かざぐるま
久平はいつも笑っていた。
どこで何があろうと久平はいつも笑っていた。
可笑しいのでも楽しいのでもあるまいが久平はいつも意味なくただ笑っているばかりであった。
笑うことしか能のない愚か者なのか、あるいは何事も笑って済ませる利口者なのか、どちらにせよ、笑う以外の久平の顔をこれまで誰も見たことがない。
久平のにやけた表情には喜怒哀楽の全てが凝集されているようにも思われた。
目が覚めるような天空の青さと目映い陽光の黄金が混じり合って彩色されたような若葉が輝き始め、季節が命の息吹を讃える頃。
久平は、原っぱでひとり、小さな築山を作って遊んでいた。
松の鱗で、軟らかな地面から土をすくっては盛り上げていき、摘んできたタンポポやレンゲを周りに飾ると、築山に花が咲いた。
それは誰に邪魔されることもなく、久平が思いのままに現すことのできるこの世の極楽であった。
うららかな陽光の中で、辺り一帯ののどかな風景はまるで久平ひとりのもののようになり、穏やかな時が流れていた。
それもしばしのこと、邪な悪行がささやかな安寧をさらっていった。
傍を通りかかった悪童どもが、久平の姿を見咎めるや、勢いよく駆け寄って来て、久平が苦心惨憺した築山を踏み潰してしまった。
だが、久平は黙って見ているだけだった。
怒るでもなく、泣くでもなく、まして刃向かうでもなく、悪童どもの仕業を久平は他人事のように見守るばかりであった。寧ろ、久平の顔にはにやけた表情さえ浮かんでいた。
代わる代わる悪童どもが踏んでいくうちに、久平の築山は見る影もなくなり、後にはばらばらに砕かれた紫と黄の花弁が無残に散っていた。
悪童の一人が、久平を睨み付けたが、その意地悪い眼差しにも、久平は笑って応えた。
だらしなく解けた顔の真ん中で目と口だけがへつらうように歪んでいた。
悪童どもは、間の抜けた久平の顔にさらに苛立ち、口々に罵った。
「ばーか」
「のろま」
「まぬけ」
それぞれに思いつく限りの悪態を浴びせたが、久平は何ひとつ動じるところがなかった。平気な顔で笑いまで浮かべて立ち尽くす久平に、悪童の苛立ちは増すばかりだった。まるで自分たちが虚仮にされたように思えてならず、苛立ちはそのうち怒りへと変わっていった。
悪童の一人が、久平の背中を肘で小突くと、他の者たちも次々に真似していった。大勢に小突かれて、痛さと情けなさで一杯である筈だが、久平はそれでもまだ笑っていた。悪童どもはそんな惚け面に呆れ果てたのか、久平ひとりを置いて走り去っていった。
悪童どもの影が春霞の浮き立つ空に消えるのを見計らうと、久平は腰を下ろし、草鞋の跡が入り乱れた地面に、また、築山を盛り始めた。
一陣の風が地面を這うように吹き流れ、黄色と紫の破片をさらっていった。
お天道さまが灰色のぶ厚い雲に隠されて、代わりに鬱陶しいばかりの湿気が支配して早や半月となる。まるで牛の涎のように途切れることなく、しとしとと雨が降り続いた。それを喜んでいるのは蛙か紫陽花くらいであろう。そんな中でも、久平のおっ父ぅとおっ母ぁはめげることなく毎朝根気よく野良仕事に出掛ける。
連日の務めに疲れたのか、梅雨雲もしばし小休止と、穏やかな日差しを解放した。久しぶりに顔を覗かせたお天道様に気を良くした久平は、おっ父ぅとおっ母ぁに内緒で、ふらりと川のほとりにやって来た。せせらぎの音に耳を傾け、河原で石を積んで遊ぶのが、久平のひとつの楽しみであった。
だが、長く降り続いた雨により、水嵩は増え、流れは勢いを増していた。久平は恐ろしくなった。おっ父ぅの言いつけが頭をかすめ、久平は慌てて水辺を離れ、代わりにとっておきの場所に移った。岩によって堰き止められてできた淵壺である。ここなら、流れに掠われることも溺れることもない。
穏やかな水面は澄明な輝きを放ち、川底が透けて見えた。久平は、そっと水に手を浸してみた。朝からの陽光に温んだ水は、身体を浸けて水浴みするにも十分であった。
辺りを振り返り、誰もいないのを見図ると、久平は絣の着物を脱いだ。脱いだ着物を丁寧に畳み、岩の上に置くと、風で飛ばされないように大きめの石を拾い重石にして載せた。
褌一本になった久平は、恐る恐る足を浸け、肩まで浸かるように腰を屈めていった。貧しい久平の家に風呂はない。夏でも冬でも井戸から汲み上げた水で体を拭くのが精一杯である。だから、この水溜まりは久平にとって格好の風呂代わりである。
久平は水の中で褌を外し、手拭い代わりに使った。肩から腕、脇、腹、背、と体のあらゆる部分をごしごし洗った。雨籠もりで過ごした半月ばかりの間についた汚れが落ちたかどうか知らぬが、久平はさっぱりした表情であった。
せせらぎとはとても呼べぬ激しい波音の隙間に漂う、木々の枝葉が擦り合う音が心地良い。梅雨とは思えぬほど澄み切った空に、鳶が大きな翼を広げ、弧を描いて飛んでいた。水に浸かる久平は、早瀬とは対称的にゆったりと流れる時間を過ごし楽しんでいた。
久平は笑っていた。
いつになくにこやかな笑みが零れた。
その笑みが消えるより先に、緩やかなひとときは、雷鳴の如き喧噪によって壊された。わいわいがやがや騒ぎ立てる声が押し寄せてきた。例の悪童どもである。
久平にとって全くの不幸と言うしかない。久平は慌てて水に潜った。だが、迂闊にも、水の撥ね音が悪童どもを気付かせてしまった。久平は、逃げ場もなく、悪童どもの餌食になった。
ひとりが小石を拾って久平めがけて投げつけると、他の悪童どもも真似をして小石を拾い集め、投げつけた。
内心、怖くて仕方がない筈なのに何故か久平は笑っていた。あるいは恐怖に歪んでしまっただけかも知れないが、妙ににやけた顔はそうは映らず、悪童どもを逆撫でした。悪童どもは執拗に石の礫を投げ続けた。久平は素っ裸で逃げる余裕もなく、岩陰に身を隠し、飛んでくる礫を避けた。久平は息を潜め悪童どもが帰るのをじっと見守るしかなかった。
久平の姿を見失った悪童どもは、代わりに石の上に畳んで置かれた着物をめざとく見つけ、駆け寄った。着物の端を掴むと、無造作に引っ張り揚げ、地面に叩き付けた。
