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変わりっ狐

作者: 春秋梅菊


変わりっ狐


 明朝の時代は二十年も前に終わり、北方の女真族が天下を平定した。彼らは国を「清」と改め、漢人達の土地を蹂躙し、数百年かけて作ってきた決まりを壊したのだった。

 しかし世の時勢が大きく変化しても、小桃(しょうとう)達のやっていることは依然として変わらなかった。

 小桃は一人で水辺に立ち、顔を伸ばして水面にうつる己の顔をのぞき込んだ。

 一目見るなり、彼女は地団太を踏んだ。

「どうしてうまくいかないの!」

 そこに浮かんでいたのは、あばただらけの醜い顔だ。肌は乾いたような感じで水気が無いし、眉も唇も形が整っていない。小桃は空しくこうべを垂れた。他の仲間は思うまま絶世の佳人へ変わることが出来るのに、彼女はどうしたって醜女になってしまうのだ。

 小さなため息を漏らし、小桃はうんと背伸びをした。途端にしゅるりと体が縮み、人間から狐の姿に戻っている。

 その時、背後から野太い声が飛んできた。

「また失敗したようだのう」

 草むらからのっそり、大きな狐が出てきた。この山西・白馬山(さんせい・はくばざん)一帯を束ねる長佑(ちょうゆう)様だ。みんなは彼の立派な姿、そして一族で誰よりも長生きしているのを理由に大爺様(おおやさま)と呼んでいる。

 小桃は黄色の頬を真っ赤に染めた。

「大爺様。あたし、何度やっても駄目なんです」

「駄目なものは駄目なものさ。お前は狐の姿でいる方が美しいね」

 雪みたく白い足先、つややかな毛並み、ふわふわとした尻尾。確かに狐の小桃は、仲間内の雌達では一番綺麗なのだった。しかし彼女はかぶりを振った。

「こんな美しさなんか、何にもならないもの。綺麗な人間の女になれなきゃ、誰も褒めてくれないわ」

「そりゃみんな、お前の美しさに嫉妬しとるんだろう。だからうまく変身出来ないことをあげつらって、お前を虐めてるのさ。そんな連中は放っておおき。お前はそのまんまだって、好いてくれる雄がいるじゃないか」

 小桃は頭と尻尾を激しく振った。

「やだっ。だって雌達の間じゃ、昔から人間の男を惚れさせるのが一人前の証なんだもん。人間の男から精を貰えば、長生き出来るし、元気な子供も産まれるのよ」

 長佑は呆れ顔になった。

「お前な、あれは迷信じゃて。人間の男を捕まえるのはな、唐の時代に一匹の雌がいたずらで始めたことなんじゃよ」

「そんなの嘘っ。私のお母ちゃんは小さい時は病気がちだったけど、人間の男に精を貰ったから丈夫なあたしが産まれたんだって言ってたもん!」

「やれやれだなあ。お前みたいな跳ねっ返りは、わしのようなじじいの言うことなんぞ聞いちゃくれん」

 またしても草むらがざわめいた。

 今度現れたのは小柄な狐だった。垂れた髭に落ちくぼんだ瞳、毛並みはささくれみたいに荒いときている。何とも見てくれの悪い雄狐だった。彼は小桃を見て、丁寧にお辞儀をした。

「やあ、小桃」

「こんにちわ、阿銀(あぎん)

 小桃はぎこちなく微笑んだ。この雄狐のことは、前から少し苦手だった。大半の狐達は、雄雌問わず老若問わず彼を嫌っている。醜いのはもとより、挙動や口癖がそもそも狐らしくないのだった。それで阿銀のことを、皆は陰で馬鹿にしたり、噂の種にしてからかっていた。小桃はそこまでのことはしなかったものの、あえて阿銀に近づきたいとは思わなかった。

