六.
「――では、行ってまいります!」
まだ家族のほとんどが寝床でのんびりまどろんでいる早朝、フランジーヌは元気に声を張り上げて玄関へ走った。
このような朝早い時間に動いているのは、屋敷ではメイドや下僕などの使用人たちだけだった。
「…あ、い、行ってらっしゃいませ、お嬢さま…!」
主人たちが本来起きていない時間帯――つまりメイドたちの絶賛仕事タイムに屋敷を駆け抜けていく主人・フランジーヌの姿に、慌てて暖炉掃除をしていたメイドが立ち上がってお辞儀をした。
「ああ、――いいのいいの!もう、言ってるでしょ。私があなたたちの仕事の邪魔してるんだから、気にしなくていいの。どうぞ続けてちょうだい」
前掛けを炭で汚したままの姿で、若いメイドはおたおたしている。
まるで見つかることを予想していなかった子猫のように、彼女は物陰にさっと隠れてしまった。
「…あ、あの、ご出仕応援しておりますから…!お気をつけて行ってらっしゃいまし!本日もご健康で!」
「うん、ありがとう」
それでも健気な応援の姿勢を見せてくれたメイドに、フランジーヌはにっこりほほ笑んで部屋を走り去った。
「――ああ、やだ遅刻しちゃう…!髪がうまくまとまらないんだもの…!」
馬車に乗り込みながら叫ぶフランジーヌに、
「いえ、お綺麗にまとまっておいでですよ。――それでは」
御者がにこやかに返して馬車を出発させた。
ボーチで列をつくって見送っている使用人たちに手を振りながら、フランジーヌは呟いた。
「もう、見送りはいいって言ってるのに。みんなには朝の仕事があるんだから」
「そうは言いましても、晴れのお嬢様のご勇姿ですからね。毎朝見送りませんと、我々も気が済みませんよ」
御者は快い返事をして笑った。
「なかなかお忙しいみたいですが、――念願のお役人づとめ、我々も頼もしく見守っていますから。頑張って行ってらっしゃいませ」
「ありがとう」
笑ってうなずいた後で、フランジーヌは小さく口の中で呟いた。
「…なかなかどころか、死ぬほど忙しいんだけど……」
「…?何か仰いました?」
いつもどおり馬車を領地にまっすぐ伸びる道を進ませて、御者がたずねる。
「ううん、なんにも」
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「――おはよう、ミス・ストレイナー。
支援金出資予定の会社のリストはどこだ?この前作成したものだ」
扉を開けて入って来るなり、この二か月、毎日嫌というほど顔を合わせている上司、ログリース氏が大声を上げた。
「あ、あの、そちらの机に…。あの、ミスター・ワイクが、場所はご存知のはずですが」
自分の机で作業をしていたフランジーヌは顔を上げて答えた。
ログリース氏は、書類はどこなのだと不機嫌そうにぶつぶつ呟きながら、その辺りの書類を自らひっくり返し始めた。
毎度局長の性急さにうんざりしながら、フランジーヌは作業を中断して自分も書類を探し始めた。
「ミスター・ワイクなら今日から一週間、お嬢さんの式のために欠勤だ。忘れたのか?」
「…ああ、忘れておりました。――どうぞ」
渋々自分の手で書類を渡すと、局長はざっと目を通した後で額にしわをつくった。気に入らないらしい。
このほど、産業を振興させるためという名目で、国から数十の会社や団体に支援金が支給されることとなった。支援金は、希望して名乗りをあげた会社から選んで送られることに決められた。
書類に連なっているのは、その支給予定先の会社である。
「…なんだこれは?無駄な会社が三十社はあるじゃないか。誰だ。このふわふわしたリストを作成したのは?」
「作成はリチャードとベッ……ベルカストの元の職員で、三週間かけて作りました。私のところでも最終的にチェックしましたが…」
「チェック?チェックの意味が分かって発言しているんだろうな?ミス・ストレイナー。リチャードたちにやり直しだと言え。少なくとも、こっから先は全部いらん」
あっという間にいくつかの箇所に取り消し線が引かれ、中には一枚まるまる×をつけられた状態で書類が突っ返された。
「えぇ…。これ全部、ですか…?」
申請があった数百社のなかから厳選して絞り、リチャードたちが散々骨を折ってつくったリストなのだ。
フランジーヌも目を通したし、選ばれた会社には妥当性を感じていた。
当惑して彼女が聞き返すと、
「ちゃんと一社一社調べたんだろうな?そこのゴジャービム社なぞ、管理もできない工場を増やすばかりで、純利益なんか一向に増えていないぞ。金をやるだけ無駄だ。却下だ」
フランジーヌは慌てて書類に目を通したが、今見たところでその数十社の内情なんか分かるわけがない。
「――し、調べてみます。…でも、局長。アセトン社には支援金を渡してもいいのではないですか?最近トラス国の鉱山を買い取って、成長しようとしていますし。設備を増やすために必要な資金として申請しています。…成長すれば、きっと国の利益が増えますわ」
局長はこちらをにらみながら言った。
「駄目だ。アセトン社は、去年の冬頃に、イズリー地方の鉱山で労働争議が起きている。特に幼い子どもを劣悪な環境で働かせているらしい噂がある。もし本当なら、それを改善しないかぎり国から金は出せない」
フランジーヌは顔を赤らめた。
最近多い、過酷な環境で働かせられている労働者たちの不満の運動は、国を徐々に騒がせつつある問題だった。
おもに鉱山や工場で、労働者がひどく劣悪な環境で働かされ、子どもも犠牲になっているのだ。
そうした噂や報道はフランジーヌも耳にしていたが、その会社の名前などを正確にすべて把握しているわけではなかった。
(…普通の貴族の娘より、そうしたことにくわしいつもりだったのに…)
「…申し訳ありませんでした、局長。そうした問題のある会社に支援金を渡せないという決まりを、知らなかったものですから…」
「何?――なんと言った、ミス・ストレイナー」
突然ログリース氏は険しい顔になった。
さきほどまでのしわの寄った顔とはまた違う、厳しい表情だった。
「規定などはない。その会社の労働環境の劣悪さだとか、そんなことまで精査して支援金の有無を決めろなどというルールはないぞ」
「え、でしたら何故…」
「君は納得できるのか。そうやって人をすり減らして使っているのが明らかな会社に金を送って、よしんば国が成長できても、君は本当に将来それでよかったと思えるのか?」
「…………」
フランジーヌはまごついた。
「私ならない。少なくとも、そういう会社だとわかっている限りは、国からみすみすその非道な会社をぶくぶく肥え太らせるような真似はしたくない。
リストに残っている会社がそうでないとは言い切れないが、少なくとも、知っている限りではそういう問題のある会社は避けるつもりだ。これは私の考えだ。
納得できないならリストにそれらの会社を残して返してくれていい。最終的には会議でみなで話し合って決めるのだから」
「…いえ、やっぱり……私も同じ考えです。局長。私もリストにそういう会社を乗せるのが正しいとは思えません」
「ああ、それを聞いて安心したよ。ミス・ストレイナー」
フランジーヌが深刻な顔をして向き合っているのに対し、局長はもう話が終了したかのように自分の机に向かった。それから彼は言った。
「――で、分かったらすぐチェックにとりかかってくれないか?頼むから、もうざるみたいな網の目でチェックはしてくれるなよ」
フランジーヌは口を引き結んで返された書類を握りしめ、それをにらんだ。