新たな悪戯を見つけた悪童どもは喜び勇んで着物の周りに群がった。めいめいに着物を踏んづけたり、石で叩き付けて遊び始めた。悪童どもは、時々、歓声とも悲鳴ともつかない意味不明な叫び声を上げて騒いだ。悪童どもにとって、最早、岩陰に隠れている久平には関心がなかった。絣の着物がよれ、ボロボロになっていくのを見るのが楽しみなっていた。
着物を滅茶苦茶にされていることなど知らぬ久平には、賑やかな喚声がお祭り騒ぎのように聞こえ、それが悲しく辛かった。久平は孤独であった。群れる悪童が羨ましく思えた。久平は悪童の様子をじっと伺い、乾いた笑いを頬に浮かべるだけだった。
いつしか雨雲が忍び寄り、陽光はまた閉ざされた。
「帰ろう。」
誰かが言った。それを合図に、ひとしきり悪行を尽くし飽きてしまった悪童どもはぼろ切れのようになった着物を置き去りにして行った。その気配を察した久平は漸く岩陰から姿を現した。横一列に並んだ悪童どもの背中が暗天の下に溶け込んでいくのを眺めると、早瀬の水よりなお冷たい風が胸の内を吹き抜けるのを久平は感じていた。
綻びよれよれになった着物が目に付くと、久平の頭には、夜なべして縫ってくれたおっ母ぁの姿が浮かんだ。
「嫌じゃのう。」
おっ母ぁは怒るだろうか、それとも悲しむだろうか。だが、久平には何故かありのままをおっ母ぁに告げるのが厭われた。悪童どもの餌食になったのだと知れば、おっ母ぁはもっと悲しむだろう。野道を駆けて転んだとか、野面の茨に引っかけたとか、久平はあれこれ言い訳を考えた。しかし、着物に袖を通すと、そこかしこにできた破れ目から素肌が覗いているのに気付き、どんな言い訳も通じないのが分かって、久平は何を言うのも諦めた。どう言い繕ったとて、何処に行ったか見当たらぬ帯紐のことまで説明はつかないのだ。悪童どもが持ち去ったのには違いない。だが、それも黙っておくしかあるまい。腹を括った久平は褌を帯紐の代わりに腰に巻き付けた。
「帰るか。」
自分に言い聞かせるように呟くと、久平は先程まで騒乱のあった場所を後にした。ぼろを纏い、にやけた顔でぶらぶら歩く久平の姿は全く道化て見えた。
ピーヒョロロロ。
頭の上を舞う鳶までが、そんな久平をからかっているように思われた。それが余りに可笑しくて、可笑し過ぎて悲しく、そして、悲し過ぎてまた可笑しかった。
梅雨雲が久平の背中を追うように広がっていた。雨の臭いが遠くから漂ってき、久平は急ぎ足で歩いた。
まるで何かに怒り狂うように、お天道様は猛烈に暴れていた。激しい日差しを浴びせられる人々は堪ったものではない。体力はおろか気力まで芯から奪われ、何をするのも億劫である。しかし、富める者、貧しい者、老いたる者、若き者、男、女、誰彼の区別なく襲いかかるのはまだしも公平ではあろうか。そうと割り切るしかない、そんな酷暑でさえ愚痴っておるゆとりさえなく、おっ父ぅとおっ母ぁは朝早くからひとり久平を家に置いて野良仕事に出掛ける。久平の一家にとって、暑さも寒さも関係はない。
久平は荒れ狂った日差しの下、どこに行く当てもなく野良道をただぶらぶらと歩いていた。
兄弟はもとより、友垣のひとつとてない久平である。だが、それを寂しいと思ったことはない。久平にとって、野の花や、鳥、虫、小さな毛物、それに風の音やさざ波、そういう身の周りにある自然物が皆、彼の心を慰める仲間なのである。荒ぶるお天道様さえ愛おしく思え、炎天下に身を曝すこともさして苦にはならない。
だが、流石の久平もこの暑さは堪らぬようで、表に出たは良いが、少し後悔していた。額の汗はいくら袖で拭ってもその後から流れ落ちるばかりであった。汗びっしょりになった背中に着物がまとわりつく感触が不快で堪らなかった。だが今更引き返す気もなかった。
どこまで行っても田圃が連なる辺りに、日陰などひとつもなかった。日盛りを好む稲が青々と風になびき、秋の実りを期待させてくれようとも、久平には何の役にも立たなかった。
だが、久平は不快な顔もせず、何かを口ごもりながら笑みさえ湛えていた。
もう少し、あともう少しで雑木林だ。そう思いながら、日陰を宛てに歩くのだが、一向に近づく気配がない。
漸く雑木林の傍まで辿り着いた。
久平の小さな体はくたくたであった。一休みしようと木陰に身を寄せた時、突然、久平の行く手を塞いだのは、またしても、あの悪童どもであった。「あ」、と叫ぶ間もなかった。次の刹那、久平は忽ち悪童どもに取り囲まれてしまった。遊び仲間として迎えられたのでないことくらい、幼い久平にも分かることであった。久平は、悪童の輪の中で途方に暮れ、棒立ちしていた。そのくせ、顔にはやはり笑みを浮かべたままであった。
周りを囲む悪童どももまた笑っていた。だが久平の頬に浮かぶ笑みとは全く異なるものであった。企みを秘めた笑いを顔全体に浮かべ、悪童どもは久平ににじり寄っていった。
悪童どもは久平が逃げ出せないように、互いの手をしっかりと結び囲みを頑丈にした。にやけた顔をしながら、それでいておどおどとして落ち着かない久平を囲んだまま、悪童どもは雑木林の木陰深くまで誘い込んだ。
ドサッ、いきなり鈍い物音がした。
囲みは解かれ、悪童どもはばらばらになった。しかし、その中に久平の姿はなかった。
悪童どもは大はしゃぎし、そして囃し立てた。その声が雑木林に木霊し、不気味な唸り声を上げた。悪童どもの視線の先には大きな穴がぽっかりと開き、その中に、二つ折りになった久平の小さな体が沈んでいた。悪童どもは元より久平を餌食にするつもりではなかった。誰でも良かったのだ。それがどういう風の吹き回しか、たまたま久平が通りかかったという按配である。だが、悪童らにとって久平はやはり格好の餌食であった。
落とし穴にはまった久平は、泣いたりせず、悔しそうな表情も見せさえしなかった。それどころか、まだ頬には笑みを浮かべていた。それは照れ隠しともとれる笑い顔であった。
