1鞍目 レール
コミケ103 12月31日(日)小説出品します。続きが気になったかたは是非!東地区 ホブロック 40a
翌春、私はH農業高校へ入学した。
父が勧めたから。それは私の中で思考の放棄という張りぼてのレールを引くことに十分な事実だった。何の思考も働かせず、ただレールに乗ったのだ。
母や兄、悲しみの淵にある家族のことを考えると別の選択肢を選ぶべきだったのかもしれない。残された家族で手を取り合い、共に強く生活していくことを天国の父も望んでいたのかもしれない。
私は自分で決められなかったのだ。いや、決めたくなかったのか。どの進路が自分のため、家族のためになるのか。そんな大切なことから目を背け、私の目の前にあると思い込んだレールにただただ乗っかった結果なのだった。
全寮制であるH農業高校は寮と学校、同級生とは文字通り二十四時間の寝食を共にする。共にする時間が長いからこそ、自然と話が弾み、友達が出来るのだろうと思っていた。
変なことを言わないか? 恥ずかしい言葉を使ってないか? 相手は私のことを嫌いではないのか? 出会って間もない同級生と話すことに緊張する。嫌気がさす。気軽に話すことが出来ない。この感覚を人見知りというのだと、その時初めて知った。
小学校、中学校と友達を作るのに苦労をした覚えがない。わざわざ友達を作ろうなどと意識したこともない。自然と話し、ふれあい、人間関係を育んできたのだ。
(なんでここでは自然に出来へんのや?)新しい場所や環境のせいだったのだろうか。父の遺体を目の当たりにした時、新たに芽生えた自分だったのだろうか。
人見知りが設置したいくつもの障害物を乗り越え一ヶ月後にやっとたどり着いた先で得たものは、寝食を共にする同級生達とやっと自然と話せるようになった事であった。こんなもどかしい一ヶ月を過ごしている間に新入生達は仮入部期間を終え、本格的に部活に打ち込み始めていた。
人見知りとは厄介なものだ。
「馬術部に入りたいです」
馬術部の練習場に行き、先輩の誰かにこの一言を伝えるだけ。こんな事が出来なかったのだ。馬鹿馬鹿しい、本当に馬鹿馬鹿しいなと今になっては思う。
馬に乗りたいという昔からの願いをかなえられる環境、父に勧めてもらい選んだ高校。何のためにこの高校へ来たのだと思った。
馬術部に入部できなかった私は、目の前に敷かれたレールに乗った。五月にルームメイトの奈々瀬に誘われるがまま、なぜか茶道部に入部した。
放課後の時間をただ過ごすだけの手段となっていた興味の湧かない茶道部活動はあっけなく終わりを迎えた。入部後二ヶ月ほどたった頃、奈々瀬が他の部員と揉めた。
「響はどっちが正しいと思う?」
奈々瀬は喧嘩相手に怒りをぶつける延長で私に質問してきた。正しい方はどちらかという問いには私なりの答えがあった。ただ、それを二人に伝えることに戸惑いがあった。戸惑い続けた。何分も。
「もう、ええわ」
このままずっと話し出さないと思われたのだろう。奈々瀬は私から視線を外した。二人は自分の意見をぶつけ合い続けた。
次の日から私は部室に顔を出すことは無くなり、幽霊部員となった。どちらが正しいと思うか問われただけの私は気まずさから部活を休んだが、本人たちは当然のように放課後部室に向かっていた。あのいざこざは仲を深めるためのアトラクションだったといわんばかりに、傍目に見ても以前より距離が近づいたように思えた。
夏休みは実家で過ごした。高校生活のことは母から聞かれたことのみ返す程度で、自分から話すことはなかった。毎日のように母と兄と三人で食卓を囲んだが、初盆の法要の時だけは多くの人と会食をした。盛大なお供え、僧侶の読経、送り盆。お墓参り以外の事に何の意味があるのかは全くわからなかったが、多くの人に「故人も喜んでいる」と声をかけられた。父が最も喜ぶことは母と兄と私と、四人で食事をすることだと思った。もちろん口には出さなかったが。
高校の寮へ戻る前日、兄から突然話しかけられた。
「おまえ、何のために今の高校に行ってんねん」
私はいつものように何も答えなかった。自分で自分に問いたい質問だった。
寮を目の前に嫌な感覚が脳裏をよぎった。人見知りへの恐怖。
(休み前みたいに普通に話せるんかな?)
