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6. 逢いたい顔

 目覚めてはまた眠りに落ちる、そんな朦朧(もうろう)とした時間を繰り返していたイオフェンは、ふと額に感じるひんやりとした感触に、徐々に意識を引き戻された。


 部屋がぼんやりと薄暗いところを見ると、夜らしい。どうやら熱があったのだろう、冷たい水を絞った布が額に置かれていた。


 そして、彼の傍らに座っていたのは、妻のフローリンだった。その手が自分の髪に触れるのを感じたイオフェンは、どうしていいかわからず、眠ったふりをした。


 フローリンはそっと、彼の髪を撫でながら、小さく呟いた。

「あなたが私を愛していないことは、わかっています。……でも、あなたは知らないでしょう?

 愚かな自尊心のせいで言えなかったけれど、私にとっては……出会ったあの日から、ずっとあなた一人だったこと。

 こうしてでもあなたを独り占めできて、少しばかり嬉しいなんて思ってしまう私は……ひどい女でしょうか」


 その声に滲む哀しみの響きに、イオフェンはそっと息を呑んだ。フローリンが見せていた毅然とした態度と気丈さを、彼はただ政治的な同伴者としての義務感や、共に過ごした年月の義理とばかり思っていた。


 クラシオンの想いに、最期のときになってようやく気づいたように、フローリンの心にも、彼はずっと気づかぬままでいた。自分が口にした「別れ」という言葉が、これほどまでに彼女を傷つけていたとは、思いもよらなかった。


 その夜、イオフェンはフローリンと共に過ごしてきた日々について、様々な思いに耽っていた。そして、リノンとそうであったように、フローリンとも新たな関係を築いていこうという決意も、その中に含まれていた。


          ***      ***


 翌朝、イオフェンの部屋には、体に良いとされる品々が山のように積まれていた。クラシオンが送ってきたものであった。


「これ全部飲んだら、薬物中毒で死ぬのではないか……」

 呆れたように品々を見渡したイオフェンは、侍医に対して、まさかこれらをすべて服用させるつもりではないだろうなと念を押し、効能や成分を見極めて適切に選別するよう指示した。


 午後になり、体調がよくなると、イオフェンはリノンと戯れて時間を過ごしたのち、主要な参謀を伴ってクラシオンのもとを訪れた。3ヶ月後に起こる戦の結果を変え、ベルトランを救うための試みの一環であった。


 その場でイオフェンが、東のサエス侯爵と東北のメンテステ伯が密かに手を結び、兵を挙げる可能性があると警告すると、クラシオンはもちろん、イオフェン自身の参謀たちすら真剣には受け止めなかった。


 両勢力の仲が極めて悪いことは周知の事実であり、加えて、東北のメンテステ伯に関しては、こちら側がすでに手を打ち、少なくとも中立の立場は確保したと、皆が信じているからである。


 クラシオンはあり得ないという反応だった。

「その二つの勢力がどれほど犬猿の仲か、君のほうが俺よりよく知っているだろう?

 あれほどの仇同士が同盟だなんて……それは、君と俺が互いに命を狙って刃を交えるのと同じくらい、あり得ない仮定だ」


 イオフェンは苦く微笑んだ。

 今まさにクラシオンが言った、その二つの〈あり得ないこと〉が、実際に現実となると知っていながら、それを明かすことができないもどかしさが胸を締めつけた。


「この世には、〈起こるはずがない〉と思われていたことが、いくらでも起こるものだ。万に一つの可能性でも、念頭に置いておくべきだ」

「そこまで言う根拠はあるのか?」


「今の段階で明確な証拠はない。だからこそ、これから調べる必要があるのだ」

 実際のところ、過去を振り返ってみても、目立った兆候はなかった。正しく言えば、兆候を〈見逃していた〉のである。それほどまでに水面下で密かに動いていたのであり、結果が出てからようやくその事実を知ることになったのだった。


 クラシオンは、心配そうにイオフェンを見つめた。

「しばらくは無理をせず、屋敷で静養するほうがいい。相談することがあれば、俺がこちらに出向くから」


「体調が良くないのは事実だ。だが、今言ったことは、決して取り越し苦労ではない。今のうちに備えておかなければ、手遅れになる恐れがある」


「……わかった。そうするよ。ともかく、今は家で身体を休めることだ」

 クラシオンが本気で受け止めていないと、イオフェンは感じた。


 無理もない。もし、これからの出来事を経験していないイオフェン自身が、他人から同じ話を聞かされたとしたら、きっと、起こり得ぬことだと、一笑に付していたことだろう。


(まだ時間はある。ベルトランが来たら、もう一度話してみよう)