その笑い顔が悪童どもの癇に障った。悪童どもは穴に向かって、大きな声で「ざまあみろ。」と口々に罵った。何が「ざまあみろ」なのか自分たちでも分からない。が、悪童どもは仇を討ったようなつもりで、久平をなぶり笑いものにした。悪童どもは、自分たちより小さくてか弱い久平を見下して得意になり、悪し様にして喜んでいた。そればかりか、穴の中で身動きがとれずもぞもぞとしている久平を虫けら同然に扱った。周りの土を蹴り入れたり、落ち葉や枯れ枝を投げ入れたり、中には小便を引っかけたりする者さえあった。
自分を情けないとも惨めとも思う感情をまだ知らぬ久平はもやっとした感情の渦の中に取り込まれていた。地面に打ち付けた腰の痛みより、小さな胸の痛みの方が余程大きかった。けれども、久平はそのことを声に出すのはおろか顔に出すこともままならず、穴の底でずっとにやけた表情を浮かべていた。それを見れば、悪童どもでなくとも、同情する気など起こらないだろう。悪童どもの誰一人として久平に同情する者はなかった。手を差し伸べて助け出そうとする者はおろか、「大丈夫か」と尋ねる者さえなかった。寧ろ、戦勝を喜んでいるようでさえあった。悪童どもははしゃいでいた。
いくら助けを求めたところで埒の開かないことを、幼い久平の頭はちゃんと心得ていた。狭くて不自由な穴から見上げる大空が、悪童どもの背中でやけに青く澄んで見え、それが久平にはやり切れなかった。
「悔しかったら自分で上がってくされ。」
「そうじゃ。」
「そうじゃ、上がってくされ。」
悪童どもはできもしないと分かって囃し立てた。
久平はもがくのを止め鈍い笑みを浮かべてぐったりとした。急に悪童どもは恐ろしくなった。取り返しの付かないことをしてしまったと気づき、おどおどとし出した。
「おい、逃げるんじゃ。」
誰かが言った言葉を合図に悪童どもは一斉に逃げ去った。
久平は、出られずにいるかも知れないという不安よりも、悪童がいなくなったということにひとまず安心した。だが、側を通る者もなく、時間だけが徒に過ぎていくと、悠長な気分では居れなくなってきた。
穴から覗く空が茜に染まり始めると、久平は次第に心細くなった。
その心細さを慰めようとしてか、久平のもとに珍客が迷い込んできた。色鮮やかな羽を広げて、ひらひらと舞う揚羽蝶であった。頼りなげな姿は久平を救い出すことなど到底できそうになかったが、無理を承知で久平は優雅に舞う蝶に向かって
「誰か呼んで来ておくれでないか。」
と願ってみた。その言葉を理解したのかどうか、蝶はすぐさま穴から出、どこかへ飛び去っていった。それから程なくして、大きな影が穴を覆った。見上げると、穴の淵には日に焼けた黒い顔に白い歯を覗かせた若者が仁王立ちしていた。久平は悪童よりもっと恐ろしそうな姿に怖じ気づいた。
それが間違いであることはすぐに久平にも分かった。
「大丈夫か。」
仁王のような顔つきとは裏腹に優しく問う若者は、血管の浮き出た逞しい二の腕を穴に差し入れた。そして、二つ折りになった久平の体を抱きかかえるようにして引き上げた。
「痛かったろう」
抱きかかえながら、若者は久平の着物にこびりついた土を払い除けた。
立つことも覚束ない身体ではひとりで帰ることなどとてもできそうになかった。それにも拘わらず笑っている久平の顔が若者の心を痛めた。若者は久平を背中におぶせ、
「坊のお家はどっちだ。」
と訊いた。
ぐったりとした久平は声も出ない。黙って差し出す指を見て、
「よし、あっちじゃな。」
若者は言って歩き始めた。それは若者が今し方通って来た道であった。そんな素振りはちっとも見せず、若者は久平を背負って歩いた。
道々、若者は背中の久平に声をかけ、慰めた。
「坊、大丈夫か。」
「痛くないか。」
「辛抱できるか。」
若者が何を訊いても、久平はうんともすんとも言わなかった。返事をする気力さえ既に失せ、若者の背中に身を預ける安心で言葉が出なかった。
「どこのどいつが、こんな悪さをしやがったんだ、なあ、坊。どいつの仕業か判りゃ、とっちめてやるんだがな。」
若者はひとりで怒っていた。
久平の頭には悪童どもの顔がちらついていた。この若者に悪童どもを懲らしめて貰おうか、そんな気持ちは、しかし起こらなかった。久平は仕返しが恐ろしかった。一層、口を固く閉ざしてしまった。
若者の背中で揺られながら、久平はいつの間にか気持ちよさそうに眠っていた。
「余程、疲れたんだろな。可哀想に。」
背中の久平を気遣ってそう思ったが、同時に、
「はてさて困ったことになったもんだ。」
若者は何処に向かえば良いか分からず、思案に暮れた。背中の子を起こすのを気の毒に思っていると、丁度、畑で草むしりをしている百姓に出くわした。
「この子の家を知らんかね。」
若者は訊ねてみた。
「ああ、久平じゃな。久平の家なら、その先に地蔵堂があるで、その先の辻を右に曲がって、もうちょびっと行きゃ、立派な榎木が立っておるわ。そのすぐそばの藁屋根がそれだで。」
若者は百姓に礼を言い、説明通りに進んで行くと、確かに地蔵堂があり、その先を右に曲がって暫く行くと榎木があり、その向こう側に藁屋根が見えた。周りには他に家がない。
「この家じゃな。」
若者は惑うことなく近寄ってみた。そして、驚いた。余りに見窄らしく、掘っ立て小屋の方がましだ言うような佇まいに若者は唖然とした。
玄関らしきものもなく、戸のない入口には代わりに筵が吊り下がっているだけであった。筵をあげるとすぐ真ん中に囲炉裏らしきものがある部屋が目に飛び込んで来た。留守であった。囲炉裏を囲んで地面に直接板を敷きその上に筵を並べただけで、家と言ってもそれきり、他に通ずる部屋など無さそうであった。そこで一家は、食べるのも寝るのも何もかも済ませてしまうのだろう。度合いの過ぎる粗末さに、若者は目を覆いたくなった。一家の暮らしぶりを想像するに余りある。若者は悲しくなった。
こんなあばら屋同然の家で、いつもこの子は暗くなるまで一人寂しく両親の帰りを待っているのだろうか、若者は胸が痛くなってきた。久平を置いて立ち去ることは何となく気が引けた。両親が帰るまで暫く見守ってやろうか、若者は迷った。