そんな気持ちは奈々瀬の何気ない一言で吹き飛んだ。
「夏休み、何してたー?」
その何も飾らない一言は人見知りへの恐怖だけでなく、茶道部での一件で残った少しのわだかまりさえ吹き飛ばしてくれた。
三学期、私は馬術部に入部することとなった。
顧問とうまく折り合えなかった部員たちが数名退部し、一年生は残り二人となった。新入生が入学する前に同期の部員を増やしたいと勧誘に動いた歩美が目を付けたのが私だった。充分なほど時間を持て余していたから。タイミングを逃し、もう半ば諦めていた馬術部の入部。突然、望むレールが敷かれたのだ。
馬と触れ合うことはとても楽しかった。入学直後に入部しなかった後悔があった分、反動として喜びが一気に押し寄せた。
初めはただの冷やかしかと季節外れの新入部員へ懐疑の目を向けていた上級生たちもいつしか分け隔てなく接してくれた。馬の飼育を手とり足取り教えてくれ、新たな一年生が入部するころには何とか一人で馬に乗り、歩かせる事が出来るようになった。
速歩で何度も落馬する私を新入生たちは不思議に思っただろうが、馬に接し乗馬スキルが上達する毎日はとても刺激的で楽しかった。
馬たちと共に彩られた一年半はあっという間に過ぎ、高校馬術部最後の大会を迎えた。
馬術のインターハイである高等学校馬術競技大会。その県予選が高校時代に出場した最初で最後の馬術大会だった。各校の代表三名の合計結果により勝敗が決する団体戦だ。私は同級生二人と比べると大きな実力差があった。約一年、打ち込んだ時間に違いがあるのだから当然と言えば当然。下級生には中学時代から始めていた馬術経験者もおり、実力順に代表を選べば補欠の席が順当だった。しかしその彼は「先輩の最後の大会ですから」と私を代表入りに薦めてくれ、団体戦を組む同級生二人も快く私を迎え入れてくれた。私以外の三人でチーム編成を考えていた顧問も本人たちの意思を尊重し三年生三人チームでの出場となった。
引退を控えた三年生の思い出作り出場。わが校はこの考えがまかり通る程の弱小校であり、他の出場校との実力差は明らかだった。県大会を勝ち抜き、全国大会への出場を決めるには複数の奇跡が必要だと全員が感じていたのだろう。意義を唱える者は誰もいなかった。
あと一つ、これは卒業前に知ることになるのだけれど、私を代表に薦めた下級生は私に好意を寄せてくれており私情を存分に含んだ推薦だったようだ。そう『ええカッコ』をみせたかったのだ。代表を譲ることがカッコいい事なのかはさておき、彼のいかにも高校生らしい動機と行動にはラブではないが愛おしさを感じた。
馬術には大きく分けて〈馬場馬術競技〉〈総合競技〉〈障害飛越競技〉の三種類の競技があるがインターハイ予選は障害飛越競技で行われる。コース内に設置された十三個の障害を定められた順番で越えていく。
障害を飛ぶことを拒否すれば反抗減点、飛越の際に馬の体が当たり障害の一部が落下すれば落下減点、また定められたタイムをオーバーするとその時間毎に減点が加算される。決められたコースに並んだ障害を、止まらず落とさず時間内にゴールすれば減点なしとなる。反抗が三回に達すると三反抗失権、競技中に馬から落ちると落馬失権、障害を飛ぶ順番を間違える経路違反は一発で失権となる。
障害には高さのみの垂直障害、高さに加え幅もあるオクサー障害、そしてダブルまたはトリプルという連続障害がある。一または二完歩間に設置されたA・Bと続くものをダブル、Cまで続くものをトリプルと呼ぶ。連続障害はAB、またはAからCを一つの障害と考えるため、後半の障害で停止してしまった場合はAから飛びなおす必要がある。
多くの馬術大会では人と馬がセットでエントリーをする。競技に向けて人馬で練習を積み意思疎通をはかり本番を迎える。しかしこのインターハイ予選では貸与馬といわれる大会側が準備した馬、すなわち同じ馬で競うという人の技術に焦点があてられたルールが採用されていた。
貸与馬で団体競技を行う場合、出場する馬と選手の相性を見極めて誰がどの馬に騎乗するのかオーダーを考えるのが定石だ。
「私、白い馬がいい!」
歩美のまっすぐな一言でわが校のオーダーは決定した。乗りたい馬に乗る。いたってシンプルな決定方法。もちろん異論を唱える者は誰もいなかった。
