十. 気まずい会話
――ログリース氏があきれているのが分かった。
無理もない。
この辺りはルンデルの中でも、少女の気を惹くようなお洒落な店が多い界隈だ。フランジーヌはそこで前方もろくに見ずにお洒落談義に花を咲かせていたあげく、まったく落ち着きも注意も払わずに紳士にぶつかって、みっともない取り乱し方をして見せたのだから。
この数か月一緒に過ごし、フランジーヌがなんとなく分かったログリース氏の性格として、彼は、見ばえだけの女性を大いに軽蔑するということだった。
特に、浮わついて、周囲もかえりみずおしゃべりに興じたり、外見にばかり注意を払って、人のことなど考えない女性が、彼のもっとも嫌う人らしかった。
ーーつまり今の自分だ。
(……ああ、なんか、最悪…。初対面の舞踏会の時といい、普段の仕事の時といい、今日といい、絶対この方にはいい印象を持たれていないわ…)
舞踏会の夜は、母の必死の努力もあって、普段のフランジーヌからは考えられないほど気合を入れてめかしこんでいたし、その上あの一人悪口大会だし、職場では誰かと議論になって声が大きくなるのを注意されること度々だしで、ログリース氏には、誤解もいれて、かなりの悪印象をもたれているのは間違いない、と確信するフランジーヌだった。
ログリース氏は、気のせいかいつも以上に冷え切った目をして、黙ってこちらを見つめた。
フランジーヌの方は、黙って立っている彼から、内に不快さを押しこめたようなその空気を感じとって、できるだけ丁寧に謝った。
…これはまずい。ここで黙り込んだら、かなり気まずい空気になってしまいそうな気がする。フランジーヌは仕切り直すために、急いで言った。
「――あの…今日はこんなところでお会いするなんてとても驚きましたわ。ご機嫌よろしく…。…局長、それにミスター・リチャード」
一応スカートをつまんで礼をすると、それと同時にログリース氏も一応お辞儀していた。彼は言った。
「そちらも、ミス・ストレイナー。奇遇だな。――…そちらの方は?」
ちらりとセシリアに目を向けられ、フランジーヌは慌てて紹介した。
「私の幼い頃からの友人の、ミス・セシリア・ガネットです。――セシリア、こちらは私の勤めている局長の、ミスター・ログリースよ。…ミスター・ログリースは、頼もしくてとても理解力のある上司なの」
なんでとってつけられる紹介というものは、往々にして事実と真逆のことを言ってしまうんだろう。
続いてリチャードを紹介しながら、フランジーヌは余計なことは言わなければよかったと後悔しつつ、冷や冷やしてログリース氏を伺った。
「――どうも、お会いできて光栄です、ミス・ガネット」とログリース氏。
「こちらこそですわ。ミスター・ログリース。お噂はかねがね伺っておりましたわ」
「ほう。ミス・ストレイナーからですか?」
「ええ。それに、社交界のお噂でも」
「よくない噂でしょう。知っています」
彼がそう言いながら、うっすらとだが微笑んだのを見て、フランジーヌは驚愕した。
…いや、ログリース氏だって、社交の場ではご婦人の前で微笑むことぐらいあるだろう。
しかし、一瞬のうっすらとした微笑みでさえ、(まあ少々上辺っぽい冷たさが見え隠れしていたとしても)とびっきり魅力的に見えるのに、普段の彼はあのようにいかめつらしい顔をして怒りを漂わせ、職場をねり歩いているのだ。
その落差にフランジーヌは当惑せざるをえなかった。
(…いつもこういう風に愛想よくしていてくださらないかしら…。……まあ、無理よね。かえって局のみんなが凍りついてしまいそう。しかめっ面が局長の標準顔になっているのに、そんなことしたらかえって恐怖と混乱を振りまくわ)
セシリアとログリース氏は社交的な会話を続けている。
「まあ、とんでもありませんわ。私が見た通りの、ご立派な紳士ですもの。みなさんが非をおっしゃるわけがありませんわ。むしろ、あなたに向けられているのは、羨望とあこがれの言葉ですのよ、ミスター・ログリース」
「そんなはずはありません。あなたは優しいからそうおっしゃるのでしょうね。――リチャード、彼女はとんでもなくお優しいご婦人のようだ」
ログリース氏はそつなく友人に会話を回した。
リチャードが返した。
「そうだな。大体、外国で知らんぷりを決めこんでいた君の噂なんて、社交界で聞くことすら珍しかったし、近頃ようやく聞くようになっても、まあひどいものだからな。ご婦人に冷たくしたこと、誰にも打ち解けないこと、みんなで楽しむのに加わらず、一人で行ってしまうこと…――」
「その噂はお前が流しているんじゃないか?」
「まあ、半分は。それもこれも、火のないところに立たないたぐいの煙、もとい噂ではないかと思うがね。そもそも君の一級の冷たさは、俺が流した噂じゃないぜ。君から湧いた煙だろ」
「――まあ、どうしてそんなことおっしゃるの。ミスター・リチャード」
セシリアが助け舟を出した。彼女はいかにも淑女然として、非難するようなまなざしをリチャードに向けた。
「大切なご友人にそんなことをおっしゃるなんて…!あんまりあまのじゃくが過ぎますと、今にご友人をなくしてしまわれますわよ」
「だ、そうだ。本当にミス・ガネットはお優しい。我が薄情な友人とは比べようもなく温かい方だ」
ログリース氏が少し口端をまげて皮肉って言うと、リチャードは負けじと返した。
「ほう。君はこの大切なご友人をつかまえて、薄情と言うんだな?」
