受験と大川と熱帯魚
今回のお題は「知らぬ間の熱帯魚」、必須要素は「予備校」でした。
かりかり、と鉛筆の音が響く。
僕のクラスは、センター試験が間近に迫った今、みんな、休み時間も顔を上げずに単語帳をめくっているようなクラスだった。
今は自習時間だけど、もちろんしゃべり声やふざける様子はない。
国立最難関を志望する人が集められたこのクラスでは、推薦などで受かった人はほとんどおらず、みんな必死だった。何かに追われるように勉強をしていた。まあ、実際、時間に追われてはいたのだ。
そんな状況だからか予備校に通う奴も少なくなかったが、僕は自力でなんとかしようとしていた。
馬鹿みたいだと自分でも思う。だけど、母親は予備校など必要ないと思い込んでいるのだった。
いくら中学校の頃成績が良かったとはいえ、この高校に来た時点で中の上になり、このクラス内であれば、せいぜいが中の下であるというのに。
母親はそれを、僕の努力不足だという。頭はいいはずなのに、何をしているの、と言う。
そういえば、と顔を上げる。窓際の席、一番前。
みんなが必死に問題集の空白を埋めている中、大川水穂は紙パックのココアをぼんやりと飲んでいた。勉強になんて興味がない、という顔をしていて、必死で勉強している様子は微塵もないのに、彼女の成績はクラスの上の中をキープしている。確か彼女も予備校には通っていないはずだ。
手にできたペンだこを親指でこすりながらしばらく彼女を見つめていると、視線に気が付いたのか、大川がストローをちゅ、と口から離した。
焦げ茶色になったストローをこちらに向けて、「飲む?」と無音で唇を動かす。
僕はうつむいて首をふり、もう一度単語帳に向かった。reject。decline。abandon。単語帳には暗い単語ばかり並んでいるようだった。暗い単語でもでも覚えなくてはならないのが苦痛だった。
□■□
センター試験はほどほどだった。悪くはないけど、第一志望には足りないくらい。第二志望にぎりぎりなくらい。
自己採点日である今日は、クラスの半分くらいの人が泣いていた。明るい顔をしていたのはほんの少数で、僕はどっちでもなかった。やっぱりね、と静かに考えていた。
みんなが帰った後の教室で、僕は閉じたままの単語帳をぼんやりと見つめた。
このまま第一志望は変えずに行くのか。落ちることがほぼ確定していても、頑張ります、と言えるのか。それとも志望校のレベルを落とす?
教師が呪いのように僕に刻み込んだ「浪人なんかするもんじゃない」という考えがぐるぐると頭の中を回っていた。
この考えは一年生の頃から生徒全員に言い聞かされてきたことだった。たぶん、学校の合格率を落としたくないという先生方の考えもあったのだろうけど、僕らにとっては「浪人する」というのは落ちこぼれの代名詞のような意識だった。
わざと浪人して上を目指す、なんて人もいないことはなかったがほんの少数で、みんなその人をなんとなく避けた。自分とは違う人間だと、そう考えていたように思う。
突然、からり、と軽い音を立てて教室のドアが開いた。
「あれ、秋野、まだ残ってたの?」
右手にラベルをはがした、水の入ったペットボトルを、左手に銀色の保温シートを持った大川だった。
「ううん、もう、帰るよ」
鞄をとって単語帳をしまう。がたん、と椅子を引いて立ち上がった時に、それは目に入った。
「……熱帯魚?」
「そうだよ、気づいてなかったの?」
大川は淡々と答えながら、水槽のそばにペットボトルを置き、そばに据え付けられていたヒーターの電源を入れ、保温シートで水槽をくるんだ。ペットボトルに入っていたのは水ではなく、お湯のようだった。
「昼間は暖房入ってるけどね。夜は寒いから」
「それ、大川が世話してるのか?」
「うん。10月くらいからずっとここに水槽あったでしょ」
「……気づいてなかった」
「秋野、ずっと下向いてるからさ」
「大川、は」
自然と口をついで出る。
「予備校、行かなかったのか」
「うん? 行ってないよ?」
センターもそんなに悪くなかったし、来年行くこともなさそう。
そういって大川は不思議そうに首を傾げた。
「秋野も行ってないよね?」
「……来年、行こうかと思う。第一志望、に、足りなさそう、だから」
「そう」
たった今決めたことだけれど、僕は確実に浪人する。
浪人して、第一志望を目指す。
だけど、大川は、それを軽蔑しない。馬鹿にもしない。僕を違う人間だと考えたりしない。
大川は、僕を「落ちこぼれ」だとは思わない。
「頑張って。諦めちゃダメだよ」
「おう」
予備校に行ってなくても、勉強に必死じゃなくても、一人で熱帯魚の世話をしていたとしても。
大川は、きっと、受かる。
大川は、熱帯魚を背にして、にっこりとほほ笑んだ。