「阿銀、あんたいったい何しに来たの?」

「大爺様にお話があったんですよ。それにしても小桃、あなたはいつ会っても綺麗ですね!」

「ありがとう」

 彼女が答える間も、阿銀は落ちくぼんだ瞳をじっとこちらへ注ぎ続けている。

 小桃は何だかそわそわして、早くこの場を去りたくなった。

「あたし、もう行かなきゃ。大爺様、阿銀、またね」

 尻尾を揺らしながらきびすを返し、彼女は草むらへひょいと飛び込んだ。


 小桃は足の向くままに歩き続け、不意に足を止めた。

 渓流のほとりで、きゃっきゃと笑う声がする。どれも聞き覚えがある声だった。小桃は岩陰に隠れ、そこから静かに頭を乗り出した。

 渓流のほとりで五、六人の美しい娘達が水遊びをしている。顔立ちが整っていたり、ふくよかだったり、つややかな髪をしていたり、いずれも異なった美しさがある。

 突然、一人の娘が足下を誤って、水中に倒れた。

 次の瞬間、ぴょこりと尻尾が水面から突き出し、遅れて出てきた顔も狐のそれに戻っている。そのちび雌は、げらげらと笑って言った。

「あーあ、ずぶ濡れになっちゃった」

 大人びた人間の娘に化けていた娘が、腰に手をあててたしなめた。

「あんたってば、羽目を外しすぎるんだから。それだからいつも人間の男を捕まえそこなっちゃうのよ」

 ちび雌は、くっくと笑って答えた。

「でもあたし、この前はほんとに惜しいところだったのよ。あの質屋の(りゅう)家に行って、そこの若旦那と寝るところだったんだから」

 劉家の若旦那は、ここ十里四方だと有名な色男だった。金持ちで、廓では毎日女をとっかえひっかえにしている。雌の狐達も、多くが彼に興味を寄せていたのだった。

 別の雌が感心したように頷いた。

「へえ、あの劉家の? 凄いじゃない。でも、いったいどこで間違ったの?」

 ちび雌は愉快そうに笑って言った。

「あの若旦那、あたしがあんまり美しいもんだから、夜な夜な訪ねていくとすぐ寝床へ通したわ。一緒に布団へ潜ったら、あの人は裸の私を抱き寄せてにんまりしながら「お前は凄くかわいい、ほんとに人間か」って聞いてきたの。あたしも調子に乗ってたから、ほんとは狐よってつい答えちゃった」

「それでばれたのね」

「ううん。あたしが冗談めかした物言いだったから、若旦那は最初本気にしてなかったわ。だけどね、あたしが答えたらあの人はいたずらっぽく笑って「狐が化けたなら尻尾があるはずだね」って、嫌らしい手つきであたしの尻を撫でてきたの。あんまりくすぐったいもんだから、思わず笑って変身が解けちゃった、ってわけよ。若旦那ったら肝を潰して、裸のまま寝床を飛び出しちゃったわ」

 その場にいた娘達はこれを聞くなり、腹を抱えて大笑いした。

「劉家の若様は、肝っ玉が縮み上がったに違いないわねえ。それであんた、今度は誰を狙うつもり?」

「この山で木こりをやってる(そう)様にするわ。あんなに見てくれのいい人なら、きっと精だって立派なものに違いないでしょ」

「あの人は無理よ。大した美男だけど、今まで大勢の仲間が訪ねてうまくいかなかったんだもの」

 一人がかぶりを振ると、隣にいた娘が軽口を叩いた。

「たぶん、下の物が使えなくなってるんじゃない? 人間の女じゃなくて木とばかりにらめっこしてるから」

「あら、でも木は雌かもね」

 またしても、皆は楽しげに笑った。やがて声をおさめると、年長の一人が話題を変えた。

「そういえば、小桃の奴は進歩したのかしらねえ。あいつってば、何度やっても渋柿に目鼻をつけたような醜女にしかならないんだもの」

「しかも顔だけじゃないのよねえ。尻も胸も醜くて、あんなのとても触れたもんじゃないわ」

「別にあれでも、精の貰い手がいないわけじゃないでしょ。醜女は醜男と交わってりゃいいわけよ」

 小桃は胸に猟銃をいくつも打ち込まれたような思いで、呆然とその場に立ち尽くした。娘達の小桃に対する言葉は段々聞くに耐えないものとなり、彼女はこうべを垂れながら密かにその場を立ち去った。

 ――ああ、どうしよう。このままじゃ、あたしはどうしたって価値がない雌のままなんだ。

 雄の中には、そのままの小桃を好いてくれる人もいる。それは嬉しくもあるが、負い目にもなった。彼女だって一人の雌なのだ。いとしい人の気持ちには、ちゃんと一人前の雌になって応えたかった。

