7. 出陣
医者の言った通り、ベルトランが送ってきた薬を飲んだ後、イオフェンは一日にわずかに目を覚ましては、スープや滋養食を口にする以外は、ほとんど眠って過ごした。起きている時間でさえ頭がぼんやりしていて、物を考えることも判断することもままならなかった。
何日そうしていたのかも分からないまま、ようやくはっきりと目が覚めたときには、確かに意識がかなり明瞭になっていた。空腹感もひどく、まずは何かを食べなければという状態だった。今では、フローリンが自ら匙で食事を運んでくれることも、自然に感じられるようになっていた。
「……あの薬を飲んでから、どれくらい経った?」
秘書メデスが答えた。
「ちょうど11日目です」
「そんなに寝ていたのか……?」
医者が言っていたよりも倍以上長い時間眠っていたことになる。
おそらくは、公爵家に伝わる秘薬との相互作用のせいだろう。
「ベルトランは?」
「薬を服用された翌日の晩に、一度お見えになりました。ですが、閣下が眠っておられるのをご覧になって、そのままお帰りになりました」
「そうか……それならすぐにでも連絡を取って、来てもらうように」
メデスは困ったような表情で答えた。
「それが……翌朝には、急きょ出陣されまして……」
「出陣? どこへ?」
「東の方面です。サエス侯爵の勢力が突如として兵を挙げ、進軍してきたのです」
「……なんだと?」
思わず、声が大きくなってしまった。
イオフェンが知っている未来よりも、40日以上も早く事が起きてしまった。胸の高鳴りを必死に抑えながら、イオフェンは迅速に主要な事項を確認し始めた。
「ギルフォード伯爵は南方へ、いつ出発した?」
万が一に備えて、南のケイエトン公爵勢力を牽制するための部隊の指揮を、ギルフォード伯爵に任せていた。そして、クラシオンが東方へ出陣することになった場合は、必ずその部隊が5日以上遅れて出発するよう手配してあった。
「閣下のご指示通り、総大将が出発された6日後、つまり3日前に出陣されました」
「エルストからの連絡は?」
「ちょうど昨夜遅く、こちらが……」
メデスが懐から封蝋された密書を差し出した。イオフェンは急いでそれを開き、内容を確かめた。
『東が動けば南も兵を出す。ただし小規模で、決して動きはしない』
南方のケイエトン公爵は、まさに機会主義者らしく、両陣営の間を綱渡りするように、どちらが勝ってもいいように立ち回ろうとしているのだ。
イオフェンは席を立ち、大声で命じた。
「今すぐ出陣する。騎兵を含め、即時出動可能な戦力をできる限り確保し、我に続け。ウェイトナー子爵は残り、残兵を可能な限り早く率いて合流せよ。
食糧は6日分、武器は1日分のみ携行する。ギルフォード伯爵にも至急連絡し、進路を変更して、フェネンにて我に合流するよう指示せよ!」
「しかし閣下、それでは南方のケイエトン公爵の動きは……」
「南は動かぬ! 今は東の戦が急務だ! すぐに出る、我が鎧を持て!」
「ですが、ご無理をなされれば……」
イオフェンは切迫した声で怒鳴った。
「今行かねばならぬ! もうすでに手遅れかもしれんのだ!」
その勢いに、周囲はすぐさま慌ただしく動き始めた。
イオフェンが鎧をまとい、屋外へ出たとき、妻フローリンも女性用の鎧を身につけて待っていた。
フローリンは毅然とした態度で言った。
「私も参ります。あなた一人を行かせるわけにはいきません」
彼女の決意に満ちた眼差しは、何を言っても無駄だと感じさせた。
実際のところ、彼女と言い争う余裕もなかった。
その時から、イオフェンは馬を替えながら、ほとんど休まずに強行軍を続けた。睡眠も最低限にとどめ、食事も馬上で済ませるほどだった。クラシオンとベルトランの軍が約10日かけて進んだ距離を、6日以内に追いつかなければ、戦場に間に合わないのだ。
(何としても間に合わせなければ。同じことを繰り返すわけにはいかない)
もしかすると、自分が20年の時を遡ったのは、この事態を防ぎ、ベルトランを救うためなのかもしれない。その思いこそが、イオフェンを突き動かす原動力だった。
多少回復したとはいえ、体力はまだ戻りきっておらず、いつの間にか身体はふらつき、胃もきりきりと痛んだ。馬上で吐き気を催し、目を回す彼の様子に、フローリンはもちろん、側近たちも一斉に休息を訴えたが、イオフェンは決して足を止めなかった。彼は馬に体を縛って、進軍を急いだ。
もはや一刻の猶予もない。少しでも遅れれば、すべてが終わってしまう。ベルトランが死に、あの戦の結末が以前と変わらなければ、過去へ戻った意味そのものが失われてしまう。
フェネンの戦いがこれほど前倒しになるとは、正直イオフェンも想定していなかった。彼の介入によって過去と変わった点は、大きく二つ。
一つは南方工作の責任者が変わったこと。もう一つは、イオフェン自身の健康問題だ。そのどちらか、あるいは両方が、予期せぬ変数となった可能性が高い。
原因が何であれ、今もっとも重要なのは、一刻も早く戦場に到着し、運命の流れを変えること。
イオフェンは驚異的な意志の力を発揮して、馬を走らせ続けた。このような強行軍では、将であるイオフェン自らが先頭に立たねば隊の速度は上がらない。彼が止まれば、行軍も止まるだろう。
後に続く騎士や兵士たちの間では、戸惑いと疑念の声が囁かれていた。
「こんな荷で本当に大丈夫なのか……?」
「なあ、食料もそうだけど、武器も一日分しかないんだぞ? 着いたら、すぐ底をつくぞ」
「公爵様、病気がひどいって聞いたが……まさか正気を……?」
「しっ、危ないこと、言うんじゃない……!」
兵たちのざわめきに、ある士官が怒声を上げた。
「無用な口を叩くな! 公爵様が軽率に動くわけがない。すべてに意味があるのだ。足を止めずに進め!」
*** ***
南方に向けて進軍していたギルフォード伯爵は、イオフェンからの伝令によって、急ぎ東の戦線へ合流するよう命じられた。
彼は送られてきた書状を何度も見返した。南方のケイエトン公爵軍は動かない。ゆえに即座に進路を変え、あらゆる手段を用いて最速でフェネンへ到達せよ。それが命令の全てだった。
「公爵様も、軍を率いてそちらへ向かわれたのか?」
「はい。食料も武器も最小限にして、急ぎ出発されたとのことです」
その報告を聞き、ギルフォードは直感した。
クラシオンやベルトランの軍に、まさに今、切迫した事態が起きているのだと。病を押してまでイオフェン自らが駆けつけた以上、それは紛れもない非常事態である。
少なくともイオフェンと同時期には戦場に到着しなければ、意味がない。いや、もしかすると、これは絶好の機会かもしれない。適時に戦場に着き、味方の勝利に貢献すれば、その功績は絶大であり、彼自身の地位も大きく高まるに違いない。
ギルフォードはすぐさま命じた。
「これよりフェネン方面へ進軍する。騎兵を含む全員、胸甲など重い武装は外せ。武器は一日分、食料は5日分だけ持参せよ。煮炊きしている暇などない。行軍中に食べられる物を中心に荷を軽くせよ。
残りの食糧と武器は炊事部隊が回収し、本隊の後を追わせる。
時間がない。直ちに実行だ!」
こうしてギルフォード伯爵の軍も、最小限の装備と糧食を携えて、全速力で戦場へ向けて進軍を開始した。




