四. 思わぬ邂逅
――彼女が立ち直るのは早かった。
というのも、あの忌々しい不合格通知が届いた二週間後には、予想もしないような素晴らしい知らせが届いたのだ。
「え?……何なの…これ。…本当?」
通知の紙を握りしめた我が娘を見下ろし、母ははーっとため息をついた。
「…本当かどうか、私の方が聞きたいんだけど…」
「――嘘でしょう…。だって、これ…私、王宮の役人に採用されたってことよね…?」
フランジーヌの手元に握りしめられていた紙には、
〝ノグワース国 王蔵省 商業発展振興推進局 局員指名通知〝
なる聞き覚えのない文字が躍っている。
「しょ…商業発展推進局…?…あ、違うわ…商業発展振興推進…ね。……――つまり何?」
母がそう呟いたのも無理はない。
王宮の官僚組織を学んだはずのフランジーヌにさえ、聞き覚えのない名前だったからだ。
通知と一緒に綴じられていた書類を広げて読んでいた父が言った。
「―…どうやら新設の部門らしいぞ。局長は……む。ログリース氏、か…?」
眉根を寄せた父を見上げ、フランジーヌは問うた。
「ログリース氏…?聞いたことないわ。お父様ご存じ?」
「聞いたことがないだろう、そうだろう。当然だ。お前が紳士の名前をまともに覚えようとしてくれたことがあったか。
ログリース氏は…確かヘイムブルグの首都の大学をご卒業なされた後、長い間外国にご滞在されていると聞いていたが…お戻りになられていたんだな」
「――どういう方なの?」
母がこらえきれなかったようにたずねた。
母の聞くどういう方なの、は、経歴や学歴よりも家格や親戚を問うものだった。
つまりちゃんとした親戚を持っているんだろうな、と聞いているのだった。
「お前まで聞いたことがないとはな」
父は眉を上げて言い、手紙に目を戻しながら言った。
「ログリース氏のお父上は先の王陛下の従弟、ワイズナリー公爵だ。ログリース氏は上にご兄弟がいらっしゃるから爵位は継がれていないが……。
ワイズナリー公爵だが、交通大臣と司法大臣をお勤めになられた後、今は王蔵大臣を務められていらっしゃるはずだ。彼はとても国のために尽力してこられた、素晴らしい紳士だな」
「――…まあ!思い出したわ…!そうよ、ログリース氏よ!名前は聞いたことがあるわ。ああ、しっかりした方ね。立派な上司だわ…!」
突然叫んだあとで、母は声のトーンを落とした。
「…でも、ねえ…。兄のダミアンにそういう話が来てくれるんだったら分かるんだけど、まさかフランジーヌに、なんて…ねぇ」
「私受けるわ!――もちろん行くわ!」
椅子から立ち上がった娘を、母親が目を丸くして見つめた。
「…とんでもない!今度のウェルマム様のパーティのために、もう新しい藤色のドレスをお前のために仕立ててあるのよ!忘れたの!?一昨日採寸したばっかりなのに…!」
「いらないわ!仕立て直してイリーシャにあげて!」
フランジーヌは一番上の姉、ダイアナと寄り添って座っている二番目の姉を振り返って言い放った。
たまたま嫁ぎ先から帰省してきている長姉と一緒に、妹を不思議な面持ちで眺めていたイリーシャは、突然向けられた言葉に驚いたようだったが、慌ててうなずいた。
「私には新しいドレスがいるわ!出仕するのに布を無駄にたっぷり重ねたドレスなんていらない!そうね、役人の黒い制服になじむような、焦げ茶や黒が基調のシンプルなものがいいわ。なるたけスマートで、動きやすい生地のものを。王宮に出仕するんだから。……そうよ、最高だわ…!」
段々気分が高揚してきて、最後にはフランジーヌは叫んでいた。
「…ああ、私出仕するのよ!最高でしょお母さま。――さあ、誇らしい娘を抱きしめて!口づけして!」
勢いにおされてハグした後、母親はフランジーヌの首元でうーんとうなった。
「気絶して、このまま夢から覚めるといいのに」
父親がゆっくり首を振って言った。
「残念ながら、現実だ。そして、私たちの可愛いフランは、止めたって飛び出ていくんだよ」
フランジーヌは母親を抱きしめながら、父に向ってとびきりの笑顔をつくって言った。
「ありがとう!お父様。私、行ってくるわ!」
************
「――ここが……商業発展振興推進局の部屋ね。…はあ、ここが。ここがね…」
フランジーヌは、がっくり肩を落とした。
目の前には、月桂樹などの葉の生い茂る中に天使の踊っている、優美で見事な彫刻の施された分厚い木の扉が立ちはだかっている。
新設の局とあってか、なにせ王宮の道行く人にたずねても誰も知らないのだ。
さんざん苦労してたどり着いたフランジーヌは、首を振って疲れを振り払うと、気をとり直して扉をノックした。
扉を開けたのは一人の紳士だった。
「やあ、いらっしゃい。――もしかして、ミス・ストレイナーかな?」
「ええ、はじめまして。お会いできて光栄です。あの…」
「フレイマンだ。リチャード・フレイマン。どうぞよろしく」
出迎えたのはがっしりした肩幅をもった青年だった。
いかにも狩猟などのスポーツが好きそうな健康な青年で、彼はきびきびとフランジーヌを案内してくれた。
「若いレディまでここに来ると知って、みんな驚いてたんだよ。ここが君の机だ、ミス・ストレイナー。必要な物があったらあちらの職員に行ってくれ。彼はミスター・ワイクだ」
部屋では何人もの職員が先に入っていて、雑然とした荷物を整理したり、中に運び入れたりして、忙しそうにしていた。
そんな中で、壁際で書類の山を抱えていた初老の男が手を振って顔を上げた。
「――これは、レディ。何はともあれ、ご就任おめでとうございます。私は書類の管理などを任されています、デヴァリ・ワイクと申します。ご入用な備品などもございましたら、私にお申しつけください」
フランジーヌはお辞儀をして挨拶を返した。
「お会いできてうれしく思います、ミスター・ワイク。よろしくお願いします」
「ええ。どうも。書類のことなら私に聞いてください。当面必要になるものについては、すべてここに揃っているでしょうが」
ミスター・ワイクはうなずくと、また書類を抱えて忙しそうに向こうへ行った。
「頼もしい人だよ」
「ええ、それで――…」
私たちは実際に何をするの、とフランジーヌが続けて質問する暇もなく、リチャードは次々と周りにいた人間を紹介しだした。
フランジーヌは一生懸命うなずいて聞いていたが、その時そこにいた二十人を超す人間の名前と顔を一度に覚えるのは、記憶力のよさが自慢の彼女にとっても、それはそれは難しかった。
(ちょ、ちょっと待って。この人がミスター・ドレイクで、あっちの人が連絡係の………ああ!もう無理!)