 小桃は人気のない水辺までやってきたが、思いはどこまでも沈むばかり、また変身してみようという気にもなれない。やがて日が西へ傾き、そろそろ夜の帳が下りようという頃合いになった。うなだれていた小桃は、日が沈む前にもう一度だけ試してみることにした。

 うんと背伸びをする。一気に体が引き延ばされて、人間の娘に変わっている。それから葉っぱを引き延ばして服と帯を作り、その場でまとった。

 小桃は深く息を吸うと、恐る恐る水面を覗いてみた。

 が――やはり一人の醜女がいるだけだった。

 思わず悔し涙を流しかけた矢先、足音と共に優しく呼ばわる声がした。

「もう夜が近い。お帰りにならないので?」

 振り返った小桃の前には、長身の美丈夫が立っていた。背に籠を負い、頭には布帽子をかぶっている。顔つきは凛々しく、黒々とした瞳は心を吸い込んでしまいそうだ。

 小桃は自分の醜い姿が恥ずかしくなり、もぞもぞしながら立ち上がった。

「お声をかけてくださって、ありがとうございます。家には一人で帰れますから、どうぞご心配なく」

「しかし、夜の山は獣が多くて危ない。いかがかな。私の家へ泊まっていくといい。この近くだ」

「だけど、ご迷惑じゃありませんか?」

「迷惑など。あなたが嫌でなければ」

 小桃に否やのあろうはずがない。何せ人間に変身して、初めて捕まえた男だ。まして大変な美丈夫ときている!

 ふと、彼女は先程渓流で聞いた娘達の話を思い出した。この眼前の男こそ、彼女達が言っていた木こりの曹ではないだろうか。

「あなた、お名前は何とおっしゃるの」

「姓は曹、名は(じゅう)だ」

 ――やっぱり!

 小桃は胸をときめかせた。もしこの人の精を手に入れることが出来れば、私も一人前だ。そうすれば誰からも馬鹿になんてされるものか。

 曹の家は白馬山のふもとにあった。古びてはいたが、頑丈そうな木造の家だ。周囲はびっしりと木々に囲まれ、あたかも自然の中へとけ込んでいるかのようだった。

「狭苦しい家だが、どうぞ」

「お邪魔になります」

 家の中はこざっぱりしていて、居間と台所、それに浴室があるだけだ。漆喰の剥がれかけた卓の上には、人間がよく食べるお菓子――棗の実と西瓜の種だ――が置かれていた。

「お茶は飲みますか?」

 小桃が頷く。曹はかぐわしい茶を椀に注ぎ、彼女の前に差し出した。小桃はすっと鼻先で香りを吸い、にっこり微笑んだ。

「とってもいい香りね!」

「街に雲南出身の友人がいてね。彼から茶葉を買ってる」

 曹はそれから夕飯を作ってくれた。白いご飯に腐竹(湯葉)の吸い物、それから塩漬け玉子だ。人間の料理を食べるのは初めてのことだったが、どれも口当たりがよく小桃は箸を持つ手が止まらなかった。曹は小桃にお茶の代わりを注いだり、おかずをすすめたりしながら、自分も二杯ほどご飯を食べた。小桃はそんな彼に親しみを覚えた。この男は山暮らしをしているだけあってとても壮健な体つき、それに人柄もしっかりしている。何せこんな醜い女を丁重にもてなしてくれるのだ。彼女は一度、人の姿をしたまま山ふもとの街へ遊びに行ったこともあったが、その時のことは思い出したくもないくらい酷い記憶だった。

