この眼鏡は……
私の名前は、伊達 勇。
年齢は五十二歳。
とある企業の部長職についている。
朝はいつも早めに家を出て、職場近くのお洒落なオープンカフェでモーニングを頼む。
軽く焼いたトーストとサラダ、スクランブルエッグだ。
そしてコーヒーではなく、イングリッシュブレックファースト。
少し濃い目でミルクを落としてもらう。
食事のあとは眼鏡をかけて新聞を開く。
この眼鏡はお気に入りのブランドだ。
フルリムのスクエアタイプで、色はダークブラウン。
気になる記事だけを読み終わるころには、出社にちょうどいい時間になる。
朝の挨拶を交わしながら、エレベーターに乗り込み、私の部署へと向かう。
みんな、今日も忙しなく仕事に取り掛かってくれている。
良い部下たちに恵まれている、と思う。
ある程度、仕事が落ち着くと、休憩室に置かれたカフェメーカーでコーヒーを淹れて飲む。
今日はこのあと書類を整備して、明日、訪問する取引先への確認メールを送らなければ。
などと考えていると、女性社員の柿崎さんと小松さんも、コーヒーを淹れにきた。
「あ、伊達部長、お疲れさまです」
「お疲れさま」
「部長、今日も素敵ですね。その眼鏡、とても似合っていますよ」
「そうかい?」
褒められて嫌な気持ちになりようがない。
私は年甲斐もなく、嬉しさで笑みをこぼした。
「でも部長、視力、良かったですよね? ひょっとして、伊達メガネですか?」
「そんなことはないよ。この眼鏡は、伊達じゃあない」
そう答えた途端、二人は突然、笑い始めた。
なにかおかしなことを言っただろうか?
「ふふっ……じゃ、じゃあ、それ、度が入っているんですか?」
「最近、視力が落ちたとか? んっふふ……」
笑いを押し殺しているようだけれど、言葉の端々に漏れているよ。笑いが。
「ああ。近視じゃあないんだけれどね。認めたくはないものだが、歳には勝てないと実感しているよ」
柿崎さんも小松さんも、色めき立ちながら「また出た!」などと小声でささやき合い、笑いを漏らしている。
そんなにウケるようなことを、言った記憶は……。
ああ、そうだ。
彼女たちは確か、アニメがとても好きだった。
きっと、私の言葉のなにかが、彼女たちが好きなアニメにでも出たんだろう。
彼女たちは、時折、そうやって勝手に盛り上がる節がある。
私も子供のころは、それなりにアニメもみていたし、面白いと思った。
しかし、そこまで夢中になることはなかった。
いつだったか、彼女たちと、有名なロボットアニメの話をしたことがある。
それはもう、驚くほどのマシンガントークで熱弁をふるわれたものだ。
そんなことまで? と思うほど、詳細までを記憶して、私に説明を続けたものだった。
あの勢いでプレゼンをしたら、すべての企画が通るんじゃあないかと思うほどに。
「あっ! そうだ! 私、A社への見積りを作らないと」
「私も、発注かけなきゃいけない案件が……それじゃあ伊達部長、お先です」
まだクスクスと笑いを残したまま、彼女たちは休憩室をあとにした。
思わず眼鏡を外し、眺めみた。
眼鏡一つで笑われることになろうとは。
けれど、これがないと、最近は特に困ることが多い。
読めないのだ。
新聞も本も、スマートフォンのメールも。
老眼というものが、これほど不自由だとは思ってもみなかった。
「明日はまた違うフレームにするか……」
予備に作ったフレームは、別ブランドのものだけれど、形も色も、今かけているものと差異はないと気づくのは、家に帰ってからのことだ。
-完-