 そう思い、クラシオンに見送られて戻ることにしたイオフェンだが、廊下で突然激しい眩暈に襲われ、倒れてしまった。蒼白になってイオフェンを自ら背負い上げたクラシオンには申し訳ないが、思いがけず病状の深刻さを誇張する形となったことに、イオフェンは内心満足していた。


        ***      ***


 一ヶ月が経った。

 イオフェンの病床の噂は、もはや知らぬ者がいないほどに広まっていた。何人もの医者が呼ばれ診察を行ったが、誰一人として明確な病名を告げることはできなかった。


 ついには、イオフェンは近いうちに命を落とすかもしれないという噂まで立ち、彼を知る人々はこぞって見舞いに訪れるようになった。妻の実家筋の者たちも同様であった。


 愛妾リリアンはさすがに公爵邸を訪れることはできず、手紙を送ってきた。イオフェンはその手紙を開けることなく、秘書を通じてリリアンに返却させた。そして、かなりの額の金を添えて別れを告げた。それもまた、これまでとは異なる生き方を貫こうとする彼の決意の表れであった。


 しかし、イオフェンが心から会いたいと願っている人物、ベルトランだけは、いまだに姿を見せていない。本来なら、とっくに戻っているはずなのだが、予定にはなかった北方巡視に出ているという連絡だけが届いていた。


 何かが少しずつ変わりつつある。イオフェンは、自分の経験している出来事が、微妙に食い違ってきている感覚を覚えていた。自らが南方工作の責任者を交代させるという決断を下したのも、その一つであった。


 この変化が、自身とクラシオン、そしてベルトランにとって良い方向へ進むものであることを願いつつ、イオフェンはできる限りの努力を重ねていた。


「ベルトランから何か知らせはなかったか?」

 朝、目を覚ますと同時に、イオフェンはいつものように秘書にベルトランの動向を尋ねた。


「おそらく二日後には到着されるとのことです」 


(人の気も知らず、どこをうろついているんだか……)

 心中で愚痴をこぼしつつ、イオフェンはその日の業務に取りかかった。


 午後になると、ベルトランの副官カミルがやって来た。ベルトランは二日後の到着予定であり、自分はその命を受けて先に来たのだと言った。


「これを閣下にお渡しするようにと仰せでした」

 そう言って、カミルは液体の入った小瓶を差し出した。


「これは……?」

「魔獣パクラムの胆汁から作られた薬です」


 魔獣パクラムといえば、魔獣の地に棲む巨大で凶暴な熊型の魔獣だ。極めて荒々しく、捕獲も難しいことで悪名高い存在であった。


「こんなもの、一体どこで手に入れた?」

「侯爵様と私どもで仕留めました。奴を探し出すのに。少し時間がかかりまして」


「な……! 魔獣の地まで行って、そいつを狩ったというのか? 冒険者でもあるまいし、この時勢に軍の将たる者が、いったい何をやっているのだ!」


 イオフェンが声を荒げると、カミルはバツが悪そうに苦笑した。

「侯爵様の頑固さは、閣下もよくご存じでしょう」


 そして、カミルは真剣な表情で付け加えた。

「とにかく苦労して手に入れたものですので、必ず服用していただきたいと仰せでした。服薬されるのを私が確認し、報告するようにとも……」


 そして本当に、目を見開いてイオフェンをじっと見つめていた。


 イオフェンは、そんなカミルをぼんやりと見つめた。どれほど急いで来たのか、彼の鎧や髪には白く埃が積もっていた。予定された未来どおりであれば、この若く活気ある男も、ベルトランと共にあの戦いで命を落とすはずの、惜しまれる花であった。


 正直に言えば、病に伏していることがむしろ命を救う状況のイオフェンとしては、その薬を飲みたいとは思わない。だがカミルは、彼が薬を飲む姿を確認するまでは、決して引かないつもりのようだった。


 医者も積極的に勧めた。

「これは金があっても手に入れるのは難しい、非常に貴重な薬です。間違いなく閣下の体力回復に大きな助けとなるでしょう。

 ただし、服用後の4~5日間は激しい疲労感に襲われ、ほとんどの時間を眠って過ごすことになります。しかし、それを越えれば、身体が見違えるほど軽く感じられるようになります」


 仕方なく、イオフェンはその場で薬を服用した。

 彼が最後の一滴まで飲み干したのを確認して、ようやくカミルは満足げに退室した。


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