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8. フェネンの戦い

「まだ後方からの連絡はないのか?」

 クラシオンが焦燥をにじませながら尋ねた。副官は暗い表情で首を振った。

「まったく連絡がありません。どうやら完全に遮断されたようです」


 クラシオンは沈痛な面持ちで口を固く結んだ。

 イオフェンの警告を聞き流すべきではなかった。あり得ないと思っていたことが、現実となってしまった。 後悔の念が胸を締めつけた。


 仇敵として名高い二つの勢力が密かに手を結び、挟撃の作戦を仕掛けてきたのだ。 虚を突かれたクラシオン側は奇襲を受け、現在では谷間の盆地に追い込まれてしまった形となっていた。


 後方との連絡は断たれ、主力部隊も分断され、本陣はすっかり包囲された。このままでは全滅は避けられない。


 ベルトランは覚悟を決めた。

「私がここを抑えて時間を稼ぐ。クラシオン、お前はここを抜け出して後方へ向かえ」


「何を言ってるんだ! お前を置いて行けるわけがないだろ!」

「このままじゃ、全員が無駄死にするだけだ。総大将のお前が死ぬか捕まれば、本当にすべてが終わりだ。お前だけでも脱出して、後の戦に備えろ。イオフェンがいる。きっと立て直してくれるさ」


 クラシオンが言葉を詰まらせている間にも、緊迫した戦況報告が続いていた。

 ついにクラシオンは頷き、ベルトランを強く抱きしめた。

「必ずや体勢を立て直して戻ってくる。だから……それまで死ぬな、ベルトラン!」


 クラシオンの声は、抑えきれずに震えていた。

 ある瞬間、ベルトランは力強くクラシオンを突き放した。

「行け」


 そう言い放つと、背を向けて部下に叫んだ。

「よく聞け! ここで奴らを迎え撃つ! 最後の一人が倒れるまで、ここは絶対に突破させない!」


 その叫びに呼応し、兵たちが武器を高く掲げて吠えた。

「ここが俺たちの死に場所だ!」

「一人たりとも通すな!」


 クラシオンが悲しみを押し殺しつつ背を向け、重い足を無理に動かし始めた、そのとき。


 ブォォォ〜 ブォン、 ブォン〜

 独特な音色の角笛に続き、鋭く高い笛の音、そして明快な打楽器の響きが戦場に鳴り渡った。


「この音は……まさか、イオフェンか?」

 軍楽隊を従えるのは、限られた大貴族のみ。特にイオフェンの軍楽は、魔獣の角から作られた角笛と笛、特別な石で作った打楽器による独特な旋律で知られている。


 ベルトランとクラシオンは同時に外へと飛び出し、音のする方向を見た。

 右手の丘に、騎兵たちがずらりと整列していた。そしてその中央、輝く鎧に身を包み、赤いアントを羽織ったイオフェンの姿があった。


 彼の兜に挿された長く鮮やかな赤い羽根が、強烈な存在感を放っている。


「イオフェンが……なぜここに……?」

 クラシオンは呆然とつぶやいた。


 味方の兵士の間から歓声が上がった。

「ルチェスタ公爵様だ!」

「助かったぞ! 万歳!」


 ベルトランはにやりと笑い、クラシオンの肩を軽く叩いた。

「これで決まりだな! さて、反撃に出るか!」


 そして、力強く部下に呼びかけた。

「我らの勝利だ! 敵将の首を狩りに行くぞ!」

 燃え上がるような歓呼の声が、戦場を震わせた。



 丘の上に立ったイオフェンは、迅速に戦況を把握した。本陣は押され気味で、味方の部隊は各個に孤立し、苦戦を強いられていた。幸いなのは、本陣にクラシオンの旗とベルトランの旗が並んで翻っていることだった。それはすなわち、ベルトランがなお無事である証でもあった。


(よかった……間に合ったのだな)

 イオフェンは右手を高く掲げた後、前方へと伸ばした。大声で号令を発する体力は、もはや彼には残されていない。だがその手振り一つで、騎兵たちは雄叫びを上げながら丘を一気に駆け下っていった。



