十三. 職場での一幕
バサリと机の上に投げ出された書類を見て、それからフランジーヌは目を上げた。
「――これは何でしょうか?」
「数字が間違ってる」
ログリース氏は向こうを向き、眉間を押えて目をつぶりながら、それだけ言った。
「…申し訳ありません。もう一度修正します」
「最近多いぞ。二度手間、三度手間だ。君に注意力というものがあるのか、疑わしくなってきたよ。指摘する方の身にもなってくれ」
フランジーヌは内心でため息をついた。
例のリストの会社を調べているせいで、彼女の時間は大幅に削られていた。
自分の班の職員たちにも大分無理を強いているため、フランジーヌ本人の時間をとにかく削ってあたるしかない。
(…さすがに疲れたわ……。――疲れたといえば…)
フランジーヌは目の前の上司を見上げて、目元の筋肉が少し痙攣しているのを発見して眉をひそめた。局長の顔の筋肉なんて、ここでは皮肉る時をのぞいて全然動かないのに。
「…局長?ちゃんとお休みになっていらっしゃいますか?大分お顔色が……」
「大丈夫だ。君が心配するようなことではない」
即座にきっぱり答えられたが、フランジーヌは負けずに返した。
「本当ですかどうか、怪しいものですわ。私に局長を心配する権限はありませんけど、局長がそれをお止めできる権限もありませんのよ。ご無理は禁物です。どうか、お休みになってくださいな」
思ったより強い態度で返されたからか、冷ややかな局長の顔がピクリと動いた。
(…あ、これこれ。この方、怒る時以外はほとんど無表情だけど、誰かを軽蔑したりむっときた時に、少しだけ表情を動かすんだから)
フランジーヌだって、だてにこの数か月ログリース氏と一緒に働いていない。少しの気配や仕草でも、彼の気持ちがある程度分かるようになったと自負していた。
どうやら今は少し怒らせてしまったようだ。
だいたい、ログリース氏は言葉や態度にあまり感情を表す人物ではないが、そういう気配だけでも、人にはなんとなく伝わってしまうのである。
本人もその冷ややかな無言の不機嫌さを隠そうとしていないと見えて、たとえ寡黙だろうがなんだろうが、彼の尊大さや傲慢さはすでに有名になり、社交界で彼の評判を著しく落としていた。
彼は顔にいっそう傲岸さを漂わせて、まるで彼女のおせっかいを軽蔑するような目で見下ろした。
「ミス・ストレイナー。君の権限のことだとかをつまらなく話している暇があったら……――」
「あのリストを早く提出せよ、ですね。了解しております」
「行動が伴ってきていないぞ」
「申し訳ありません」
「大体、書類のミスが多過ぎる。仕事に慣れて冗長になってきているんじゃないのか?」
「いえ、慣れで怠っているわけでは…」
「ではなんだこの体たらくは。他にどういう理由がある」
やけに食ってかかる。
ちょっとさっきのおせっかいな発言は失敗だったかもしれない。よほど彼の怒りに触れたのだろうか、あるいは疲労感でますます怒りっぽくなっているのか。
(まあ、部下に心配されるのはあなたの高いプライドを傷つけるの…?…人としてちょっと心配しただけなのに、どれだけ自尊心が高いの。そんなに食ってかかることないじゃない)
フランジーヌも思わず少し強い目で相手を見返していた。
「精一杯手を回していますが、私にも時間がありませんので」
「それでこれか?――もういい」
ログリース氏は、さきほどフランジーヌの机に置いたばかりの書類をさっと取り上げた。
「この修正は私の方の職員にあたらせる。君のところにはもう任せられない」
「な………」
フランジーヌは腰を浮かせた。
「命令だ。議論の余地なし」
背中越しに言われ、彼が相当自分との言い合いに頭に来ているのが伝わってくる。
「あと、あれはどうした?コートボート商会の財務調査は?」
「あ、はい。…それなら、この時期は毎年売り上げが落ち込む時期なので、ひとまず問題はなさそうでした。調べた資料はこちらです」
「手続きミスで、支援金支給希望の申請が出せなかった数社との話し合いはどうなってる?」
