旧家の事情③
おやつをテーブルに準備していても、ラランカが部屋の奥から出てこない。
ばあやはすこし待ち、ポットにいれてきたお湯がぬるみはじめてから、ようやくうごいた。
「お嬢様、飲みものがおいしくなくなってしまいますよ」
声をかけながら、ラランカが自分で壁紙に描いたさまざまな花の絵で彩られた寝室へとはいっていく。
ガーベラの花のかたちをしたオレンジ色のまるいベッドのうえでラランカはうつ伏せになり、白い入道雲のようなもこもこの枕に顔を埋めていた。
「お嬢様」
「もう…学校には、いきませんわ」
友だち問題だとおもっていたばあやは旧家の子供たちも一緒に入学しているため、一族のなかで同年の生徒からまずは友だちになってみてはと励ましの声をかけた。
すると、意外な返答がラランカからあった。
旧家のひとたちとは、絶対に友だちにはならない。
だって、ちゃんと授業中にすわっていない。
どういうことかわからず、ラランカの学校生活二日分の内容をきいたばあやは仰天したのである。
通常授業がはじまった昨日、一時限目の科目は魔術だった。
出席確認がおわったあとラランカは、はりきって待っていた。
そのあとはきっと、ひとりひとりが自己紹介をすることになると家の者たちがいっていたのである。
生徒の確認がおわった先生がつぎにいった言葉は自己紹介ではなく、旧家のひとたちはこの授業中は自由時間ですというものだった。
教室内の半分ほどの生徒が席からたちあがり、ラランカも遊ぼうと誘われた。先生も遊んでいいといったが、授業をうけにきているラランカはことわった。
授業の内容がわからなくても席にちゃんとついていると、父親や家の者たちと約束していた。
半分の人数になった教室で、ラランカは自己紹介のあいさつを待っていた。
しかし、そのあとすぐに授業となってしまった。
練習をしっかりしてきていたラランカはがっかりしたが、家の者たちもきっとといっていたので、はじめての授業で自己紹介のあいさつをするのは絶対ではないのだろうとおもうことにした。
人数も半分くらいになってしまっている。全員そろったときにやるのだろう。
授業へと気持ちをきりかえたラランカは、ドキドキとしながら先生の言葉を待った。
父親も家の者たちも「魔術入門書」が教材として配られているため、はじめの一週間は入門書の復習だろうといっていた。
学校教育がはじまるまえに、ほとんどの生徒は入門書にのっている十二題をおわらせている。十二題目となる [ながれのむき]、そこで判明する自分の属性がなんであるかを知って魔術学校へ入学するのだ。
ラランカは四歳になるすこしまえ、三歳から母親と一緒に「魔術入門書」をはじめた。
病気で寝ていることが多い母親に無理がないよう、一題ずつゆっくりとすすめていった。五歳で三題目がおわり、そこでラランカは入門書を一度とじた。
母親が亡くなったためである。
沈みきっていた家のなかがすこしずつ元気になってきたころ、ラランカに父親がいった。
「魔術入門書」を今度は自分とやろう。
ラランカはこの誘いをことわった。
十二題が全部おわらなかったときどうするかは、母親と相談してそれからのことをふたりで決めてあった。父親や家の者たちには、仕事がある。
ひとりですすめることがふつうであるようだったが、ラランカはだれかと見せあいながら、はじめてやる魔術を一緒にやりたかった。
ラランカは今後の決定している予定を、父親にはじめて発表した。
学校の魔術の授業のはじまりは、かならず入門書の復習からはじまる。
自分は、その復習の時間ではじめて四題目以降をやる。
ついていけなかったら、家に帰ってきてから特訓をする。
学校の授業がはじまった一週間後に、みんなに自分の属性がなんであるかをみせる。
実力で魔術師資格をとってみせる、とラランカはしめくくった。
そのあとも、父親からは何度も入門書の先の課題をやろうと声をかけられたが、ラランカは学校でみんなとやるといって、母親と約束したべつのことをがんばっていた。
ラランカもやりたくなかったわけではなく、学校がはじまり勉強を再開する日を待っていたのである。
自分の属性は何であるか、ラランカも気になっていた。
魔術の授業は、全員がいっていた通り「魔術入門書」の復習からだった。
一度に何題ずつ、すすめていくのだろうか。
ラランカはついていけるか緊張した。
前日に家で練習してきた、一題目のシャボン玉の魔術印をはじめての授業で書こうとしたとき。
ラランカは、ばあやにいった。
「先生が、わたくしはやらなくっていいって、いったんですわ。わたくしはやりたいといったのに、全部とりあげられました!」