だが、この子の両親が自分と顔を合わせた時、もっと惨めな気持ちになりはしないか。何のもてなしもできないことに心を咎めさせたりはしないだろうか。
若者は考えた挙げ句、
「この子だってどうせ留守には慣れている筈。」
そう思うと、両親の帰らぬ間に久平を置いて立ち去ろうと決めた。
若者は寝息を立てている久平を背中からそうっと下ろし、筵に寝かしつけた。
「坊、お前の家に着いたぜ。」
無論、返事はなかった。すやすや寝息を立てる姿を確かめると、若者は
「大事にしろよな。」
と耳元で囁き、足音を忍ばせ荒ら屋を出、去って行った。
野辺に茂る茅が薄茶に変わり、力なく折れる姿が哀れに見える。刈り取った後の田圃に人気はなく、代わりに鷺が突っ立ちしきりと地面を啄んでいる。山々を染める赤や黄色の彩りは鮮やかながら落日の気配を呈している。
氏神様が坐す神社とて、腐れ落ち葉で境内はくすんだ色に埋めつくされ、朱の剥げた古い鳥居には正月に掛けた注連縄が風雨の後も痛ましくだらしなくぶら下がっていた。元より人影まばらな聖域が一層寂しく感じられる。
時折、静寂の中からぶつぶつ呟く童の声が漏れてくる。幼い久平である。
ここでもまた久平は笑っていた。
鳥居の脇にしゃがみ込み、久平は夢中で地面に絵を描いていた。決して上手くはないが、犬や猫、牛、馬、小鳥など身の回りの生き物たちが生き生きと描かれていた。小さな頭の中では、それらは跳ねたり、駆けたり、舞い上がったり、久平の思うがままに動き回り、話しかければ、それにちゃんと応えた。久平は楽しそうであった。
人足の途絶えた静寂な空間に居て、久平は寧ろひとりぼっちではなかった。
だが、それも無残に打ち砕かれる時が来た。
「おい、いたぞ。」
静かな境内に大きな声が響き渡った。
久平と鳥獣たちの睦まじい空間が厄介な邪魔者に割り込まれた。悪童どもである。悪童どもに気付いた時は既に遅く、久平はまた虜にされてしまった。意地悪い顔は、久平を穴に落とし置き去りにしたことなど、すっかり忘れているようであった。
悪童のひとりが久平の前に立ち塞がり、両手に抱えた里芋の大きな葉っぱを、小高い鼻梁鼻の先に突き付けた。葉っぱの中からは、ぷんと嫌な臭いが漂っていた。葉っぱを手にした悪童さえしかめっ面をし顔を背けるほどであった。悪童がにんまり笑って葉っぱを開くと、中からは馬糞が現れた。
悪童は葉っぱを久平の顔に押しつけるようにして、
「喰え。」
と命じた。
久平が逃げようとすると、別の悪童が背中から羽交い締めにし身動きの取れないようにした。
「喰え。」
悪童はまた命じた。
「喰え」
「喰え」
「喰いやがれ」
悪童どもが口々に囃し立て命令したが、久平は口を固く結んで必死に抗った。抗いながらも、久平の顔はやはりにやけており、悪童どもを嘲笑ってさえいるように見えた。悪童どもの仕打ちを拒んでいるようにはとても思えない。悪童どもは苛立った。
ほんの悪戯半分で、まさか本気で食わせる気などなかったのだが、それではもう収まりのつかないような気分になり、何が何でも久平の口に馬糞を放り込んでしまわねば気が済まぬようになっていた。
「この野郎。」
葉っぱを手にした悪童は、中にくるんだ馬糞を、久平の顔に向け思い切り叩きつけた。そして、葉っぱの上からごしごしと久平の顔に馬糞をこすりつけた。
葉っぱを離すと、馬糞にまみれた久平の情けない顔が現れた。悪童どもは、自分たちの仕業であることを棚に上げ、鼻をつまみながら、久平を遠巻きにし、
「この糞野郎。」
と手で追い払う格好をしながら罵った。
「糞野郎」
「糞野郎」
「糞野郎」
罵声が合唱となり境内に広がった。風に振るえる梢のざわめきまでが、「糞野郎」と囃し立てているように聞こえた。
久平は悲しくて仕方がなかった。
だが、その感情は久平の顔に表れることがなく、ただどんよりと曇って見えた。馬糞にまみれ輪郭だけが辛うじて分かる、そのためかも知れないが、馬糞がじんわりと頬を伝って流れ落ちても、久平の顔に悲しみの色は浮かんでこなかった。流れ落ちた馬糞が唇の端から口中に漏れ入ると、胸が悪くなったのは久平本人よりも仕掛けた悪童の方であった。悪童たちが次々に吐き気を催し、境内の一角はゲロでいっぱいになった。それがさらに悪童どもに吐き気を催させた。
悪童どもの不快は増殖し、腹立ちに変わっていた。その原因が自分たちにあるのだとは微塵も思わず、災難を蒙った久平に全てをなすりつけようとした。
悪童のひとりが、不快な気持ちをぶつけようと久平のふくらはぎをめがけ思いっきり蹴とばした。
「ちくしょう」
そう言って、もう一度、久平のふくらはぎを蹴ると、一目散に走り去った。仲間の悪童たちも次々に久平のふくらはぎを蹴り走り去って行った。
久平はまたひとり置き去りにされた。糞まみれの顔を晒しながら佇む境内は、静寂なだけの空間では最早なかった。いきなり地面が割れ、地獄へと通ずる道が開かれる、そんな不吉な場所であった。否、既に地獄のただ中にいるのではないか、そんな漠然とした恐怖が初めていたいけな胸を襲った。
仲間に救いを求めようと地面に目を移しても、鳥獣たちの姿はどこかに消え去り、久平は本当にひとりぼっちになってしまった。
黒く塗られた顔は泣いているのやら笑っているのやら分からず、不気味に見えた。
寂れた空の色が重くのしかかり、冷たい風が肌を締め付ける。僧侶も走る時候と言うが、久平の家は明けても暮れても年がら年中休む間もない。その割には相変わらず貧しい暮らしは変わらず、正月を目の前にしながら、一家が棲まうあばら屋に注連飾りなどなく、みすぼらしいまま、年を越さなければならないのである。
明日はいよいよ大晦というその日、おっ父ぅとおっ母ぁは朝から浮かない顔をしていた。庄屋様の家まで暮れの挨拶に行くというので、久平は嬉しくて仕方がなかったから、おっ父ぅとおっ母ぁの表情が不思議に思えてならなかった。
庄屋様の門前には、両脇に立派な門松が立てかけられ、正月の準備は万端整っているのである。