「……あ、それは、まだストップしたままかと…。少し、他の処理で手が回りませんでしたので…これから準備をして連絡にかかります」
「ルンデル商店街の例の官営工場の跡の売却値は?参加したのは何社だ?」
「え……と。…確か……申し訳ありません、まだ把握は……」
矢継ぎ早に質問を出され、段々答えの遅くなってくるフランジーヌに、ログリース氏は聞こえよがしにため息をついた。
「いつ引き出してもいいように数字は頭に叩き込んでおけ。そしてできない仕事はできないと言え。他の班に回す。君のところで業務が詰まっているんだぞ、ミス・ストレイナー」
「……………」
さすがに悔しいものが湧いてきて、フランジーヌは黙って口を引き結んで立っていた。
他の班も一杯いっぱいなのだ。そして、ミスが起きているのも、仕事が滞ってきているのも、他の班も同じなのに。
どうして自分にだけ当たられなければいけないのだろう。
「例の支援金のリストだが、そちらはもう任せると言った以上任せるから、できた分だけでも私のところに渡してくれ。尚早だが会議にかける。時間がないからもう同時進行で進めるしかない。いいか、我々には時間がないんだ」
「知っています。でも局長」
「なんだ?」
フランジーヌは口を曲げて続けた。
「私の机の前でこんなにたくさんおしゃべりしてくださったのは、初めてのことですね。あんなに議論や雑談は時間の無駄だと、普段すぐ行ってしまわれるのに。私、とてもうれしいですわ」
「……………」
ログリース氏はやや黙って見下ろしていた後で、何も言わずに行ってしまった。
自分でも無駄に話が過ぎたと思っているのだろう。疲れていなければ、彼はあそこまで人にしつこく絡むことはない。
「――レディに八つ当たりとはみっともない奴だ」
遠くで様子を見ていたリチャードが近寄って来て言った。
「俺からガツンと言ってやる。…まあ、彼は俺のいうことなんてほとんど聞かないんだけどな」
「あらうれしい。私を思いやってくれる男性はあなただけよ、ミスター・リチャード」
「いや、みんな君を心配してるよ。行動に移せるほど、今は余裕がないだけでさ…」
リチャードは疲れたようにため息をついた。
「あ、そうそう。さっき聞こえたんだけど、ルンデル商店街の工場跡地の売却の件は、ベックに回してやるといい。あいつの担当でルンデル商店街のものがあるから、ついでにちょうどいいだろ。ま、ついでにあと一、二件押しつけてやれよ。奴の班がこの中ではまだ一番マシだからな」
「アドバイスありがとう!それを聞いたら、喜んで彼に持っていくわ。――…ねえ」
ベックの元へ行く前に、フランジーヌはリチャードを振り返ってたずねた。
「局長は、誰かを認めるなんてことあるのかしら?」
「うん、あるよ。俺が知ってる限りでは数少ないけどね。その数はこの国にいる異国の希少生物キリンくらいかな」
「へえ、そう」
――…てっきり、彼は誰も信用も認めもしないのだと思っていた。
フランジーヌは予想外の答えに感心して言った。
「じゃ、この国に二人ぐらいはいるわけね?」
「あっ…そんだけしかいないの!?じゃ、やっぱりもうちょっといることにしておこう!まあそこに俺が含まれているかすら、怪しいんだけどさ」
「……そう。じゃ、私頑張ってみる。ありがとう」
リチャードは苦笑して言った。
「まだ見返すのあきらめていないのかい?頑張るね」
「もちろんよ。こうなったら彼に認めてもらうまで、私たとえおばあちゃんになってもずっとここに居続けて、働いてやるわ」
「じじいになったらもっと頑固になってそうだな、局長は」
「それはそうかも」
フランジーヌに新しい案件を三つ寄越されたベックは、一瞬天を仰いで、それから思い切り
「…あーっは!ははは!――もう笑っちゃうよ俺!」
とうとうおかしくなったように笑い始めてしまった。
「え?何?……ミス・フランにしては珍しい決断じゃないか。頑張り屋で努力家さんの君がなぜ、急に僕のところを頼ることに決めたのか、僕は今ちょっと戸惑い混乱しているんだけど……」
