0鞍目 馬、乗りたいんやろ?
兵庫県T市。阪神競馬場から歩いて十分の土地に産まれた私が競馬に興味を持つことは当然だったと思う。父も、近くに住む親戚も皆競馬好きだった。私は覚えていないが、近所の公園に行くよりも競馬場に行った回数のほうが多かったと母から聞いた。
競馬場には綺麗な芝が生えそろった緑の丘と呼ばれる広場や、ピョンピョン山と呼ばれる大きめのゴムボールがたくさん敷き詰められた遊具など、子供心をくすぐる遊び場がそろっていた。競馬が開催される週末だけでなく、平日も陽がある時間までは開放していたのだから、これはもう家族ぐるみならぬ地域ぐるみ……いや、JRAという組織ぐるみで私に競馬好きの英才教育を施してきたのだ。
子供の頃から競馬なんて! と非難されても「状況から判断し、致し方なし」との判決を得られる自信があった。
そんな競馬にのめり込む環境が整った中、英才教育に染まらなかったのが二歳上の兄だ。兄は何故か阪神タイガースに熱をあげ、少年野球チームに所属していた。
もちろん全ての子供たちが競馬に染まることなんてありえない。しかし井の中の私には、なぜ競馬が好きでないのか本気で信じられなかったんだと思う。
家に一台あったファミコンは兄のファミスタと私のダビスタで取り合いになっていた。父は馬も阪神も好きだったから、よくお互いのゲームに付き合ってくれた。母に「お互い一時間だけよ!」と注意されていても「ママには秘密やでー」と言いながら母不在の祝日には三人でゲームまみれの日中を過ごした。午前中は私と最強馬を目指しレース結果に一喜一憂。父の得意料理である玉ねぎのみじん切りがふんだんに入ったチャーハンを食べた後は、永遠に父と兄の対戦を見守る。兄がタイガース、父はジャイアンツ。伝統の一戦は十戦以上続く。私は野球に興味がなかったが、兄と父の対戦だけは何故か楽しく観戦していた。
きっと母もこの内緒のゲーム三昧には気づいていただろう。ただ父とのゲームには何も言わなかった。
その代わりなのか、一人で約束の時間をオーバーした時には容赦なく近くで掃除機をかけはじめる。案の定、掃除機のヘッドはファミコンにあたりデータは全て失われる。
「ごめんごめん」と謝ってはいたものの、あれば絶対わざとだった。子供でもそのくらいのことは気づく。
ナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎打ちとなった阪神大賞典。土曜日開催とは思えない大観衆が訪れ熱狂した歓声は、兄の少年野球の応援ために訪れた小学校のグラウンドまで響き渡った。
(野球の応援よりも競馬観戦に行きたいんやけど……)いくら子供とはいえ、私にだって口に出していいものとそうでないものくらい区別はつく。気持ちや言葉を飲み込むことで少し大人になった気がしていた。
中学生になって、希望は飲み込むものだと思うようになっていた。障害が大きければ大きいほど。
(競馬場の乗馬少年団に入りたい)
父は私の選択をなんでも後押ししてくれる人だったからこそ言えなかった。経済的に裕福とは言えない家庭だったからだ。少年団に入るには金銭面の負担が大きいことは、子供ながらに理解していた。もしかすると父は無理をしてでも少年団へ入らせてくれたかもしれない。もしくは、「応援してあげられなくてごめん」と私に詫びるかもしれない。
そんな言葉を言わせるわけにはいかないと思っていた。馬に乗れない事よりも家族を悲しませることの方がつらいだろ、と自分に言い聞かせた。
今思えば、競馬場の少年団じゃなくても経済的に優しく乗馬を習うことは可能だったかもしれない。父に相談していれば何か新たな選択肢を与えてくれたかもしれない。全てを正直に話して父や母と色々な話をした方がよかったかもな。今更ながら未練を感じることもある。
「響、これ見てみ」
中学三年生の春、父にパンフレットを手渡された。兵庫県のほぼ真ん中に位置するK市にあるH農業高校のものだった。自宅からは中国自動車道を飛ばして一時間以上の距離。公共機関を利用すると二時間以上はかかるだろう。どう考えても通学することはできない学校だ。
不思議に思う私に対し父は言った。
「見ろ、馬術部があるで。馬、乗りたいんやろ?」
飲み込んでいた希望なんて、父や母には手に取るようにわかっていたのだろう。
「でも、遠すぎて通学できへんで」
「H農業高校は全寮制や。お父さんは響と会えないなんて寂しすぎるから反対なんやけど、ママは響が行きたいと思うならって言ってる。どないや?」
どこまでが本心でどこまでが冗談か、父は時折わかりづらい。でも、どんな時でも私の選択を後押ししてくれるのが父だった。しかもお財布にやさしい公立高校だ。入学を目指さない選択肢はなかった。
小学生の頃は華やかなジョッキーを夢見た。中学生になると視力の悪さや、女性ジョッキーがいかに稀有で難関な存在かなど色々と見えてきた。ジョッキーは無理でも何か馬関係の仕事に就きたいと考えていた私が受験勉強に本腰を入れ始めた秋、父は帰らぬ人となった。
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