久平親子は、裏木戸に通され、大きな蔵の前で庄屋様がお出でになるのを待っていた。
庭では、晴れ着をまとった子供らがはしゃいでいた。年格好なら久平とほぼ同じ、何れも庄屋様のお孫さんである。子供らはもうすっかり正月気分で、追い羽根を突いたり、独楽を回したりして遊んでいた。ぼろを纏った自分と見較べるまでもなかったが、久平は決して羨ましがったり妬んだりすることはなかった。庄屋様とは身分が違う、常日頃より、おっ父ぅとおっ母ぁにそう叩き込まれていのだ。
いくら待っても庄屋様は現れることがなかった。家にも入れてもらえず、吹き曝しの中で親子三人佇み、寒さに震えていた。危うくおっ母ぁが気を失いそうになった時、ようやく庄屋様が羽織袴姿で現れた。
「すまん、すまん。用事があってな。」
赤らんだ顔で、酒の臭いをプンプンさせながら、庄屋様はそう言った。
「庄屋様、今年も一年お世話下さり、ありがとうごぜえます。」
おっ父ぅとおっ母ぁは腰を深く折り曲げ、うやうやしく暮れの挨拶をした。
「礼なんか良い、良い。」
恰幅の良い体を揺すりながら、庄屋様は物わかりが良さそうに言って笑った。久平はそんな庄屋様が大好きである。久平はにこっと笑い、庄屋様の顔を見上げた。久平と目が合った庄屋は、袖口から包み紙を出し、
「ちょいと早いがお年玉じゃ。さ、しまっておきなさい。」
そう言って、久平の手に握らせた。
「ありがとうごぜんす。」
礼を言って久平はまたにこりとした。
「重ね重ね、ありがとうごぜえます。」
おっ父ぅとおっ母ぁは、申し訳なさそうに、更に腰を深く折り曲げた。
「坊、おっ父さんとおっ母さんにお話しがあるから、木戸の外でお待ち。それとも、先に一人で帰られるかえ。」
と、庄屋様が言うと、おっ父ぅは
「久平、おっ父ぅとおっ母ぁはもう少し庄屋様に御用があるけ、先に帰っておくれ。帰り道は分かるのう。気を付けて帰れや。」
優しく言ったが、その声は少し震えていた。久平はそれに気付くこともなく、また、たとえ、気付いたとしても、どうしておっ父ぅの声が震う理由など、幼い久平には分かる由もなかった。寧ろ、久平は先程、庄屋様に頂いた包みの方が気になっていた。
久平は、皆に会釈すると、庄屋様の家を出た。
まさか、自分が帰った後、両親が庄屋様にこっぴどく叱られているなど久平には想像も付かなかった。温厚で優しそうな顔からは、年貢を納められずにいる両親を悪し様に罵る姿など微塵も窺えないのである。自分にお年玉を下さる庄屋様はありがたいお方なのである。庄屋様が手に持たせて下さった小銭入りの包みを大事に握りしめ、久平は急ぎ足で帰った。
両親に手を引かれて歩いて来た道のりはさほど長くも感じなかったのに、一人で帰る道のりはそれよりずっと長く思われた。暗い雲が広がり、薄闇の世界に引きずり込まれつつある一面の景色によって、久平の不安は一層煽られた。
庄屋様の家を出た頃、降り始めた牡丹雪は吹雪となり、家路を急ぐ久平の足取りを阻んだ。吹雪は勢いを増すばかりで、たちまちのうちに辺り一面を真っ白に染め上げ、野面か田圃か野道かはたまた小川か区別のつかぬほどになった。久平は頭に浮かぶ景色を頼りに懸命に歩いた。
正面から吹き付ける強風に目を開けるのも辛く、頬は突っ張り、手足の指先はかじかみ、地面に積もった雪で草履は濡れ、幼い足取りを阻んだ。それでも久平は、もう少し、もう少し、と踏ん張り懸命に歩いた。
半刻ばかり歩いただろう。漸く久平は地蔵堂の前まで辿り着いた。ここまで来れば、その先の辻を曲がれば、もう少しで家に帰り着く。
信心深い久平はいつものようにお堂の前に立ち手を合わせ、ここまで歩いて来られたことを感謝し、
「まんまんさん、いつもありがとうごぜす。」
とお礼を述べた。
久平は健気な子である。仏さんにお願いするなどおこがましいことだとでも思っているのか、そんなことをしたことは只の一度もないが、毎日寝起きして過ごせるのは仏様のお陰と感謝し礼を述べるのである。
久平は背伸びして、お堂の屋根に積もった雪を払おうとした。
すると、お堂の影からすすり泣く声が聞こえてきた。
何事か、久平は気になってお堂の裏側をそっと覗いてみた。庇の下にうずくまる童、その身体は雪で真っ白になっていた。お堂の陰に身を寄せ、風を防ぐことはできても、降り積む雪まではどうにもならないようだ。体を震わせながら泣きべそをかくその顔は、わざわざ記憶の糸をたぐり寄せずとも覚えがある。いつも久平を虐めて囃す悪童どものひとりだ。
久平はこれまでに蒙った悪行の数々を思い出し、怖れをなした。そっとその場を立ち去ろうとした久平だが、しゃくり上げる声につい足は止まった。悪童の足下に転がっている鼻緒の切れた草鞋に、久平の気持ちは変わった。
久平は、お堂の前に戻り、もう一度手を合わせ深々とお辞儀をすると、背伸びをし、お堂の屋根から藁しべを数本、すうっと抜き取った。
久平は悪童の側に寄ると、身を屈め、転がっていた草鞋を拾い上げた。気付いた悪童は、慌ててそっぽを向き、泣きじゃくるのを堪えた。久平は、抜き取った藁しべを両手で撚り合わせ細縄を編み、切れた鼻緒の代わりに草鞋につなぎ合わせていった。みるみるうちに草鞋が元のようになっていく様子を横目で見ながら、悪童は久平の器用さに感心した。
その目は、いつものような意地の悪い色に濁ってはいなかった。悪童は涙に濡れた目を凝らし器用に動く久平の手元を見つめた。小さな手にできた無数の豆に目が止まった。悪童はおっ父ぅとおっ母ぁの横に並んでせっせと草鞋を編んでいる久平の姿を想像した。
久平は草鞋の鼻緒を結び上げると黙って悪童の前に差し出した。悪童は戸惑いの表情を浮かべた。上目遣いで久平を見ると、照れ臭そうにしながらそろそろと草鞋に手を伸ばした。悪童は何か言おうとしたがうまく言葉に表せずにいた。
草鞋を手に取り、顔を上げ久平と目が合うや、悪童の口から思わず、
「うめえもんだの。」
と言葉が漏れた。それが悪童が表すことのできる精一杯の感謝であった。