 敵陣営では、混乱と狼狽が一挙に広がった。クラシオンの虚を突き、不利な地形に追い込み、あとは本陣を叩いて殲滅する―その目論見が、思わぬ事態によって崩れたのだ。


「どういうことだ? ルチェスタ公爵が、なぜここに? たしか瀕死だったはずでは?」

 イオフェンの軍が現れたことも想定外だが、彼が現れた場所こそが問題だった。まるで狙いすましたかのように、サエス侯爵軍本陣の側面中央部に姿を現したのだ。


「誰かが抜け出して状況を伝えたか……?」

「あり得ませぬ。敵本隊は完全に封じております」

「後方部隊ではない、まったく別の部隊だ。別経路で出発したに違いない」


 動揺が広がる中、士官たちはなんとか兵の混乱を抑えようと必死だった。

「敵の数は多くない。騎兵が少数いるだけだ!」


 だが、その言葉とは裏腹に、丘を駆け下る騎兵の数は予想を遥かに上回っていた。さらに歩兵部隊までもが次々と続き、戦場に姿を現した。



 一方そのころ、ギルフォード伯爵は斥候から戦況の報告を受けると、狂ったような速度で戦場へと馬を走らせていた。


(味方本陣はなお健在、ルチェスタ公爵も到着された。そこへ我らが加われば……この戦、我らの勝利は間違いない!)


 その確信が湧いた瞬間、彼の全身を血潮が熱く駆け巡った。この数日間の疲れも飢えも、戦の興奮と勝利の期待の前に、跡形もなく溶け去っていった。


「前方に、我らの敵がいる! 奴らを一匹残らず叩き潰し、今宵は腹一杯食らって、思い切り眠るのだ!」

 ギルフォードが声高に叫ぶと、騎士と兵たちはそれに応えて熱い雄叫びをあげた。



 やがてギルフォード伯爵の部隊が後方から加わると、敵陣は完全なパニック状態に陥った。クラシオンを完璧な罠にはめたと信じていた彼ら自身が、逆に袋の鼠となってしまったのだ。


「ケイエトン公爵め、あちら側についたのか?」

「ちくしょう、あのネズミ野郎が!」


「まさかルチェスタ公爵の病気も、まやかしだったのか……?」

「いえ、それは確かでございます。病を患っていたのは事実に相違ありませぬ」


「それなのに……なぜ今、あの場に……?」

 動揺と混乱は、指揮官から下級兵士に至るまで、瞬く間に戦列を蝕んでいった。士気は崩れ、大隊の列は秩序を失って崩れ始めた。



 イオフェンは馬上で、丘の上から戦況を見守っていた。たとえ万全の体調であったとしても、彼はベルトランやクラシオンのような前線型の将ではない。


 味方が勢いを取り戻し、逆に敵に攻勢を仕掛けている様子に目を細めていると、さらなる朗報が届いた。ギルフォード伯爵がちょうど敵の背後に突入したという報だった。


(……勝ったな)

 イオフェンの口元に、満足そうな微笑が浮かんだ。クラシオンの窮地を救い、ベルトランの命を守れただけでも十分な成果だが、戦の勝利こそが、最上の果実である。


 ベルトランの旗が高く掲げられ、彼の部隊が敵の本陣を目指して猛進していた。つい先ほどまで守勢に立たされていたとは思えぬほど、激しい突撃だった。こういう場合、防御を固めるのが定石のはずだが、ベルトランは違った。彼は獣のような勘で戦況の流れを感じ取り、それを自らの力で切り拓く男だ。


(ベルトラン……君は、そういう奴だったな。だが無理はするな。私は、どうしても君に会わねばならないのだ)


「そろそろお身体をお休めになってはいかがですか?」

 傍らでフローリンが心配そうに声をかけたが、イオフェンは首を横に振った。


「まだ安心するには早い。もうしばらく様子を見よう」

 味方の勝利はほぼ確実と思われたが、万一を案じて、イオフェンはその場を離れようとはしなかった。


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