全部というのは、机のうえに用意した勉強道具一式。自分で持っていった、母親と一緒にはじめた「魔術入門書」もとりあげられた。
まさかと、ばあやはラランカの通学鞄を確認しようとした。しかし、話にはつづきがあった。取りあげというのは一時的なものであり、授業がおわったらすべて返してくれたそうだった。
そして、ほかの授業もほとんどそうなのだとラランカがいう。
ラランカが何かを書こうとしたりすると、机のうえのものをすべてとりあげられる。何もしなくていいといって。
そして、授業がおわると全部もどってくる。
昨日は文字の書き方の授業だけは、教室に残っている半分の生徒たちと一緒のことをラランカもできた。今日の授業は全部ダメだった。
「お勉強ができません! もう学校にはいきませんわっ」
友だち問題だろうとおもっていたばあやは考えもしなかった事態に、この二日間の学校生活でなにがあったのかをラランカからもう一度よくきくことにしたのだった。
ラランカの父親とフェーベルが仕事からもどるまでのもう二日間で、ふたりは初期の挑戦をいろいろと試した。しかし、学校で勉強をすることができない問題は解決しなかったのである。
ラランカの学校生活はうまくいっているか、友だちは何人できたのか、心配しながらも報告をたのしみに帰宅した出張組は一連の出来事をはじめて耳にしたとき、家の者たちの冗談だとおもったそうだった。
冗談ではないことが大問題になっていた。ばあやが苦戦していたことは、相手側は善意らしいというところにあった。
教員がラランカに声をかける際、こう発言するのだそうだった。
体に障ることになったらよくない。
魔術の授業で毎回のようにいわれるらしく、旧家当主の子供として魔力消費を気遣ってくれているのか、あるいはラランカの母親の出来事を理解しての配慮であるのか、とにかく善意的な配慮の結果であるらしい。
ほかの勉強については旧家の人間は勉強しなくてよいと、なぜかいまはそうなってしまっているようだった。
三日に一度ほどある、文字の書き方の勉強しかできないと不満全開のラランカをまえに、出張組もその日から頭を悩ませることになったのである。
前当主は自分が出ていくとよりまずいことになりそうなため、それからしばらく、ラランカの学校でのうけこたえと待遇の修正をおこなう伝え方の問題に取り組むことを決定した。本家内で立ち働いている者たちも全員参加として。
きのうは、たくさん眠ったので大丈夫です。
シャボン玉を十個連続でつくっても、つかれたことはありません。
家で授業のことをきかれるので、自分も勉強がしたい。
ラランカの学校での目標は、大幅に変化したのである。
学校でふつうに勉強をする、というものに。
そして、この目標は達成される見通しがついていないのだった。
そこまでの話をじっと聞いている一同へ、ラランカはいった。
「せめて試験だけでもきちんとうけようとおもって、わたくしは先生に挑戦までしたのですわ。それで完敗してからは、敗者として大人しく卒業待ちです」
「試験に挑戦って…。試験すらうけさせてもらえない、なんてことがあるの?」
怖々といったようすでたずねたネイトに、ラランカはこたえた。
試験日には、無人になっている席にも授業開始と同時に試験用紙が配られる。授業終了ですべての席から答案用紙が回収され、翌日の結果発表で全員満点となるのである。
「…」
ラランカのいう挑戦とは、まだ授業中の教室に半分の生徒が残っていたころ間違っている解答でも満点となって返却される結果に不満がつのり、挑戦状をたたきつけたことだった。
解答用紙が行方不明になるとこまるため、名前だけを丁寧にしっかりと書き、あとはすべて白紙で提出したのである。
「……それを、やったの? 本当に?」
「これで点数をつけられるものならやってみなさいと、わたくしは先生に挑戦したのですわ」
それでどうなったのかと、ワルツがきいた。
「名前が書けていたからと満点でしたわ」
「…」
「それって、空欄のところは先生が正解を書いているってこと?」
ネイトからきかれ、ラランカは首を左右にふった。
あのころは、提出したものに最高点がつけられて返却されていた。そのため、ラランカは問題用紙と解答用紙を一緒にばあやへ再提出し、正しい採点をしてもらっていた。
ラランカの挑戦であった答案用紙白紙提出にもかかわらず満点返却の一件で、ばあやは完敗をラランカへ通達したのである。家で正しい勉強をしましょうと。
それから、ラランカは平日帰宅すると学校であった出来事をすべて家の者たちへと話し、学校生活の非常識をその日のうちに修正することが日課となっている。
