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1. 終幕

「イオフェン。今までのことはすべてなかったことにして、再び、あの頃のようには戻れぬか?」


 クラシオンの言葉に、イオフェンはゆっくりと顔を上げた。

 クラシオンの瞳に宿るものは、哀しみと覚悟―そして偽りのない真心だった。


「幼き頃、我ら3人でよく遊んだあの大樹のことを、覚えておるか? あの場所で、君と我が初めて出会った日のことを今もはっきりと覚えている。

 追っ手から逃げていた我を、君は躊躇なく匿い、命を救ってくれた。あれからも、君と御父君から受けた恩義、我は片時も忘れたことはない。

 イオフェン、君なくして、今の我は在り得なかったのだ。それゆえに……」


 イオフェンは静かに、クラシオンの眼差しをまっすぐに受け止めた。

(そうだ……君は、昔からそういう奴だった。なぜ……そのことを忘れていたのか)


 積み重ねてきた数多の確執の中に、誤解とすれ違いがあったことを、もしあの頃のように率直に語り合えていたのなら、今とは変わっていたかもしれない。だが、それに気づくには、あまりにも遅すぎた。


 息子リノンも、妻フローリンも、彼を信じて命を賭した配下たちも、今はもうこの世にいない。その果てに立つ自分が、命を長らえたところで、何の意味があるというのか。


 イオフェンは目を伏せ、言った。

「我々は、もはや戻れぬ川を渡ってしまった。時は流れ、あまりに多くの血が流れた。

 クラシオン、もし君の胸に、かつての情が少しでも残っているのなら……この場で、潔く果てさせてはくれぬか」


「イオフェン!」

 クラシオンは叫んだが、その声には以前のような威厳はなかった。かつて大地を揺るがす咆哮のごとき声は、今やか細く震えていた。


 もう、これ以上は引き延ばせぬ。否、引き延ばしたくはない。

 そう思ったイオフェンは、目の前の酒瓶を手に取り、盃に酒を注いだ。一口であおる。重く深い香りが口内を満たし、鋭く喉を焼く。強い酒だった。2杯目をあおり、3杯目を注ぎながら、クラシオンに言った。


「行け」

 最期の姿など、見せたくはない。


「イオ……」

「行けと言っておる」


 その言葉に、クラシオンは力なく立ち上がった。しばしその場に立ち尽くした後、やがて背を向けて歩き出す。彼の広い背は、いつになく重く沈んでいた。


 イオフェンは、なおも盃を重ねた。それが酒のせいなのか、あるいは混ぜられている薬のせいなのか。とうとう、意識が霞み、現が遠のいていく。


 間もなく、処刑人がその頭に革袋を被せ、息を奪うだろう。高貴なる者の最期にふさわしい、血を流さぬ処刑法である。


 死が執行されるのか? 次第に息が詰まり、意識が薄れてゆく。

 何のために、ここまで戦ってきたのだ? 結局、このような終わり方をするとは……。


 過ぎ去った日々の出来事が、まるで壁画のように目の前に広がり、流れていく。それらは次第に霞み、色を失っていった。


 最期の瞬間、イオフェンの脳裏に浮かんだのは、丘の上に立つ大樹―そしてその枝にぶら下がり、笑い合っている3人の少年の姿だった。金髪の自分、濃藍の髪を持つクラシオン、それに、赤毛で快活な笑顔を浮かべている、まだ幼さの残る少年。


(ベルトラン……まもなく、君にまた会えるのだな。君さえ生きていたなら……我らの関係も、違っていたかもしれぬ)

 そして、光が消えた。


 ***     ***


 イオフェンは、ぱちりと目を開けた。

(……ベッド? ここは……)


 上体を起こしたとたん、隣にいた女がかすかな寝息と共に身じろぎした。イオフェンは思わずベッドから跳ね起きた。


 室内は暗く、どうやら夜のようだ。起き上がった彼は、己が裸であることに気づく。

 慌てて明かりを灯し、鏡の前に立ったイオフェンは、そこに映る若き日の自分の姿に言葉を失った。


「どうなさったのです、公爵様?」

 ベッドから身を起こした女が、寝ぼけた声で問いかける。栗色の柔らかな巻き髪を胸元まで垂らした肉感的な体つきのその女は、イオフェンにとって見覚えのある顔だった。

 若き日の愛妾のひとり―リリアン。彼女もまた、今の彼と同じく、若く美しい。


「……ここは天国か?」

 呆然と呟くイオフェンの言葉に、リリアンは甘く微笑んだ。

「そう思っていただけるなら、光栄ですわ」


 イオフェンは扉を開け放ち、廊下へと出た。

 裸のまま出てきた彼を見て、扉の脇を守っていた近衛騎士ヘクが慌てて室内を確認する。


「今は、何年だ?」

 イオフェンの問いに、ヘクが答える。

「帝国暦298年でございます」


「……298年」

 イオフェンは呆けたようにその数字を繰り返した。


 確かに、自分は死んだはずだ。今、こうして答えているヘクも、かつて自分を守って命を落とした者だ。帝国暦298年―それは、あの出来事から20年前の年号だった。


(今のは……夢なのか?)

 だが、この感覚はあまりにも生々しい。足裏に伝わる石床の冷たさ、肌をかすめる夜気のひんやりとした感触までも。


「悪い夢でも見られたのですか? 風邪を召されますわ」

 リリアンがそっと近づき、ガウンを肩に掛けてくれた。


(今が夢でなければ……さっきのあれが夢だというのか?)

 混乱が、頭の中を渦巻く。20年という歳月、その間に積み重ねられた数多の物語。


(あれほどの出来事すべてが、本当に夢だったなど、あり得る話なのか……?)


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