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梔子凛のSS  作者: 梔子凛
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7.麗しき曖昧耽美

 耽美の極みは淑女の嗜み。


 皆目。遥か古より春は曙と歌われて来た。柔らかな暖色を宿した朝焼けは緩やかに世界を照らし、その存在の尊さを大衆の認知のもとに舞う。群青を運ぶ鳥たちはその姿を淡い大空へと羽ばたかせながら天刻の調べを静寂に落としていく。


 閑散は永遠のものではない。まるで時が止まったような静けさの中に身を置こうと、時計は粛々と、けれども傲慢に針を進める。朝日の上昇がその事実を真にした。


「とても素敵な音色。小鳥さんたちの奏でる旋律はいつだって人々に笑顔を届けてくれるわ」


 彼女は、姫君は今日こんにちも窓の柵に身を寄せている。輝きの満切みちきらないグラデーションの鮮やかな大空を見渡しながら人々の生活の色の変化を体感し、楽しむ。それが姫君の日課であった。小鳥たちがメロディを生めば、姫はその音色に同調するように口を開き簡素な振動に華やかさを加える。色とりどりの旋律はたんぽぽの綿毛のように風に乗って遥か遠方まで、彼女の声と共に人々の生活を豊かにした。


 やがて日がすっかり昇り切ると、彼女は窓から身を引き顔を洗って鏡の前へと躍り出る。まるで夜空に浮かぶ星々のような希望を放つ金色の髪に、宝石のような翡翠の瞳。それはまるで作り物のようだと感嘆の言葉が飛び交うほどに、姫君は底知れない美しさを纏っていた。その美麗さをより強調するように、蒼月の如く揺らめくドレスの装飾が彼女の纏う光を完全なものとする。


天空姫てんくうひめ


 名前を呼ばれて彼女は肩を揺らした。動きに合わせて、彼女の長い髪がふわりと浮く。


 声はどうやら部屋の扉の向こうからのようだ。姫君にはその声の主が何者か気づいている様子だった。


「本日は城下町へと赴くお約束でしたね。折角のお休みです。朝食の支度はもう済んでおります故、姫君の御支度が整い次第、食事をして出発しましょう」


「わかりました。下がりなさい爺や」


「御意でございます」


 彼女は執事の足音が扉の前から無くなるのを確認して、鏡の前でくるりと回転する。ドレスの裾がまるで花開くようにふわりと広がる。


「ふふ、城から出るのなんていつぶりかしら。早く彼に会いたいわ」


 両手で裾を持ち、鏡に向かってお辞儀をする。その様はまるで花々に囲われる蝶のように煌びやかだ。軽い足取りでステップを踏みながらその場で腕を振り、回転し、地に足を滑らせる。


 彼女は殿方との舞踏を想像しているのだ。


 そして彼女には相手方として思い浮かべる殿方が、既に存在しているのである。











 彼女が煉瓦の道を歩けば、その足音のリズムで大道芸人たちが楽器を奏でた。フルートやフォークギター、ベースにキーボード。視界に入ってしまえば最後、世の男性は皆、彼女に夢中になってしまう。しかも旋律に合わせて、彼女は楽しそうに、軽やかにステップを踏み出すものだから、男衆は調子に乗って更に楽器を激しく扱い出すのだった。


「天空姫が下町にいるなんて珍しいね!」


 踊る彼女は町中から注目の的だ。騒ぎを聞きつけてやってきた街の子供達がキラキラとした笑顔を携えながら彼女の周りを囲うようにして飛び跳ねて喜んだ。


「こら! お姫様になんて口の聞き方ですか!」


「良いじゃん! ねえ、良いよね天空姫!」


 それを聞きつけた母親が子供たちを叱りに飛んでくる。その様子を彼女は微笑ましそうに見つめていた。


「すみません、しつけが足りていなくて。しっかりと言って聞かせますので御慈悲を」


「顔をあげてくださいマダム。わたくしはこの通り、怒ってはおりません。むしろ国の子供達に愛されてとても幸せですわ」


「ありがたきお言葉です」


 頭を下げる婦人の額に口付けを落として髪を撫でる。


「とても手入れの行き届いた素敵なヘアスタイルですね」


 婦人は顔を赤ながら一礼し、その場から身を引いた。


 城下町の人々は何にも変え難いものだと姫君は父から教わっていた。父とはこの国の王様である。王は民からの忠誠と民の救済を絶対のものとしていた。貧しい者には職を、孤独な子供には家族を、声の上がる者たち誰一人差別せず王は民の幸せを約束し、有言実行した。そうして確かな忠誠を手に入れてきたのである。


 姫君はそんな父を本気で尊敬していた。麗しさとは心の在り方なのだと、教わるよりも以前に彼女が理解していたのは父の影響であった。


「姫君! おいでになっていたのですね!」


 背後から知った声が聞こえて、彼女は喜びを隠すことなく振り返る。そこには貴族とは程遠い薄汚れた作業着を着た青年が頬に流れる汗を拭いながら現れた。その姿を確認した彼女は、より一層大きな喜びを顔に浮かべ彼へ向かって走り出した。


 この時の彼女は、鏡の前でお辞儀の練習をしていた事さえも忘却の彼方に失っていて、女性らしさも麗しさも、貴族としての在り方も捨てて、誇りまみれの彼へと飛び付いた。


「ジョン! お久しぶりです!」


「天空姫、こんな人前で恥ずかしいですよ」


「何を恥ずかしがる必要がありますか! わたくしはもう、貴方に会いたくて仕方がなかったというのに」


 彼を抱く彼女の手に力が入る。彼もその想いに強く応えるように彼女の背へと手を回した。


わたしもです。私も姫君とお会いしたく……」


「名前! 名前で呼んでいただきたい!」


「……天空姫とお会いしたく思っておりました!」


 肩越しに聞こえるお互いの声は近いようで遠い。しかしその手は間違いなくお互いを掴んでいた。


「それで返事は……」


 天空姫が言葉を発して躊躇う。一瞬訪れた沈黙には、しかし寂しさは無く、周りで相も変わらず流れるメロディが二人のムードを保たせてくれる。


 そして彼らの奏でるたおやかな音色に背中を押されるように彼女は言葉を続ける。


「この間の、返事を聞かせていただける?」


 不安げな彼女に反して、彼はすぐに言葉を返した。


「覚悟は決まりました」


 彼の手が抱き合っていた彼女を一時的に引き剥がす。そして一歩身を引き跪くと顔をあげた。


「この先、貴方に待ち受ける全ての困難や障害から全力で御守りする事を誓います」


 目に涙を浮かべる彼女の手を取り、青年は精一杯の笑顔を作る。


「私と、結婚してください」


 その瞬間、彼女が返事をするよりも先に周囲から多大なる歓声があがる。それにビックリした彼女は一筋の涙を流したのちに跳ね上がり彼の手の中へと体を収めた。


 周りでは男も女も子供も皆、手を振り上げ跳ね回って喜んでいた。大道芸人たちが幸福のファンファーレを奏で、それに合わせて小鳥たちもが祝福の歌を響かせる。


 青年はそのどさくさに紛れ、手中に倒れる姫君へと口付けを落とした。そして姫君は口付けはそのままに、そっと彼の頬へと自らの手を添えた。


 耽美の極みは淑女の嗜み。


 しかしそれは派手なドレスを着飾る事でも軽やかな舞踏を披露する事でもない。ましてや上辺だけの善人を演じるなんてもってのほかだ。大切なのは心。王は、そして天空姫は知っている。心の在り方を極める事こそ耽美の極みなのであると。

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