「それであっちの人が……」
「あの、ミスター・フレイマン…。あの…」
突然部屋の向こうで、男が大声で笑いだした。
「――リチャード、ちょっとストップ。彼女が困ってるよ」
笑いながら歩み寄ってきたのは、まだリチャードが紹介していない男だった。
彼は立ち居振る舞いとその様子からして、リチャードと同じく貴族の紳士だろうと思われた。
「どうも。――もう自己紹介はいいって顔してますね。はは、じゃ、簡単にいきましょう。俺はベックって呼んでください。ま、おいおい覚えてくれれば助かりますね。
――なあ、リチャード。お前は駄目だな。ご婦人を困らせているのに気がつかないかな。ひっきりなしに人を紹介してさ、かわいそうだろうに」
そう聞いてリチャードは顔をしかめた。
「…ああ、俺が悪かったよ。お詫びさせてくれ、ミス・ストレイナー。俺はとにかく配慮の足りない男なんだ」
「遠慮もない」と、ベック。
「そう」
「節操もない」
「そう…れはないだろ。言いたいこと言ってんじゃねえぞ。――お前、仕事どうしたよ」
ベックの言葉にうなずきかけ、むっとしたようにリチャードは隣を振り返った。
「何が?」とベック。
「朝局長に頼まれていた仕事は?」
「備品の発注なら職員に頼んだし、頼まれていた書類も届けたし、隣の部屋の面々への挨拶も一応したよ。――予想どおり、作業の音がうるさいって近くの部屋の住人たちから苦情がきたんですよ、ミス」
フランジーヌの視線に気づき、ベックは彼女にも話しかけてくれた。
「ミス・フランジーヌは紅一点ですね。…嫌味ではありませんよ。俺は正直に言う人間なもので。こう言いたいんです。勇気がおありですね」
「いえ、私は元々役人として働きたかったんです。こういう現場に来れて本望ですわ」
フランジーヌがにっこり笑って言うと、ベックは不思議そうな顔をした。
「役人に?それは不思議だな。…こういうとまたぶしつけですけど、ご婦人の望む仕事ではないでしょう。この仕事は」
フランジーヌが財建省の役人試験に落ちたことなどを話すと、二人とも驚いた顔をした。
「へえ、世の中は広いんだなあ。なあリチャード。俺は、布をどれだけ優雅にひらひらさせるかということに執心してるご婦人しか、これまで見たことがなかったからさ」
「またお前はご婦人の前でそういうことを言う。…本当はね、悪気のない人間ですから、こいつは。…多分ね」
リチャードが申し訳程度のフォローを入れた。
フランジーヌが二人のやり取りに笑っていると、急に入り口のところにいた職員たちが一斉に声を上げた。
「――あっ!局長。お帰りで」
「局長。お待ちしてました」
入り口に一時視線が集まり、フランジーヌは慌てて身をひきしめた。
局長…。ログリース氏が来たのだ。
詳細は知らないが、これまで一応分かったことは、フランジーヌになぜかここの局員になれとの通知がきたのは、彼が指名したからだということだった。
(…どうしてかしら…?でも、ご本人にお会いできれば、きっと分かるわ…)
フランジーヌがどぎまぎして見つめていると、局長がこちらを振り返った。
「あ」
「…ん?」
思わずぽかんと口を開けたのはフランジーヌで、
ややあって怪訝な顔をしたのは局長のほうだった。
「あ、局長。おかえりなさい。あの書類の件ですけど……」
ベックが話しかけるひまもなく、局長は眉根を寄せたままつかつか三人に近寄って来ると、フランジーヌを見下ろして言った。
「――ミス・ストレイナー?」
「……はい」
(…ああ、やだわ。うそでしょ……)
――あの暗い庭で会った、冷たく嫌味ったらしい男、それが局長だった。
局長はじっと厳しい目でフランジーヌを見下ろしていたかと思うと、信じられないことを言い放った。
「…違うぞ。彼女じゃない。私は彼女には頼まなかった」