「どこの学校だ」
「ちょっと、待ってください。あのころ…っていったよね。いまの学校で解答用紙はどうなっているの?」
返ってこないとラランカはこたえた。試験終了時に回収され、あとは結果発表がおこなわれるだけである。
待って…と、ネイトが頭をかかえこんだ。
いつだったか、妹がそんな話をしていた。最近は解答用紙が返却されなくなったようで、用紙への記入ではなくなったのかもしれないというようなことを。
「…ヨネットの学生時代か?」
「僕の宝物の甥っ子くんの話のときです」
甥のリナルドが試験でよく満点をもらうという話を聞き、その解答用紙をネイトがみせてもらおうとしたとき、母親となっている妹からそういわれたのである。
まさか魔力での記入なのかと話し、それはないだろうとなって確認することなくべつの話題となっていった。
ちょっと待ってと、ネイトが頭をかかえたまま混乱したようにくり返す。
その試験で満点の話と、学校はどうかとたずねるたびに甥がたのしいと毎回こたえるため、この甥っ子くんはすごいなとネイトはいつも感心していたのである。
自分は特別扱いやなにをやっても優先される学校生活に気の重さしかなかったが、甥はうまく馴染んでいるのだろう。
「だって、そういえといわれますもの」とラランカがいった。
「え?」
ラランカがはじめのころ毎日やっていた、うけこたえのひとつに対する返答である。
家で授業のことをきかれるので、自分も勉強がしたい。
そう学校でいってみなさいと父親にいわれ、ラランカがいったとき。
先生が返したのは。
学校の授業はたのしいといえばいい。そうすればみんなたのしくなる、というものだった。
「……待って。ちょーっと待って」
大混乱中のネイトへ、ばあやがいった。
なにがどうというところをよく掘りさげてきいていかなければ、正しいことは一切わからないのである。
授業内容について正確なところを知りたければ、なんの授業中にどういうことを何分くらいかけておこない、クラスに全何人いるなかで何人がどういうことをしていたか。教員はなにをいって、どういうことをしたか。
必要ならば分単位で根気よく、ひとつひとつ聞き出していかなければいけないのである。
いつも通りだった。
あるいは、このまえとおなじ。
といったことを口にするようならば、要注意となる。
「……どうしよう。帰るのがこわい」
「通う学び舎はかえたのか?」
ワルツがはじめから問いつづけていることに対する回答をもとめた。
こたえは、初等・中等教育はおなじ中立国の学校にラランカは通い、高等教育となる時期できりかえたというものだった。
「すぐにかえなかったのか?」
ラランカの父親も、どうにもならなさそうだと判断した時点ですぐに学校を変更しようとした。
そのとき、とめて正解だったとフェーベルがいう。
「途中から、勉強ができるようになったのかい?」
「いいえ、ずーっとしなくていいといわれています」
「?」
区分差であるとフェーベルはこたえた。
これまでの経験から魔術界で変化が起きるときは、旧家周辺にいちはやい変化がみえはじめる。そのつぎに関連国内での変化となるが、そのなかでも魔術国の反応がはやい。
中立国でいまの現状となっているとき、魔術国や旧家の敷地内の魔術学校は一体どうなっているのか。
「…」
フェーベルはラランカの学校の現状である、クラスの半分の生徒しか授業中に着席していないという状態が、まだよい方であるのではとあやぶんだ。
旧家敷地内の学校は、旧家の血筋の子供たちがほとんどをしめる。魔術国の学校でも、旧家の子供たちのみを集めた専用のクラスを設けるところがある。
ラランカの入学した学校では、すくなくとも混合のクラス割りになっていた。旧家以外の子供たちに対する教員のようすをみていることはできる。
「……ちょっと、待って」
ラランカの通っている学校のみが異常事態であるとは、一校のみではいいきれない。いきなり転校手続きをはじめてしまうことは、さらなる問題へつながるかもしれず、フェーベルは下調べを優先するように説得した。
「一校ずつまわったの?」
「それよりもわかりやすく、手軽で確実な方法を旧家当主はとれるのです」
転入の話がやりとりされるころにはいくつかの試験がおこなわれ、結果発表がなされていた。この結果表を入手したフェーベルはある懸念のもと、前当主へ許可をもとめたのである。
ラランカの転校先として名前のあがっている学校、その過去十年分の試験記録一覧の入手。
