3. 決意
屋敷へ戻ったイオフェンは、息子リノンの部屋へと向かった。公爵自らが子供部屋を訪れるなど、これまで一度としてなかったこと。
執事長も侍女長も、他の使用人たちも動揺を隠せぬまま、彼を案内した。
幼子の部屋に足を踏み入れたイオフェンは、そこで思いがけず妻フローリンの姿を見つけ、内心驚いた。子の世話など、乳母に任せきりだと思っていたのだが、フローリンはリノンを自らの腕に抱いていた。
「この時間に……それも、ここへいらっしゃるとは……」
フローリンが目を丸くして訊ねた。
このように早い時間に、ましてや子供の部屋にイオフェンが姿を見せるなど、まさに前代未聞であった。
「リノンの顔を少し見ておこうと思って。……最近は、まともに顔も見られておらぬ気がして」
どこか言い訳のように語りながら、イオフェンは妻の腕に抱かれた幼きリノンを見つめた。
「少し……抱いてみてもよいか?」
その言葉に、フローリンの驚きはさらに大きくなった。彼女は戸惑いつつもそっと近づき、イオフェンに子を渡そうとした。
しかし、めったに会うことのない父親に怯えたのか、リノンは突如泣き出してしまった。母の腕から離れまいとしがみつき、泣き声はますます大きくなる。フローリンが必死にあやすも、まるで効果はなかった。
「……構わん。無理にすることではない」
イオフェンは穏やかに微笑み、そっと手を引いた。そして、母の胸にしがみつきながら泣きじゃくる幼子の姿を、静かに見つめた。
この年頃のリノンを、こうして見るのは初めてのような気がする。
彼の胸には、戦場で父である自分を守ろうとして、若くして命を落とした、あの日のリノンの姿が重なって見え、心の一隅が締めつけられるように痛んだ。
イオフェンは、息子の小さな指にそっと指先を触れながら、思わず呟いた。
「……こんなにも、小さな手をしていたのだな」
その様子に、フローリンの顔には驚きと戸惑い、そして次第に不安の色が浮かんできた。
「……何か、あったのですか?」
「いや、何も。ただ……今夜は、あなたとリノンも一緒に夕餉を共にしてはどうかと思ってね」
「……夕食を、ご一緒に?」
フローリンは戸惑いながらも、すぐに頷いた。
「ええ……そういたします」
子供部屋を後にしたイオフェンは、自室の書斎へと向かった。秘書を下がらせ、ひとりになった彼は、思考を整理し始めた。
この頭に鮮明に浮かぶ20年の歳月―それは夢でも幻でもない。何より、今日の会議でその確信を得たではないか。あれは、これから先に待ち受ける出来事、すなわち、これまでと同じように歩めば、確実に訪れる未来である。
では、どうするべきか。破滅へと突き進む道を歩むのか? それとも、その結末を変えるべく、動き出すのか?
答えは……すでに出ている。
残る問いは、〈いかなる結末のために、動くべきか〉だ。今度こそクラシオンを退け、天下をその手に収めるために、再び戦いに身を投じるのか?
だが、もはやイオフェンにとって、それは重要なことではなかった。いや―もしかすると、あの頃から既に、彼にとって、それは本当に求めていたものではなかったのかもしれない。
最後の瞬間に胸を満たしていたのは、後悔と、深い虚無感だった。あの悔いを、二度と繰り返すわけにはいかない。
今のイオフェンには、クラシオンに対する怨みなどなかった。あの昔、自ら陣営を離れ、クラシオンに戦を挑んだのは他でもない自分自身。責められるべきはむしろ、自分の方なのだ。
なぜ、自分とクラシオンは袂を分かつことになったのか。
イオフェンは一つ一つ、過去を辿っていった。
今日の会議で話題に上がった南方への工作は、結局失敗に終わり、南の脅威を取り除けぬまま、3ヶ月後に東方のサエス侯爵勢が侵攻を開始。クラシオン軍は大規模な会戦を余儀なくされた。
南方のケニエトン公爵軍が動き出したことで、イオフェンは軍を率いて南へ向かわざるを得ず、東の前線にはクラシオンとベルトランが向かうこととなった。
だが、東の戦線では、さらなる想定外が待っていた。絶対に手を組むはずがないとされていたサエス侯と、東北のメンデステ伯の密約による連携。クラシオンとベルトランは、その一手に完全に虚を突かれ、奇襲を受けることになった。四方から包囲され、本陣壊滅が目前に迫った中、ベルトランは自ら決死隊を率い、最後まで残ってクラシオンを逃がした。
命からがら脱出したクラシオンは、戦力を立て直し、戦場へと舞い戻って戦局をひっくり返した。敗北に終わるはずだった戦いを、膠着状態にまで持ち込むことに成功し、辛うじて敵軍を退けたのである。
領土を失わなかったことから、一見すれば引き分けにも見えたが、実際に失ったものはあまりにも大きかった。ベルトランをはじめ、蜂起当初から共に戦ってきた熟練兵の多くを喪い、その損失を補うには2年以上の歳月を要した。
だが、何よりも大きい損失のは、ベルトランという存在を失ったことだった。彼は陣営屈指の猛将にして、野戦指揮官。そして、〈冷静と情熱〉と評されたイオフェンとクラシオン、両者を繋ぐ優れた仲介者であり、接着剤のような存在でもあった。
もしも、あの時ベルトランが生きていてくれたなら、クラシオンとあのような関係にまでは至らなかったかもしれない。
そう思うと、無性に彼が恋しくなり、会いたくなった。
ベルトランは今、北方の視察に出ており、戻るまでにはもう数日かかるはずだ。
やるべきことは、すでに見えている。南の安定を確保し、3ヶ月後の会戦の流れを変えること。そして……身を引くこと。
未来において、自分がクラシオンと敵対することになる理由は、決して一つではなかった。イオフェン自身の野心もあったが、それだけではない。彼の背負う立場、置かれた環境が、大きな要因だった。
公爵であり、帝室の有力者でもある彼の地位は、蜂起当初から多くの貴族勢力を引き寄せる決定的な力を持っていた。イオフェンに「正統性」を見出して積極的に支持する貴族たち、そして有能で野心に燃える家臣たち。仮にイオフェン自身が戦う意志を持たないとしても、周囲が、状況が、彼の意に反して運命の賽を転がすかもしれない。
だからこそ、最も確実な方法は引退することだ。
だが、どうやって退くのか? これまでのイオフェンは、野心に満ち、優れた能力を持つ男として生きてきた。突然引退すると言い出しても、容易に受け入れられるはずがない。
どうすれば、波風立てずに引退できるか。思いを巡らせていたところ、扉がノックされ、秘書が入ってきた。
「夕食のご用意ができました」
「もうそんな時間か……」
イオフェンは短くため息をついて、席を立った。




