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10.引退

 クラシオンとベルトランの軍は、勝利の勢いを駆って敵の残党掃討に乗り出した。


 一方、イオフェンは自らの指揮下にある部隊を率い、拠点都市アトラへと戻った。クラシオンとベルトランが戦線を駆け巡る間、内政を安定させ、兵站と戦力の補充を整えるのが、イオフェンの任であった。


 馬車に揺られながらの帰路、イオフェンは隣に座るフローリンに、感謝の気持ちとこれからの計画を語った。


「本当に……よくぞ支えてくれた。あなたがいなければ、ここまで来ることはできなかったろう。

 これからしばらくは、幾分忙しくなりそうだ。あなたと過ごす時間も減ってしまうかもしれん。

 だが、それほど長くはかからぬはずだ。東方の平定が終わり、状況が落ち着いたら……私は第一線を退き、セレンディンへと向かおうと思っている」


 穏やかに微笑むと、イオフェンは続けた。

「そこで、リノンと3人で静かに暮らしたい。……それでも、構わぬか?」


 イオフェンの顔をじっと見つめていたフローリンは、やがて静かに微笑んだ。

「ええ、いいですね。それも、きっと素敵です」

 だが、その微笑にはかすかな哀しみが滲んでいた。


 それに気づいたイオフェンは、彼女を安心させようと努めた。

「私の体のことは、あまり心配しなくていい。人里離れた場所で、静かに休んでいれば……すぐに良くなるはずだ」


「……そうですね。そうなるといいですわね」

 彼女がその言葉を信じていないことは、イオフェンにもはっきりと分かった。


 一瞬、真実を打ち明けておくべきかという思いがよぎったが、すぐにその考えを胸の奥にしまい込んだ。申し訳ないが、真に引退するためには、このことだけは誰にも知られてはならない。


         *** ***


 フェネンの大勝利から、およそ半年が過ぎた。


 情勢は目まぐるしく変化した。東と東北の二大勢力は完全に崩壊し、クラシオンとベルトランは残存勢力を掃討し、それぞれの地に確固たる支配を築いた。


 イオフェンは後方にあって、両者を支援しつつ政務の充実を図り、いずれ必要となる論功行賞の準備にも着手していた。


 一度目の薬の効果が切れたころには、体の不調はすっかり回復していたが、イオフェンは適度に病弱を装いながら多忙な日々を乗り切っていた。同時に、自らが引く日のための準備も、着実に整えていった。


 まもなく、クラシオンとベルトランが凱旋してくるだろう。その前に先手を打って、セレンディンの屋敷へと下るつもりだった。


 イオフェンは、2度目の薬を服用した。そして〈容体の急変〉という名目で、すべての職務から突然退き、セレンディン行きを断行した。


 屋敷を発つ日、執事長と侍女長をはじめとする使用人全員が屋敷前に整列していた。イオフェンは、長年の忠勤と献身に感謝の意を込めて、一人ひとりに贈り物と補償金を手渡し、丁寧に言葉をかけた。


 最後は、執事長の番だった。先代の代からルチェスタ公爵家に仕えてきた、誠実で忠義に厚い人物。イオフェンが没落するその時まで、決して彼の傍を離れなかった者である。


「これまでの働きに、心より感謝する。リノンが帰ってきたら、父や私のときと同じように、誠実に支えてやってくれ」


「公爵様が、再びお戻りになることを信じて……お待ちしております」

 込み上げる想いを抑えながら、執事長は深く一礼した。


 こうして執事長との別れを終え、イオフェンは馬車に乗り込んだ。

 彼の体調を配慮して、中には横になれるよう改造されたベッドが備えられていた。向かいの席には、フローリンがリノンと並んで座った。


 やがて馬車が出発し、屋敷の門を越えていくと、執事長は静かに涙をぬぐい、侍女長は顔を両手で覆い、嗚咽を堪えきれずに泣き崩れた。他の使用人の中にも、目を潤ませる者は多かった。


 馬車の中のイオフェンは、ただただ幸福だった。大きな仕事はすべてきれいに片付けたし、自分がいなくても問題がないよう、各部門の責任者もきちんと任命しておいた。あとは、あの地で家族とのんびり暮らすだけだ。


 唯一の心配といえば、あまりにのんびりしすぎて退屈してしまわないかということだが、それについてもすでに対策を練っている。楽器を本格的に習い、先祖のように薬学の研究をしてみるのも良さそうだ。そう考えていた。


 膝の上に自然と頭をもたせかけてきたリノンの髪を優しく撫でながら、イオフェンは楽しげにフローリンに話しかけた。


「以前話したかもしれんが、あそこにはリンゴの果樹園がある。今ごろは、たわわに実っている頃だろう。ちゃんと熟れているといいが……。

 果樹園を散歩しながらリンゴを摘むのも、きっと楽しいぞ。あの丘の大きな木の下でピクニックをするのもいいし。

 そうそう、近くに湖があるから、天気が良ければボートにも乗ろう。リノンがもう少し大きくなったら、一緒に釣りをするのも楽しみだな」


 こうした計画に胸を膨らませるイオフェンに、フローリンは嬉しそうに微笑んだ。けれども、そのやつれた顔を見ていると、彼女の胸は締めつけられるようだった。


 かつての、自信に満ちた野心家のイオフェンも愛していた。しかし今の彼は、フローリンにとって思いがけない贈り物のような存在だった。


 イオフェンは、思いやり深く、あたたかな夫であり父となっていた。ここ数ヶ月のあいだに共に過ごした時間は、結婚後の数年間を合わせたよりも長く、そして何よりも満ち足りたものだった。


(少しでも……少しでも長く、私たちのそばにいてくれますように……)


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