理由としては、雇用者候補を探したいという半分は仕事でもある要請をつかった。
この結果が、フェーベルの懸念通りとなっていたのである。
半数が満点という結果あり、一点以下で点数がきざまれている結果あり。
「優秀な、ひとは…旧家にもいる、よ」
どうにかというように発言したネイトに、フェーベルは得点ではなく氏名のほうであることを返した。
いつおこなわれた試験であっても、どの教科の試験であったとしても、在籍中となっている旧家の人間の氏名順が不動なのである。
「…」
「すでに名簿でもあるのでしょう」
血筋に順位をつけるというものすごいことを、いまの学校はおこなっている。
ラランカが通うことのできる学校を探しつづけ、その条件を満たすまともな学校は一校たりともないという結論になった。
ラランカは中立国の学校に中等教育卒業まで通学し、高等教育でミンクル家の敷地内にある学校へ入学した。
当主としての強制を学校へかけるしかないという前当主の判断であったが、この強制というのも難題となった。
ラランカは新入生として入学する。当然、先にその学校へ通っている上級生たちが存在するのである。
仕方ないだろうとワルツがいった。放置しておくほうが問題である。
むしろ、すでに問題だらけであった。
ラランカは初等教育入学時からの状態であったが、学校内が変化していっただろう年代のところに二家の当主血筋の人物が存在する。
「…セルドリックと、ルビーノ」
それだけで、ミンクル家だけの問題ではなくなる。
「そんなことをいっている場合か」
「その教育を公認されるような発言も、各家の方々から出ているのです」
各本家がどの程度、現状の教育を認識しているか。どういった方針でいるのか、問題提起をしなければ不明となっていた。そして、それをおこなってしまうと問題だらけの学校に通っているラランカが直接影響をうけることになってしまう。
通うことのできる学校が存在しないことで、前当主はラランカの学校卒業を優先させると決定した。
どの程度の問題となり混乱となるか、まったく見当がつかなかったのである。
初等教育がはじまったばかりのラランカを、混乱のただなかに置くわけにはいかない。いつ収束するのか、そもそも全体で改善に取り組んでいくことができるのか。それすらも現状ではあやしいとなった。
フェーベルが前当主から言いつけられている内容のひとつに、何年かかったとしてもラランカに魔術教育を正しくうけさせるようにというものがある。
しかし、ミンクル家当主となったラランカには、彼女なりの言い分が存在する。
「わたくし、魔術はやりませんわ。やらなくていいって、あれだけいわれましたもの」
フェーベルは溜息をつき、ラランカの魔術の勉強は入学二日目でとまってしまっているのだと話した。「魔術入門書」の三題目終了時点、四題目に取り組もうとしたところで学校からやらなくていいとされてしまった。
十二題目の属性判断まですすんでいないため、ラランカは属性すら不明となっている。
「……」
「ラ、ラランカ。それは駄目だよ。入門書はちゃんとやらないと」
「わたくしは、絶対にやりません! お母様との約束をやぶることになってしまったのです。馬鹿でいろというなら、旧家の者らしく馬鹿でいますわっ」
「え、えーとね、ラランカ」
ミンクル家は教育問題で手一杯なのである。従来の友好内では常軌を逸している現状となってしまった。
ラランカが成人までにすべきことは、第一に世界共通の常識を身につけること。
「お父様の遺言ですわ。魔術界の常識は信じては駄目だそうです」
「…えぇと、えっとね」
ラランカはまだ父親を許していないが、遺言のため仕方ないとしている。
「えっ。なにかあったの?」
「大ありですわ」
ラランカは母親から引き継いだ畑を、父親に取りあげられたのである。
自分の食べているものが、どういう風に育っているものなのか。野菜についてはきちんと知っておくようにといわれ、ラランカは小さなころから母親と一緒に種をまき、畑の草むしりをして大切に育てていた。
その年の天気で収穫量や味がかわる野菜をたのしみにしながら食べ、来年はなにをつくろうかと母親と計画した。自分の畑となってからも周囲に手伝ってもらいながら、きちんと年間計画をたて手入れをしていたのだが。
「お父様にお母様の畑をとりあげられたのです。一年半は完全無視をしてやりましたわ」
その後にいろいろとあり、仕方なく会話をするようになったが、いまでもラランカは父親を許してはいない。
ネイトがフェーベルをみやり、一体何があったのかとたずねた。
フェーベルは、肩で息をついてこたえる。