「自分で言うかな」と呟くログリース氏に、
「ああ、いいぞ。ここは公平な意見を聞いてみようじゃないか。――我らの共通の友人、ミス・フランにね」
話を振られたフランジーヌは、一瞬言葉を詰まらせたが、
「…最初に申し上げたじゃありませんの。私、局長をこれ以上頼もしくて信頼できる方はいないと思っていますのに。この素晴らしい局長のことを冷血漢だと言う人がいるだなんて信じられません。そんな噂を流す人がいたら、それこそ、ごく限られた人に決まってますわ」
「例えば?」ログリース氏がうながすと、
フランジーヌはリチャードの方を見ながら、
「…さあ、例えば……ミスター・リ――」
「ああ!分かったよ。ミス・ストレイナー!君も裏切者だってことがな!」
かぶせるようにリチャードが叫ぶ。
「君を信頼していたのに…!俺を、友人の悪評をばらまいて楽しむ卑劣で最悪な男に仕立てあげたいんだな!…残念ながら、その言葉は少しだけ真実を含有しているっ!」
「やっぱりそうだろう」
と、冷ややかに言うログリース氏。彼はそれから薄く笑った。
「君が流した噂なら、誰も取り合わないだろう。むしろ構うことはないという気にさせてくれるね」
「今ひどいことを言わなかったか?ジャビス」
友人を名前で呼びながら、リチャードはうなった。
「――ところで、あなた方はこれからどこへ行かれるのですか?これから何かご用事が?それとも、ご用事は済んだところですか?」
ログリース氏が、話題を変えてセシリアにたずねた。
「ええ、買い物ですけど、もう済みましたの。友人の用があったものですから」
セシリアが答えた。
「それは素晴らしいな。買い物を楽しめるのは女性ならではの特権ですよ。こう言うと、大体のご婦人からは非難されますがね」
リチャードが言った。
「そうですわね、殿方には時々退屈でしょう。でも、買い物は、私たちにはこの上ない楽しみなんですのよ」
「本当か、信じられないなぁ。まあ、ご満足ならいいんですが。ご婦人というのは、行事の度に装いを新たにして来ますからね。あれには感心も驚きもしますよ。こう言うのが的確か分かりませんけど、装いへのすごい探求心です」
「ええ、ですけど、それにも理由がありましてよ。殿方は、見飽きた女性より、新しく出会った新鮮な女性に惹かれると度々聞きますもの。装いを新たにしますのは、私たちなりの、紳士の方々をお引き留めする、涙ぐましい努力ですのよ」
セシリアの手にかかれば、お洒落も立派な大義名分を手に入れられるらしい。フランジーヌはこの手の話題にはあまり興味がないので、ただ感心して聞いていた。
「そう言われると我々男としては困りますね。では、ミス・ガネットも、舞踏会の度に新しいご自分を見せてくださるんですか?それなら、あなたのいらっしゃる舞踏会があるなら、今度ぜひ顔を出しますよ。舞踏会も楽しみになるなぁ。僕に舞踏会の楽しみを毎回用意してくださるなんて、素晴らしい方ですね」
「あら、言わなきゃよかったですわ。自分でとんでもなく期待をあげてしまいましたわ」
リチャードに軽妙に返すと、セシリアは今度は横の友人へ目を向けた。
「…でも、今度ピクニックに行く彼女には、うんと素敵な装いをして行ってほしいんですの。華美過ぎるのはいけませんけど、やはり淑女には装う楽しみがありませんと。ミス・フランはそうしたことに無頓着ですから」
「ミス・ストレイナーが?そうでしょうか」
少し疑問を挟みながら、ログリース氏が会話に加わった。
あ、やっぱりこの人に誤解されてるんだわ、と思いながら、フランジーヌは答えた。
「ええ、ミス・セシリアはそう言うんです。でも、気楽なピクニックですから、気取って装いのことなど考えず、気楽に、思い切り楽しむのがみんな望んでいることだと思います」
「親しいご友人と行かれるのかな?楽しみだね」
ログリース氏がいかにも社交辞令的に返すと、セシリアが割って入った。
「ええ、局のご同僚の、ミスター・キットとそのご友人たちと行くんですわ。楽しそうな計画で、とてもうらやましいわ」
(――…ちょっと、なんでしゃべるのよ。そこはしゃべらなくてもいいのに)
フランジーヌは一瞬眉をひそめて目を送ったが、セシリアは気づかないように前を向いている。
「――ミスター・キットと?」
「えっ、そうなの?」
紳士二人はそれを聞いて驚いた顔をした。
「へえ…知らなかったなあ。ライオネルとミス・フランは、そんなに親しいイメージがなかったけど」
「…あの、すごく親しいというわけじゃ…。でも、とても楽しそうな計画なの。よければ、ミスター・リチャードも一緒に……――」
フランジーヌが言い訳がましくリチャードに言うと、
「ああ、俺はいいよ。…へぇ、ライオネルかあ。あまり彼の交友関係は知らないんですよね。ご友人って誰でしょうね?どなたが来るんでしょうか?」
リチャードは誰にでもなくたずねた。
リチャードの交友関係とライオネルのそれは、全然かぶっていないようだった。
リチャードはライオネルの友人が誰なのか、興味しんしんの様子だ。貴族というのは横の交友関係を気にするところがあるので、彼もそれに関心があるらしい。
「ミス・フラン。よければその愉快そうな話を、後で俺にも報告してくれないかな。興味があるよ」
リチャードに言われ、内心しぶしぶだったが、フランジーヌはうなずいた。
「…えぇ、分かったわ。きっとご報告するわ」