定外の反逆者、リオ=セリオス!」
「光の法に従い、討伐せよ!」
――光の法。
それは、リュクスリア帝国が掲げる絶対正義。
“勇者として神に認められなかった者”に、人権はない。
リオは低く息を吐いた。
もう何度、このセリフを聞いただろう。まるで録音でもされているかのように、帝国兵たちはいつも同じ調子で口にする。
「俺は勇者じゃない……それが罪だってんなら、笑わせんな……」
「笑ってる暇はねえぞ! こっちだ、早く!」
カイが手を引いた。ふたりは森の奥へと消えていく。
⸻
逃げ続けて、いくつの村が燃えたのか。
助けようとした人々が、どれだけ処刑されたか。
それでも、リオは立ち止まれなかった。
彼は知っていた。“勇者”という称号が、この国を蝕んでいることを。
そして、夜が来る。
⸻
「誰かが待っていた」
焚き火の煙が、湿った夜気に滲んでいた。
焚き火を囲むのは、リオとカイ、そして――第三の男だった。
その男は黒いフードをかぶり、顔の半分を包帯で覆っていた。
声をかけると、ゆっくりと顔を上げる。
「リオ=セリオス。……君に、話がある」
「……誰だ、お前は」
「俺は、“かつて勇者と呼ばれた者”だ」
その声は低く、澄んでいた。
だが、なによりも異常だったのは、リオの名を――姓まで含めて知っていたことだった。
「俺は……そんな名前、誰にも……」
「君は、帝国によって“記録を消された”存在だ。勇者として選ばれ、そして処刑された。……ただ一人、“神の意志に逆らった勇者”として」
信じられなかった。
だが、リオの胸の奥――ずっと封じられていた記憶が、微かに疼く。
「俺が……勇者……?」
「君は、世界が“望まなかった”勇者だった。
だが、俺は知っている。君こそが、“最後の希望”だ」
男は剣を差し出した。
柄の部分に刻まれた古い紋章。
それは、帝国が歴史書に封印した、“伝説の勇者エレグランツ”の紋章だった。
リオの手が、自然と剣に触れる。
瞬間、視界が真白に染まる。
――炎。
――仲間の笑い声。
――少女の泣き顔。
――そして、自らの手が、誰かを刺している。
「ッ――あああああああッ!!」
リオは叫んだ。
剣を地面に叩きつける。手が震えていた。呼吸が乱れていた。カイが、言葉もなく傍に寄る。
「思い出さなくていい。まだ、その時じゃない」
黒衣の男は静かに言った。
「剣は預けた。選ぶのは君だ。過去に戻るか、今を歩くか。……だが、この国が君を必要とする時は、遠くない」
そして、男は消えた。音もなく、煙のように。
⸻
夜が明ける。
剣だけが残されていた。
その名を、誰も知らないはずの――“勇者の剣”が。