久平はにっこりと笑った。
つられて悪童もにっこりと笑った。
いつしか吹雪は収まった。二人は揃って、僅かに晴れ間さえ覗かせている空を仰ぎ見た。つい先程までべそを掻いていた悪童の顔も見事に腫れ上がっていた。久平は雲の間から遠慮深げに顔を出したお天道様に向かって、にっこり微笑んだ。
「ごめんよ。」
悪童は呟くように言った。
久平は、悪童に向き直り、欠けた前歯を見せ笑みを浮かべたまま、「ううん」と首を横に振った。
それだけ言うと、悪童は気恥ずかしそうに駆け出した。
久平もまた家路を急いだ。
久平はいつも笑っていた。
どこで何があろうと久平はいつも笑っていた。
可笑しいのでも楽しいのでもあるまいが久平はいつも意味なくただ笑っているばかりであった。
笑うことしか能のない愚か者なのか、あるいは何事も笑って済ませる利口者なのか、どちらにせよ、笑う以外の久平の顔をこれまで誰も見たことがない。
久平のにやけた表情に何が含まれているのか、誰も知る由がない。笑う以外の表情など、産まれてくるより以前に、おっ母ぁのお腹の中に置き忘れてきたのかも知れない。
山の木々が芽吹き、地面から新芽が顔を出し、鳥は囀り、数多の虫や動物が眠りから覚めぞろぞろ這い出す。里にもまた、春が巡ってきた。
肌寒さはまだ少し残っているが、うららかな日差しが垂れ込めた日だった。
久平は相変わらずひとりぼっちであった。だが、寂しくはなかった。
いつものように笑いながら、久平はぶらぶらと野道を歩いていた。
だが、いつもとは違っていた。春の陽気のせいだろうか。心なし明るく見えた。絞りかすのようなかさかさした笑みではなく、もぎたての果実のように瑞々しい笑みを零れるように見えた。
久平は童歌まで口ずさみ、機嫌が良さそうであった。久平の上機嫌を促しているのは、右手にかざしたかざぐるまだった。かざぐるまは風に吹かれくるくる回りながら、幼い久平を夢の世界へ誘っていた。川のせせらぎ、風の音、うららかな陽の光、色とりどりの花に囲まれ、鳥獣たちと戯れ、悠久の時が流れていた。
久平はひとりぼっちであっても孤独ではなかった。夢を見る力が久平を慰め、幸せにしていた。
暖かな軽い風が吹き過ぎた。かざぐるまは音を立て回った。
久平はにっこり笑った。
「おい、馬糞野郎。」
大声で言うのが聞こえた。
かざぐるまに夢中になっていた久平が気付かぬうちに、反対側から悪童どもが向かってきたのだ。
久平は立ちすくんだ。そして咄嗟にが右手を背中に隠した。それが悪童どもの邪な心に火を点したのである。
「この糞野郎、何を隠しやがった。」
悪童のひとりが責め寄ると、他の悪童どもも久平ににじり寄った。
たじろぐ久平の背中に回り込んだ悪童が、
「かざぐるまだ。」
と叫ぶや、いきなり、久平の小さな手からかざぐるまをもぎ取った。
悪童どもは、奪ったかざぐるまを、わが物顔に振り回したり、息を吹きかけたりして遊んだ。その表情は皆、無邪気である。その無邪気さが却って久平の胸を掻きむしった。悪童どもはかざぐるまを返そうとはせず、くるくる回る様子をわざと久平に見せつけて羨ましがらせた。
「へい、悔しかったら取ってみやがれ。」
悪童どもは罵った。
久平は、かざぐるまが悪童どもの手を渡っていくのを、指を咥えて眺めているしかなかった。それで楽しかろう筈はない。嬉しかろう筈もない。だが、久平はいつものように笑っていた。瑞々しさが最早失せ、絞りかすのようになった笑いが頼りなげに宙に浮かんでいるように見えた。
そこに一人、悪童どもから離れて佇む者があった。悪童どもと連れ添って来た筈なのに一線を画しているように見えた。その者は、爪弾きにされた訳でもなさそうであるのに、何故かおどおどしていた。悪童どもに交わろうとしないばかりか、久平の目も避けている様子であった。
大晦の前の日、雪の積もった地蔵堂の裏で泣きべそを掻いていた童である。草鞋の鼻緒を切って泣いていたあの童であった。童はあの時の恩を返すつもりはある。だが、手も足もすくみ、身体は震え、口元は固く閉ざされ、なす術もなく只棒立ちするほかなかった。
久平は棒立ちする童をちらと見た。
「助けて」
そう言いたいところだが、童は久平と目が合うと思わず視線を逸らした。童はいたたまれない気持ちであった。あの日、「ごめんよ」と詫びながら、久平に救いの手を差し伸べることのできぬ自分が情けなかった。久平に味方した後の仲間の仕打ちがどうしても怖かった。
久平を救ってもやりたいし、仲間外れにもされたくない。
板挟みになって、身の置き処の分からぬ童はおどおどしていた。
視線の定まらぬ童に苛立ち、久平は遂に
「返して」
と叫んだ。久平が逆らったのは初めてだった。その顔からは笑いが消え、真剣そのもので決してへつらってはいなかった。
しかし、悪童どもはわざと聞こえないふりをした。それどころか、聞こえよがしに歓声をあげ、かざぐるまを高くかざし、久平を歯がみさせた。意地の悪い仕業は止むどころか増す一方であった。
久平は、もう一度、
「返して」
と大きな声で叫んだ。
大柄の悪童が、
「何を、生意気な。」
と恫喝し、久平の胸を小突いた。悪童の逞しい腕は、華奢な体をいとも容易くひっくり返し、久平は地べたに仰向けに倒れた。悪童は久平を見下ろして、高慢な態度で言った。
「偉そうな口を叩くんじゃねえ。返して下せえ、って地面におでこをこすりつけてみやがれ。そしたら返してやるよ。」
道理の通らぬことを平気で言う悪童に、久平は悔しそうな目を向けて睨んだ。
「何だ、文句あるのか。」
怒鳴りつける声に、久平は震え上がった。久平は大柄の悪童が恐ろしかった。悔しいけれど、腹立たしいけれど、久平は悪童の命令に従うほかなかった。久平はひざまずき、地面に額を付けて
「返して下せえ。」
と拝むように言った。
しかし、悪童はかざぐるまを手にしたまま、せせら笑い、さらに注文をつけた。
「ばーか。誰が返すか。返して欲しけりゃ、その恰好でわんと吠えてみな。」