 ――もしあたしが人間だったら、間違いなくこんな人を選んでるだろうなあ。

 箸を置いた小桃は、僅かに身を乗り出して尋ねた。

「あなた、お一人で住んでらっしゃるの?」

「そうだ」

「いい歳で手についた職もあるのに、どうして奥様を娶らないの?」

「こんな山奥にいる貧乏人と暮らしたがる女は、いないだろう」

「でも、それって寂しいわ」

「そう言うあなたこそ、まだお一人のようだ」

 小桃は頬を赤らめた。

「私は……こんな見た目なんですもの。まだ、その……男の人に相手をして貰ったことも無いですし」

「男に相手にされないのが、悲しいのか」

 小桃は俯いた。狐だって人間だって、それは悲しいことに決まっている。すべからく雄と雌、陰と陽は惹かれ合うものなのだ。それが叶わないなんて、辛いではないか。

 注がれた茶椀に、醜い顔がうつる。ああ、どうして私はこんな有様なんだろう。

 何も言わずにいると、曹も黙っていた。小桃は俯きながらも、時折ちらちら視線を持ち上げては彼の顔をのぞき込んだ。

 すると、曹がさっきからこちらをじっと見つめているのに気がついた。小桃は彼がなかなか視線を外してくれないので、一層気まずくなった。

 ついに我慢出来なくなると、顔を上げて尋ねた。

「さっきから、どうして私を見てるんです?」

「あなたが言った言葉の意味を考えていただけだ」

「私が?」

「男の人に相手をして貰ったことが無いと」

「それは……こんな醜い女、相手にしたがる人がいるわけないじゃありませんか」

「私でよければ、あなたの相手をしてあげよう」

 小桃は目を丸くした。この人ったら、いったい何を言ってるのかしら?

「それは、どういう意味ですか?」

「言葉そのままの意味だ」

 小桃は瞳が点になるくらい驚いた。変なの! 人間の雄って、みんなこうも節操が無いのだろうか? 相手はまだ会って間もないばかりでなく、鏡の方が顔を背けたくなるような醜女なのに?

 だけど、小桃にとっては千載一遇の機会だ。ちゃんと精を貰って、皆に情交の跡を見せつければ、彼女は晴れて一人前の雌になれる。

 曹はずっと答えを待っていた。小桃は俯き、足先をじりじり寄せていたが、ついに勇気を振り絞って告げた。

「じゃ、私のお相手をしてください。あたし、初めてだから勝手がわからないところもあるけれど……」

「大丈夫だ、私が知っているから」

 どうやら本気のようだ。人間の雄には、時折美人より醜い雌を好む者もいると聞くが、曹はその類なんだろうか。

 曹が居間に布団を敷き始めると、小桃はいよいよ体が火照った。随分前に、人間と交わった雌達が話していたのを密かに聞いたことがある。曰く、人間同士の交わりにはいろんなやり方があって、狐同士でやるよりもずっと飽きない。特にその道に慣れた人間の雄は、雌を楽しませる方法を沢山心得ている……。

「さあ、こっちへお入り」

 小桃は着物の帯を解こうとしたが、手が震えて手間取ってしまった。しゅるりと肩から服が滑り落ち、それから襦袢を脱ぐともう一糸まとわぬ姿になっていた。

 布団に潜ると、そこには暖かくて逞しい体があった。小桃は全身が熱くなり、恥ずかしさで逃げ出したい衝動に駆られた。だが二本の腕が伸びてきて、小桃の小さい体を絡め取ってしまった。

「何を震えてる?」

「だ、だって……あたし……あ――」

 ぬるぬるした曹の唇が、小桃の乾いた唇の上に優しく触れた……。ここに来て、小桃ももう逃げる意志を無くした。

 夢のような時間だった。二人は体を寄せ合って、互いに求め合った。

 鶏鳴が遠くから聞こえる頃、空が白み始め、小桃の目の前には微笑む男の顔があった。

 小桃は夢の中にいるように、うっとりして言った。

「あたし、あなたから離れられなくなるかもしれない」

 曹は一層大きな笑みをのぞかせ――突然、小桃の聞き覚えがある声で言った。

「それは別に、難しいことじゃありませんよ」

 不意に男の声色が様変わりしたので、彼女は仰天した。驚き覚めぬうちに、曹が追い打ちをかけた。

「わかりませんか? 僕ですよ?」

「阿銀、阿銀なの? あんた、まさかっ」

「そうですよ」

 小桃は跳ね起きて、素っ裸のまま布団を飛び出した。転がるように壁際まで退くと、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「あんた、いったい何考えてるのよ!」

「何って、あなたは悩んでいたじゃないですか。僕は助けになろうとしたんですよ」

「狐が狐を化かすなんて、馬鹿じゃないの!」

「ははあ、じゃあ狐が人間を化かすのは、おかしくないって言うんですか?」

「恥知らずっ。あたし……あたし、あんたに……」

 昨晩二人で囁きあった仲睦まじい言葉の数々をを思い出すと、小桃の体は内側から燃え上がってしまいそうだった。まったく、胸が焼けて黒こげになりそうだ!