「ミスター・リチャードのご助言なの」
「――リチャーードっ!」
ベックは首をのばして向こうへ叫んだ。
「――俺、お前大嫌い…!」
「ああ、知ってる」
遠くからリチャードが笑い混じりに答えた。
「じゃ、お任せするわね。ミスター・ベック。あなたをとても頼りにしているの」
「……………」
ベックは恨めしそうにフランジーヌを見上げた。
「ミス・フランにそうやって頼まれたら断れないな、僕は…。うう、ミス・フラン。君はそうやって成長して僕を抜いていくんだね…」
「ありがとう。任せていいのね」
あっさりと言って離れるフランジーヌの後ろで、ベックがぶつぶつ言いながら職員にさっそく新しい案件の指示を出し始めた。
通りがかったログリース氏が、文句たらたらの彼を見咎めてしわい顔をした。
「ミスター・ベルカスト・トナー。不満をそのまま垂れ流したような顔はやめたまえ。疲れているのは君だけじゃない。みんな限界まで働いているんだ」
「あ、はい。承知しております。この顔は生まれつきです」
「いや、君はもっと爽やかな顔をした美男子だったはずだ。――ベルカスト、受けた以上はきちんとやり遂げてくれ。あと、引継ぎでは気をつけるように」
「ええ、分かってます。美男子も時にこういう顔をします」
本当に信用できるんだろうか、といった感じで頭を振って離れたログリース氏は、部屋の中央まで来ると手を叩いた。
「――さあ、もう一頑張りしてくれ。みな疲弊極まっているのは承知しているが、ここがこらえどころだ。さあ、ちょうどいいことに、この新しい局に集められた我々は、生え抜きの優秀な人間ばかりだ。私は諸君を信頼し、頼みにしている。きっと素晴らしい成果を見せてくれると信じているぞ。何かあればすぐ私に報告してくれ。以上だ。…では今日は外に出るので、これで失礼する」
慌ただしく部屋を出たログリース氏を見送った後、フランジーヌは渡し忘れた書類をベックに届けて言った。
「彼っていつ休むのかしら?彼はいつ来てもとんでもない量の仕事を把握してるのよね。不思議だわ」
「……局長?さあ、優秀な人間の頂点に立つ人間だがら、彼が一番優秀なのは、間違いないよね。自分でもそう信じてるさ。だからやり切れるんだよ」
ベックの言葉は冷ややかなものだった。
「――確かにそうかも」
特に、自分を一番優秀な人間だと信じているのだろう、という点は間違いなさそうだ。フランジーヌは同意して言った。
「…俺はね、平凡な男でもいいよ。…うう、今度リンドルアース侯爵の開く舞踏会があんのに、もうダンスする体力なんて絶対残ってないぞ」
「あら、私も今度のは行かなきゃいけないの。お悔み申し上げるわ。上手に誰かのお話し相手だけ務めたらいいわ」
「君はいいよね、元から誰とも踊らないんだから」
完全にベックはすねている。
「じゃ、私みたいにこれからずっと誰のダンスの相手もしなけりゃいいわよ。とても気楽になれるわ」
「何言っているんだ、ミス・フラン。そんなことできるわけないだろ。大顰蹙だぜ。みんなに後ろ指差されてこそこそ言われる」
「じゃあ、頑張って踊ってちょうだい」
笑ったフランジーヌに、ベックはよよと泣く仕草をする。
「紳士の辛き務めだな、これが。哀しき時も、体辛き時も、舞踏会にては淑女のお相手を勤めるべし。…肩痛いんだけどな、俺…。腕上がるかな」
何やら本気で心配している風な彼は置いておいて、フランジーヌはふと思いついたことをたずねた。
「局長はどういう方と踊られるのかしら?」
「彼?彼はあんまり人と踊らないよ。…まあ、さすがに相手によって断らない時もあるみたいだけど。だからお高く留まってるって言われるんだよ。まあ、それでも申し込みが絶えないんだけどね。…いいよな、国王にも好かれ、容姿の優れている方はうらやましい限りだよ」
「あら、あなたも女性に放って置かれない殿方でしょう、ミスター・ベック」
「――そうだよ!だから俺は今困ってるんだよ!…うぅ、肩が痛い…」
肩を押えたベックを見て、フランジーヌは気の毒な目で彼を見た。