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ソヴィエット

 奴は自信に満ちていた。

「矛盾を貫いて生きればそれは矛の勝利ってことだよな。」

 コイツはまだそんなことを言って喜んでいるのか。聞かされた僕は一応笑ってやった。笑ってやったが、笑ってやった気遣いの反動で、ソイツの胸にソヴィエットなガスマスクを埋め込んだ。発作的な行動だったが、僕は分かっていた。このガスマスクこそが、彼の最後の受け皿になるんだ。日々吸い込む空気。取り入れる酸素。追い出される二酸化炭素もろもろ。喋るヘモグロ。遊びで測った血中アルコール濃度。コイツの思考に影響を及ぼす環境すべてを、このガスマスクが最後の受け皿になってくれるんだ。僕はガスマスクが間違って出てこないよう、念入りにソイツの右胸を叩いた。同じ回数だけ、実に男らしい音がくぐもって響く。叩かれたコイツの体が少し後退る。力とはいつも思いのほか籠ってしまうものだ。これは幼少のおもちゃ戦争を通してみんな習う。

「こいつがお前の受け皿。受け皿は多いに越したことないだろ。マジで最高の受け皿だ。」

 叩いてしまったから、なるべく口調は優しくした。受け皿、受け皿と、主題は変えずに他を変えて、なんとか伝わるように言ってやったつもりだ。でもつもりのままではいつまでも何も叶うことはないんだ。

 ガスマスクを胸に入れたまま、ソイツは逃げ出してしまった。走りながら、マスクのチューブ部分がだらしなく揺れている。今後アイツが危険な目に遭わなければいいが……奴の逃げるケツに見覚えがあった。奴のというか、逃げるケツのほうだ。デジャヴの正体は、今どきなら大抵インターネットに眠っていることが多い。デジャヴを感じたなら、さっさとスマホの履歴を漁ってみることだ。遡り遡り、そのURLは盗撮ものだった。


 低い位置からカメラが前方の女を捉えている。だがおかしいのは、その女はジーンズを履いていた。スカートじゃないんだ。パツパツというわけでもない。でもカメラの男は何かを信じて、頑なにその女の後を付け回した。そして道に人の気配が完全になくなったときだ。男は女の背後に最大まで近づき、持っていたカメラをジーンズの尻に何度も叩きつけはじめた。そのときの男の声をカメラは衝突音とともに捉えていて、微かにだがうーとかあーとか聞こえてくる。この男はこんなことをして、いつか女の下着が透けてくるとでも思っているのだろうか。でもそうであってほしい。そう思っているのならまだ怖くない。理解できるという意味でだ。被害者の女は、最初こそ声を上げるなり、なんとか自力で抵抗していたが、最終的には助からないことを悟って泣き崩れてしまった。泣いても男は尻へのカメラ殴打をやめない。一向に下着は透けてこない。じゃあなんでこんなことをしているんだ。僕はあっけにとられながらも、そっとズボンを履き直した。再生が終わるまで同じ状況が続いていた。これはあまりにも赤裸々すぎる。こんなことがあってはならないんだ。いつだって、何をしていたって罪悪感の入り込む隙は残されている。これが僕なりの人間の証明だ。


 落ち着きを取り戻しはじめたころ、ヒッピーのクレイアニメをみていた。想像に難くないだろう。映っている画面が皮膚と髪の毛に覆われ、蠢いている。みんなして倣え右でストップモーションの虜だ。静と動というより、あっちもこっちも動きまくっている。気持ち悪い。趣味が悪いというのは当時最高の誉め言葉だった。彼らは自分たちの行いを完全に信じ切っていたから、美しい波の高鳴りに身を任せていればよかった。それで何かが変わると信じていたんだ。どんなことをやっていた連中だって反省の時期を過ぎれば、残された記録はとても痛切に思える。人が亡くなると誰もが優しくなるあのメカニズム。嫌いじゃないが赤裸々ではない。何も証明されない。すべては、公のもとに晒される義務があるはずなのだ。おおよそ盗撮をみていた奴の言動とは、自分でも思えなかった。だがジョークを言うよりはマシだ。アイツが戻ってきたら感謝されるか殺されるか。その二択でしかない。二択で好きなだけ悩んでいてくれ。僕はそのあいだにさっさと逃げ出してみせよう。奇襲でもされない限りは泣きだしたりしないつもりだ。つまり人の涙をみたければ奇襲しろということだ。すべてから学べ。そして忘れろ。僕たちは常に身軽でいる必要がある。夕焼けにまばらに雲がかかって工業油に浸かった毒薬みたいだ。告白なみに綺麗って言ってるんだ。

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