2.たそがれた未来
沈み行く夕陽を眺めながら、私は不覚にも余生について考えていました。
時というものは優しくも残酷で、平等に流れる代わりに必ず死を運んできます。思い返せば短く感じられた私の人生も気付けば八十年の月日を刻んでいました。余生、余るところ十年が関の山でしょうか。正直残りの人生のことを思うと、安心するような不安になるような、何だかまとまらない感情で心がぐちゃぐちゃでした。
「ほら或太射。晩御飯の支度しなくちゃいけないから、早く帰るよ」
「まま、いまからつくるのたいへんだとおもうし、きょうはおすしでもいいよ?」
「バカなこと言ってないで早く支度する!」
しかしそんな言葉にしようのない焦燥感を抱えているはずなのに、私は今、公園のベンチに座って呑気に夕陽を眺めている。時に、周囲で遊ぶ子供たちを夢中になって目で追いかけたりなんてしています。結局、何を思ったところでやりたい事もないし、この歳になってしまうと出来ることも少ない。つべこべと言っていないで、老人らしく呑気に過ごすことが結局は一番なのです。
しかし、そうと頭ではわかっていても少し時間が過ぎればきっと私は繰り返し同じ悩みを抱えるのでしょう。そしてきっと、それも私の運命と呼べるべきものなのです。そういうものだ、と思えば割り切れるでしょうか。
「ねえ、おじいちゃん」
声が聞こえてきて顔を上げると、目前には先程母親と会話をしていた小学校低学年くらいの男の子が立っていました。この距離になるまで気がつかないとは、私も耄碌したものです。
「おじいちゃん、元気ないの?」
彼は優しい声色で、私にそう聞いてきました。
いけませんね。こんな子供に悟られてしまうくらい私は死に恐怖していたのでしょうか。恥ずかしくて顔から火が出そうです。
それはそれとして、この少年は中々肝が据わっている。夕暮れ時に絶望的な表情でベンチに佇む老人など、それこそ恐怖以外の何者でもありません。それに対し何の躊躇いも無く声をかけるとは、将来大物になりそうですね。
「すみませんね坊や。何も嫌な事があったわけではありません。私はただ、そう、ただ考え事をしていたんですよ」
「かんがえごと? たしざん?」
なるほど。このくらいの歳の子は考え事、といったら勉強が真っ先に結びつくのでしょうか。私にはその頃の記憶は殆ど無いので、真偽の程は定かではありませんが。少なくとも彼の世界ではそうなのでしょう。
私は彼を安心させるために笑顔で頷きました。
「はい、そのようなものです」
「わかるよ、そのきもち。ぼくもさんすうきらいだから」
なんと、今の低学年の子達は相手に寄り添い共感する力があるのですか。それとも先程いた親の教育の賜物でしょうか。
なんて考えていたら向こうから母親が全速力で向かってきました。
「何やってんの或太射! 帰るって言ってるのに、ダメでしょ勝手にどっかいっちゃ!」
母親は男の子の前でしゃがみ込み目線の高さを合わせるとその子の頬を軽く叩いてしまいました。
それを見て、私は或太射と呼ばれていた彼が声をあげて泣いてしまうのを想像していましたが、実際はケロリとしていて、寧ろハキハキと返答するその姿にまたしても感動してしまいました。
「ごめんなさい。でもこのおじいさん、とてもかなしそうなかおをしてたから……。ぼくたすけてあげたくて」
「奥さん、とても優しいお子さんをお持ちですね。彼が真摯に話をしてくれたおかげで、私は幾分も心が救われました。ここは、彼の優しさに免じて、あまり強く叱ってあげないでいただけませんか?」
余計な口出しはしないつもりでしたが、私の口はとっさに彼を庇っていました。
それを聞いていた少年は露骨に嬉しそうに私へと目配せをしてくれました。そして母親もどこか安堵するような、誇りを思っているような温かな眼差しを少年へと向けてくれました。
こういった温かい場面に出会した時、私はより一層、人という存在の意味を強く実感します。相手を思いやり、助け合う。ただそれだけの事で今私たちは皆幸せな気持ちになる事ができた。きっとそれだけで、それだけで良いのだと、私はしみじみと思いました。
「そうだったのね。叩いたりしてごめんね或太射。……あの、息子がお邪魔してしまってすみませんでした」
「おじいちゃん、ばいばい!」
幸せだった空間が時の進行に沿うように流れていく。先ほどより一層、傾きを増した夕陽が暗闇の時を望むかのように行動を加速させてしまいます。
しかし私は今、いつか必ず訪れるであろう暗闇を前に一歩もひけを取るつもりはありません。あの少年のような明るい未来がこれからを彩るピースになるのであれば、老いぼれが退散することは摂理。
もしかしたら明日は、明後日は、また震える夜が戻ってくるかもしれません。しかしそれでも私は今感じている将来への期待を信じたい。私の見た希望を、信じたいのです。