入学してから一年後ほどまでは学校問題だけであった。
学校で勉強することのできないラランカは、畑の手入れを毎日するようになっていた。そしてある日、虫に刺された左腕が二倍ほどに腫れてしまった。
これを大事件とした前当主が、畑は危険だとして娘の立入りを畑全面において禁じたのである。
「奥様を亡くされたあとで、旦那様もお嬢様を心配しまして」
「ラランカ、それは仕方がないよ。危ないなら」
「なにがですの。ただ腫れただけです。お母様なら虫に刺されちゃったわねといいますわ。お父様はさわぎすぎなんですわよ」
虫がいなければ、野菜や果物はできない。虫は虫できちんと仕事をしているのである。刺された自分が不注意だっただけのことなのに、畑をいきなりとりあげられた。
学校で勉強をすることができず、大事にしていた母親から引き継いだ畑もとりあげられ、ラランカは部屋に閉じこもっていた週明けの朝、深刻な怒りを表明した。
全員でそこまでなにもするなというのなら、自分はもう自室の掃除と食事しか自分ではしない。
勉強のできない学校へ行けというなら、学校の門までだれか連れて行きなさい。門から学校の敷地内は歩きますけれど、門の外は絶対に自分では歩きません。
「……」
その日から、ラランカは宣言通り学校の敷地と本家内しか自分では歩かず、当主の仕事がある今日はじめて、自分で外を歩いてきたのである。
「当家は現在、いろいろと深刻なのです」
「わたくしは許しませんわよ。やめろといわれたことを、全部やめただけです」
「ラ、ラランカ。お父さんだって心配をして」
「あたりさわりないだけの発言をするおつもりなら、ひっぱたきますわよ」
「……」
それはお止めいただいてといったエスカに、ラランカはそれも父の遺言だとこたえた。
父親は亡くなる数年前に本家の玄関ホール、玄関扉横に巨大なテディベアを設置した。
仕事に出かける前、そのぬいぐるみをいつも殴りつけていたのである。
「……え? ラダンさんが?」
「そうですわ」
自分のこれまでの生き方は間違っていた。
旧家の当主こそ、拳で殴り倒すべき敵がいる。
旧家がなんだというんだっ。
「そういってボッスン、ボッスンやってから、当主のお仕事にいくようになったんですわ。本当に旧家のお仕事だったのかだれが敵なのかも、わかりませんでしたけれど」
ラランカも敵を殴り倒す練習をしようとしたのだが、グーのパンチは男のケンカの仕方なので、異性の場合はパーのひっぱたきだと教えられた。
殴り倒すべき敵があらわれたときは、屈強な専門の人間を雇うようにいわれた。
そして、こういいのこされている。
これまでのことと一族のことは、お父さんが片づける。
おまえは自分で正しいとおもったことをしなさい。一族がどうなろうと考えなくていい。
裁判沙汰になったとしても張り倒すべき敵だと確信したときは、準備万端にして全力でやってやれ。あとのことは、ベルに正統な手筈を整えさせる。
なにか外からいわれたときは、そう父親から教育されたといえ。遺言にそう書いておく。
うちの教育方針は今後、裁判沙汰覚悟で敵は正々堂々殴り倒せにする!
「……」
「わたくしは女なので、ひっぱたきですわ」
「遺言書も実際にその通り存在いたします」
旧家当主は逝去すると生前よりも高い位置につくとされているため、記された内容に絶対性が生じる。
ミンクル家の当主となった者は世間体がどうなろうと一族がどうなろうとも、自分で正しいとおもうかぎり戦い抜けとなったのである。
それでこそ、旧家の当主。
「え、えっーとね」
「えぇ、しっかりきいております。なんでございますの」
ラランカは今日はじめて、当主として玄関横の敵想定テディベアを張り倒してきたのである。
準備万端、やる気満々の状態である。
「わたくしは、ちょっとやそっとじゃ軽々しい判断は出しませんわよ」
これまで、子供だからと大人たちに大切なものをかたっぱしから取りあげられてきた。母親との約束も、いくつか守れなくなってしまった。
自分の部屋のなかのものしか守れず、泣いているしかなかったのである。
しかし、当主という立場についた。
「初対面ですがありきたりなお説教をしたり、非常識なことをおっしゃったりしたら正々堂々ひっぱたきますわよ」
父親のまえにいるときだけは行儀よくし、それ以外では平気で嘘をつく旧家の人間たちにラランカはうんざりしている。
もう大っ嫌いである。
父親もそうだったらしいので、ミンクル家はこれでいいのだろう。
カイアスティ家はどういうことを発言するのか、いまこの場できくとラランカはいった。
当主の初仕事本番である。