そうして決定したわが校のオーダーで、私はアルフォンスという栗毛の大きな馬に騎乗することになった。歩美は真っ白のメモリー、もう一人の貴也はガルダという黒鹿毛の馬で挑むことになった。
馬名にはそれぞれの名付け親の気持ちがこもっているからなのか、何年後でも思い出せるから不思議だな。
三校で競う一回戦
「七番 西宮響選手 乗馬アルフォンス号 H農業高等学校」
私の出番がやってきた。前に走行した歩美と貴也を含む六選手の結果で、すでにH農業高校の一回戦敗退は決まっていた。歩美とメモリーは落馬失権、貴也とガルダは減点二十。私が減点ゼロであったとしてもすでに他二校に追いつくことはできない。初めての馬術競技はこの上なくプレッシャーのない状況で出番が回ってきたのだった。
私の頭の中は完全に思い出作りモードに入っていた。大会に挑む前から多少そうであった事は否めないが。
このリラックスが良い方向へ作用したのか、私とアルフォンスは順調なスタートをきり序盤の障害を難なくクリアしていった。中盤に配置された垂直障害で落下、ダブルで一反抗があったものの最終障害のトリプルまで進むことが出来た。
トリプルのBで二度目の反抗、再度チャレンジしたトリプルのCでまた反抗し三反抗失権。私とアルフォンスはあと一つの障害を越えることが出来ず競技終了となった。
「ナイスファイト!」
「惜しかったですー」
「初競技とは思えない騎乗だったよ」
初の競技を終えた私に部員たちは様々な言葉をかけてくれた。
アルフォンスで出場した他二校の選手は二人とも減点ゼロだった。明らかな人の実力不足だったが、悔しさよりも充実感が勝った。
馬術部を引退した二学期。私は周囲に大きく出遅れながらやっと自身の進路問題に向き合うことになった。
北海道にあるR学園大学。全国の農業高校へ指定校推薦という各校一・二名の推薦枠を実施していた。簡単な小論文と、申し訳程度の面接の結果、見事合格。お察しの通り、初めから九割方結果が決まっているのが指定校推薦枠だ。
クラスで下位を争う学力だったのだけれど、何故か失敗するとは考えていなかった。できる限り受験勉強をせず、馬術部のある大学へ入学する。私の浅はかな青写真は見事思い描いた通りとなった。兵庫県を飛び出し、遠く離れた北海道で一人暮らし。そして私立大学の入学金と毎年の学費。裕福ではなかった我が家には大きな問題だった。
卒業後に自分で返済をすることを条件とした有利子の奨学金を毎月の生活費にあてる事と、昨年亡くなった祖父のわずかばかりの遺産を授業料にあててくれる事で私の大学入学は決まった。
高校卒業と同時に働きだした兄、父亡き後一馬力で家庭を支えてくれた母。こんな二人に甘え、祖父の遺産まで使いながら決めた進学。R学園に決めた理由だって入試が簡単だったことと馬術部の存在のみだった。罪悪感には気づかないふりをした。
安易な理由と、家族の好意に甘えた選択。しかしその選択は父の死後、私が初めて自分自身で決めた選択だったと思う。非常に小さなものではあったが初めてレールを自分で敷いたのだ。
進路も決まり高校卒業までの日程が迫るころ、定期的に行われる寮の部屋替えで久々にルームメイトとなった奈々瀬と思い出話に花を咲かせた。
「実はな、一年のころ響の事しょーもない奴やなってずっと思っててん」
いくら深夜の妙なテンションの真っただ中にいたとはいえ、若干ショックを受けたな。
「だって響は自分の意見言わへんかったやろ。同意見の時はイエス、反対意見の時はずっと無言で戸惑う。相手の事を思うからこそってのはわかってたけど、まぁ一緒にいておもろいとは言えんよな」
意外だった。奈々瀬がここまで私の事を見抜いているとは思わなかったから。
「でも、馬術部に入ったころから変わり始めたよな」
「そう?あんまり自覚ないけど」
「馬に変えられた女、響」
「やかましわ!」
「それそれ! ちゃんとツッコんでくれるようになったしな! 今は大好きやで響!」
奈々瀬はそう言うと、おもむろに私のおっぱいをモミモミしてきた。
「やめい!」
「アハハ。やっぱえぇもん持ってるわー」
それはツッコミに対して? おっぱいに対して? 聞き返そうと思ったがやめた。私はA寄りのBだ。
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