「そうだ、そうだ。わんと言え。」
悪童どもは声を合わせて囃し立てた。
久平は、悔しくて、悔しくて、悔しさが何重にも増したが、悪童の言うままに従い、
「わん。」
と言った。遠吠えする気力さえ失った負け犬の声であった。
「は、は、は、は、は」
悪童どもは、ただ、嘲笑うだけだった。かざぐるまは依然、悪童の手の内にあった。更に面白がって、
「次はよう、片足を上げて、犬のしょんべんを真似してみな。」
と命じた。
久平は悪童の言うがままにした。しかし、悪童どもは、決してかざぐるまを手から離そうとはしなかった。かざぐるまを返す気など毛頭ないくせに、悪童どもはいちいち難癖を付けては久平に命じ、からかった。
そうしているうち、大柄の悪童が、仲間から離れて佇む童に
「お前もこっち来いよ。面白えぞ。」
と言って呼びつけた。
童は、おどおどしていた。
その姿に久平は何故かもやもやした気持ちが湧き、すくっと立ち上がると自分の倍以上もある体めがけてぶつかっていった。
だが、久平が適うような相手ではない。
片腕一つで、簡単に久平ははね返され、地面に倒れた。それでも、また久平は立ち上がりぶつかっていった。そして、また、はね返された。
久平は何度も懲りずに繰り返した。
頭にきた大柄の悪童は、かざぐるまを力一杯地面に叩き付た。形の良い羽はひしゃげて不格好な姿になった。
「お前が悪いんでぇ。」
大柄の悪童は居直った。
罵られながら、久平は形の崩れたかざぐるまを拾い上げようとした。すると、すかさず大柄の悪童が力任せにかざぐるまを踏みつけた。羽はボロボロになり柄が折れ、見るも無惨なかざぐるまは、久平の胸をえぐった。
これには流石の悪童どもも皆、唖然とした。
決して久平を案じてではない。
もう少しこのかざぐるまで遊びたかった。自分たちだって、それが欲しかったのだ。
笹の葉で拵えたかざぐるまの他には知らず、紙でできたかざぐるまは悪童どもに取っても珍しくて仕方なかった。それを久平が持っているのが羨ましかった。それなのに壊すことはないだろう。そう言いたかったが、大柄の悪童が恐ろしくて、皆は黙っていた。
久平親子は、百姓を生業としている。それもしがない小作である。
庄屋様よりあてがわれた谷間の田圃は、日当たりも水はけも悪く、毎年、稲の実りが悪くて苦労している。おっ父ぅもおっ母ぁも、日の出と共に出かけ、日の暮れまでせっせと働く。米と稗、粟以外の作物をこしらえることを庄屋様はお許し下さらず、豆や胡瓜、茄子、芋など自分たちが食う分の僅かな野菜は田圃の畦で細々と育てるくらいである。百姓の中には、米より野菜を作ることに精を出し、それを売っては金にしている者もある。だが、久平の家ではそれがままならない。売るのは疎か、自分たちの食い扶持さえ賄うのがやっとである。庄屋様に収める年貢で毎年苦しみ、まともな暮らしなど望むべくもない。
おっ父ぅとおっ母ぁは、米を作る百姓が米を食えぬということを理不尽とも思わず、素直に受け入れるばかりであった。その理不尽がたまに微笑むのは、野良仕事から帰った後の夜なべ作業によって僅かな銭を得る時である。
おっ父ぅとおっ母ぁは、野良仕事から帰ると、菜種油の薄暗い明かりを頼りに、乾した藁を打って、草鞋や簑、菅笠を編み、町まで売りに出る。
雨漏りが絶えないあばら屋に、農具をしまっておく納屋などなく、鋤や鍬は鍋釜と一緒に土間に寝かせてあった。
朝な夕な、囲炉裏にかかった鍋には稗や粟の粥ばかり、米のおまんまを食うことなど滅多にない。その粥さえも、椀の底に申し訳程度の粒が沈むだけで、それで腹が満たされる道理などありえようもなかった。おっ父とおっ母は、せめて年に一度、正月くらいは贅沢をと願ったが、その贅沢が、芋九分に米一分の粥だという始末である。
住まいも食う物も粗末なら、着る物とて同じである。
久平は綻びた着物一着きりしかなかった。それでも、育ち盛り故、年に一度は小さくなった着物の替わりを新調してもらうことができた。それに引き替え、おっ父ぅとおっ母ぁは、わが子よりさらにひどいぼろを何年も辛抱しながら着ていた。
この世に、ひっそりと影のように生き、それも、ぎりぎり生きるのが精一杯という暮らしに、久平の一家は甘んじるほかなかった。楽しみなどというものは何一つなく、おっ父とおっ母の生きがいと言えば、愛しわが子の久平だけであった。
とは言え、その愛しわが子の面倒も野良仕事や夜なべ仕事に追われて、満足に見ることが叶わない。それでいて暮らし向きがよくなるわけでもないのだから、わざわざ貧乏を背負わすためだけに産んだようなものだと、久平を不憫に思う。貧乏にとって子を絶やさぬようにするのは何故か、おっ父ぅとおっ母ぁは考えに苦しむ。だが、どうにもならず、連綿と続く貧乏の帯に身を置く不条理を受け容れるしかないおっ父ぅとおっ母ぁこそ不憫であった。
久平も幼いながら、おっ父ぅとおっ母ぁの窮状は身につまされるようで、駄々をこねたり、すねたり、物をねだったりして、二人を困らせるようなことはしなかった。涙一つこぼしたことがなく、いつも笑顔を振りまく健気な子なのである。
そんな久平を思いやり、おっ父とおっ母は町に出かけて草鞋や簑や菅笠を売って手にした銭で菜種油や蝋燭、炭などに混じって、土産に赤と白の羽のかざぐるまを買って帰ったのである。
一体、何足の草鞋を売れば、かざぐるまひとつに変わるのか、幼い久平の知らぬところではあるが、おっ父ぅとおっ母ぁの指にこさえた血豆の数が草鞋に替わり、それがまたかざぐるまに形を変えたのだということはぼんやりとだが分かっていた。
おっ父ぅが笹でこしらえるかざぐるまも嬉しいが、小竹に紙の羽でできた形の良いかざぐるまは尚嬉しい。見かけの立派さだけでなく、おっ父ぅとおっ母ぁの苦労が滲んでいるからだ。久平は嬉しくて、嬉しくて、手にしたかざぐるまを離そうとはせず、そのまま寝床に入った。莚を重ねただけの寝床では肌寒いが、久平の心はほかほかして温かかった。