「ちゃんと黙っていますよ。そんなことより、これであなたもお仲間からいわれのない悪口を言われることは無くなりましたよ。むしろ喜んで欲しいですね」

「あんた酷いわ。最低よ! 何なのよ、ずっと人間に化けて暮らしてたってわけ? 一体何年?」

「ここに住んでたのは四年くらいですね。でも雌達の間で噂になることは、予想してませんでした。僕、狐の時は酷い姿ですけど、人間でいれば大したものですね」

 小桃は怒りと羞恥で声も出ない。それに阿銀がこんなことをした理由もわけがわからなかった。

「小桃、今はきっとわからないかもしれませんけど、世の中の決まりなんて曖昧でいい加減なんです。一人前の雌になるために別の生き物と交わるなんて、それこそ変な話じゃあありませんか。それだって、誰が決めたことかも知れないのに。人間をご覧なさい。しょっちゅう争いあったり、天子が数十年に一度変わるわで、これという決まりなんかありませんよ。つい二十年前には漢人が女真族に支配されましたけど、今となっては漢人も甘んじて弁髪をやっています」

「あたし、わからないわ」

 阿銀は意味ありげに、微笑んだ。

「いいんですよ、今はわからなくても」



 その日以来、雌達の小桃を見る目は変わった。人間と交わった跡があるのを見て、彼女達も渋々小桃を認めざるを得なかったのだ。

 沢山の雄が彼女に求婚してきたが、小桃は前から好きだった雄が一人いたので、めでたく彼とくっついた。

 やがて十年が経った頃、雌狐達は人間の男と交わることにそれほど執着しなくなった。というのも、人間の男と交わった直後、酷い病気にかかって死んでしまった雌がいたからだ。その出来事は群れ達の間で憶測を呼び、噂は尾ひれがつき、若い雌達は人間に近づかなくなった。

 大爺様だけが、むしろ得意げだった。

「だから言ったんじゃよ。十年も前に。雌狐が人間と交わるのは、唐の代にいたずらで始まったことじゃて……」

 密な一晩を過ごした翌朝以来、阿銀は小桃の前に姿を現さなかった。群の中からも姿を消した。この十年、小桃はお礼を言いたくて、時折彼が曹に化けて住んでいた家を訪ねたりしたが、いつも無人だった。そのうち家には蔦が生い茂り、いよいよ人が住めぬほどになってしまった。

 とある日、渓流のほとりを一人散歩していると、ふと後ろから呼びかけられた。

「小桃、こんにちわ」

 彼女が振り向くと、そこには曹の姿をした阿銀が立っていた。相変わらずの美丈夫だった。

「阿銀! あんたったら、これまで長いことどこ行ってたの?」

「ちょっと遠出してました。あなたとの噂をかぎつけられるのも困りますからね」

「あんたってば、また人間の姿なのねえ。そうだ。あたし、やっぱりあんたにお礼を言おうと思ってたんだけど」

「別にお礼なんか言う必要はありませんよ。むしろ、お礼を言うのは僕の方かもしれないんですから」

 阿銀の言葉に、小桃は目を丸くした。

「どういうこと?」

「僕、本当は人間なんです」

「えっ」

「つまり、狐が仮の姿なんですよ! だから群れには馴染めなかったし、見た目だって醜かったんです。僕はある道士様に弟子入りし、その方を師匠と仰いで仙人になる修行をしていたんです。変化の術が使えたのは、そのためですよ」

「何で狐に化けたりしてたの?」

「そりゃ、美しい雌狐と交わるのが、一流の仙人の習わしだからですよ」

 小桃は疑わしげに眉をひそめた。

「それ、ほんと? あんた、十年前は決まりが変わる云々言っていたじゃない」

「やっぱり、小桃はまだわかっていなかったんですね」

 阿銀がくっくと喉の奥で笑った。

「何を言いたかったって、つまり僕はうんざりしてたってことですよ。私のお師匠様も、結局雌狐と交わる習わしに振り回されてた、ってことです」



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