あどけない寝顔に、ふっと笑みが浮かぶのを見て、おっ父ぅとおっ母ぁは、久平の夢の中でくるくる音を立てながら回っているかざぐるまの様を想像しながら、顔を見合わせ微笑んだ。
貧しさの中のささやかな幸せのひとときであった。
柄が折れ、羽が破れ、どうにもならなくなったかざぐるまが地面に転がっているのを見て、久平はもとより悪童どもさえいたたまれない気持ちだった。
かざぐるまに罪はない。なのにどうして、、、。悪童どもは無念でならなかった。悪童どもとて、親にねだったりすることのできる身分ではないのだ。悪童どもが久平からかざぐるまをひったくったのも、本物の紙のかざぐるまが珍しいからで、手にして喜んでいたのだ。その喜びが糸くずのように放り去られたようになって、悪童どもも悲しくてしかたなかった。
久平は亡者のような表情でかざぐるまの残骸を拾い上げた。久平の頭の中では、おっ父とおっ母の悲しそうな顔がかざぐるまのようにぐるぐると渦巻いていた。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ただ渦巻いていた。
久平の顔には、笑いのひとかけさえも残っていなかった。久平は小竹を手にしながら体を震わせた。目と鼻と口が収まるべきところに収まらず、歪んだ顔をして突っ立ち、やがて喉をふるわす小さな嗚咽が漏れてきた。
久平は泣いていた。歪んだ顔をさらにくしゃくしゃにして、久平は泣いていた。
笑った顔しか見せぬ久平にその表情は不具合であった。久平はしくしく泣いた。
久平の初めて見せる泣き顔に、悪童どもは戸惑った。大柄の悪童一人が聞こえよがしに高笑いした。
「この阿呆め。」
嘯いて笑う意地の悪そうな目は、久平一人に対してでなく仲間の悪童どもに対しても向けられていた。悪童ども一人一人を威圧するように睨め回すと、皆は恐ろしさで顔を合わせぬよう俯いた。
久平の泣き声と悪童の高笑いが織りなす不協和音が辺りに響き渡った。周りの空気を揺さぶり反響を繰り返して広がっていくほどに、久平の泣き声はさらに酷くなっていった。久平は激しく泣いた。
悪童どもはただ呆然と立ち尽くし様子を眺めるだけであった。
キョッキョッキョキョキョ、林の奥から鳥の鳴く声が聞こえた。
それが自分への当てつけにでも聞こえたのか、大柄の悪童は腹いせに久平の頭を小突いた。
「お前が悪いんだぞ」
喚くように言った。
「お前らもやれ。」
大柄の悪童は自分以外の悪童どもに命じた。戸惑う手下どもに、大柄の悪童は「早くやれ。」と強く命じた。仕方なく一人の手下が久平の頭を小突いた。それに続いてもう一人が、さらに続いてもう一人が、と連鎖していくうちに、悪童どもの気持ちが次第に高ぶっていき、久平を囲んで拳固で殴り始めた。
久平はますます激しく泣いた。泣きながら、必死に悪童どもに抗った。悪童どもの胸を叩き、腹を蹴った。しかし、その仕返しにすぐ殴り返された。地面に倒れた久平に、悪童どもが寄りかかって皆でなぶりものにした。
久平の目から涙が止めどなく流れた。
だが、何故だか、久平の体を痛めつけていた悪童どもも一緒に泣いていた。泣きながら、拳を振るい、泣きながら平手を打ち付けた。
大柄の悪童だけは薄ら笑いを浮かべたまま、自分が仕掛けた事の顛末を面白そうに眺めていた。
「くそっ」
ひとりが言って地面を蹴ると駆けだして行った。すると、悪童どもは次々に走り去って行った。最後に残った大柄の悪童がペッと唾を吐きかけると先に走り去った悪童どもの後を追って駆けて行った。
残されたのは久平と例の童だけだった。大柄の悪童に命じられても与することはなかった。さりとて止める勇気もなく、やはり傍観していただけだった。童も大粒の涙を流していた。童は他の悪童どもが帰ったのを見計らって、久平の側に歩み寄って手を差し伸べた。だが、久平はその手を振り払った。振り払われて用もなくなった手を引っ込めて童はひと言、
「ごめんよ。」
と言い残して去って行った。
皆が去った後には、ぼろ雑巾のようになった久平が俯せに倒れ、すすり泣いていた。喚く(わめ)気力もなかった。泣き疲れた久平は、いつの間にか眠ってしまった。
西の方角から染まりつつあった茜の空が、萎れた花のように這いつくばる久平の小さな体を無慈悲に彩った。だらりと延びた手には、久平とおなじくらい惨めな姿のかざぐるまが空しく握り締められていた。
「坊」
誰かが呼ぶ声がして、久平は目が覚めた。
俯せになったまま頭だけ振り向くと、真っ白な歯を覗かせ日焼けの顔があった。
「大丈夫か」
と優しい声で訊いた。
その声と表情に見覚えがある。落とし穴から救い出してくれたあの若者である。
「また、苛められたのか。」
日焼けした眉間に皺を寄せて言うと、手を差し伸べ、久平の体を起こした。分厚い手の平の感触はあの時のままである。
「ほら、俺いらの背中におぶされ。」
若者は言った。
久平はきょとんとして返事が出なかった。
若者が背中を差し出すと、自然なままにその大きな背中に傾れかかった。
「さ、行こうか。お前の家は覚えておるつもりじゃが、間違ったら教えて呉れろ。」
そう言って、若者は久平を背中に負ぶって立ち上がると、久平の家に向かって歩き始めた。
キョッキョッキョキョキョ、闇に沈みつつある天空に滑稽な鳴き声が響いた。
「不如帰だな。まだそんな時期でもないんだがな。」
若者が空を見上げて、独り言つと、長い影を引き摺る二人の上を、気の早い不如帰が翔け抜けて行った。
キョッキョッキョキョキョ、不如帰が消えていった薄暗がりの中から、また声が聞こえた。どうにも間の抜けた声に、若者は
「そそっかしい奴だな。」
と言って笑った。
不如帰の滑稽な鳴き声にもまして、それを笑う若者の口ぶりが可笑しかった。久平は少し機嫌を取り戻した。
「さ、あのお馬鹿さんと駆け比べだ。ヒヒーン。」
若者は馬の真似をして戯けて見せた。いくら間抜けな不如帰と言えども、追いつくことなど出来ないのは分かり切ったことである。それでも、久平を元気付けようと戯けて笑う若者の仕草が可笑しかった。
久平は笑っていた。